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東京の皇居前には、二体の銅像があります。
武官からひとり、文官からひとりです。
この銅像となっている二人が、日本の歴史に残る二人の英雄です。
武官が楠正成(くすのき まさしげ)です。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての河内の武将です。
鎌倉幕府に抵抗し、最後まで勤王をつらぬいたことから、明治以降「大楠公」(だいなんこう)と称されました。
文官が和気清麻呂(わけのきよまろ)です。
奈良時代末期から平安時代初期に活躍した貴族です。
勤王をつらぬき、時の権力者から天皇を守った英雄です。
そこで今日は楠正成を、明日、和気清麻呂を書いてみたいと思います。

楠正成は、実は出自は、まるで謎の人物です。
日本史上、これだけ有名でありながら、これほど出自が謎に包まれた人物はほかにいないくらいです。
楠正成が、確かな実像として捉えられるのは、元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年ほどの間だけなのです。
ただ、歴史上に現れる日本を護るために命をかけて戦う人は、実際には歴史に名が残り、出自の明らかな人物よりも、草莽の志士たちがほとんどでもあるわけです。
そういう意味では、楠正成の出自など、その後の正成の命を賭けた戦いを考えれば、どうでも良いと言っていいものであるといえるのかもしれません。
どこの馬の骨であろうが、日本人として、日本のために誠実を尽くすこと。
そのことこそが大事なのだという、これもまた歴史の教えなのかもしれません。
わかっているのは、楠正成は、もともと河内一帯を中心に、水銀などを流通させていた豪族であったようだ、ということです。
この水銀の利権をめぐって、楠の家が幕府と対立し、これがきっかけで天皇方に付いたという説もあるようですが、真偽は不明です。
時は、鎌倉時代の末期です。
元寇から半世紀が経ち、幕府の権威も失墜し、執権の北条高時は、政治への興味をなくし遊興三昧の日々を送っていた、そんな時代です。
幕府の財政悪化から民は重税に苦しみ、世の秩序も乱れに乱れていたといいます。
すこし補足します。
鎌倉政権はもともと源氏政権ですが、源氏はもともと相続財産は均等配分制です。
現代日本と同じで、兄弟が5人いれば、財産は仲良く5等分して相続します。
ところがこれをやると、5〜6世代を経由したとき、領主がどんなに大きな財産を持っていたとしても、土地が分割されて、ひとつひとつの田んぼや畑が猫の額ほどになり、誰もが飯が食えなくなってしまうのです。
土地は広大であれば高度活用が可能になりますが、小さく細分化されてしまったら、誰もが貧乏になるのです。
だから鎌倉御家人たちは、鎌倉末期にはみんな借金まみれになりました。
やむを得ず幕府は、借金棒引き令としての徳政令を出しますが、これは一言で言ったら幕府による武家全部の破産宣告みたいなものです。当然、幕府の権威も御家人の権威も失墜する。
権威が堕ちれば世の中は荒れます。
だからこうした均等配分方式の財産相続のことを、昔は「タワケ」と言いました。
「たわけ者め!」の「たわけ」です。
「たわけ」は、「田分け」です。
みかねた後醍醐天皇は、元弘元(1331)年、幕府打倒を目指して京都で挙兵しました。
これを後醍醐天皇が権力を目指したなどとアホな解説をしているものを見かけますが、全然違います。
天皇は我が国の最高権威ですから、権力を必要としません。
天皇はいわば無の存在です。
ですからこのときに起きたことは、後醍醐天皇の周辺にある政治権力者が、後醍醐天皇を奉じて「もう幕府に政治を委ねているのは限界である」として挙兵したということです。
このことは、誤解を招きやすいのですが、実質的に国内を取り仕切っているのが幕府であるとしても、幕府はあくまでも朝廷の一機関でしかないというのが、その位置づけです。だから「幕府」です。
その幕府が政権担当能力を失えば、朝廷が改革に乗り出すのはあたりまえのことで、ところがそのことは幕府の側からすれば、幕府権力の失墜を意味します。
だから幕府を担ぐ北条氏は、武力を用いてこれに抵抗したわけです。
財政運営に失敗した鎌倉の北条氏にしてれみば、もはや頼りになるのは軍事力しかなかったのです。
このことは、幕府によって土地の私有を承認されている御家人たちの利害とも一致しました。
政権が朝廷に戻るということは、ふたたび公地公民制のもとに置かれるということです。
つまり土地の私有が制限されて、あらためて土地が統合されることを意味します。
すると小なりといえども、自分の私有地が失われる。
御家人たちにしてみれば、死活問題なのです。
だから御家人たちは、世の中の乱れを憂いながらも、倒幕となると恐れをなしています。
楠正成は、そういう意味では、水銀商人ですから、個人として土地問題を抱えているわけではありません。
それだけに「田分け」によってどうにもならなくなった国内事情を、もういちど整理統合して、みんなが食える世の中に戻そうという朝廷方の意見や理想に、共鳴することができたし、だからこそ楠正成は、後醍醐天皇のもとに馳せ参じています。
このとき楠正成、37歳です。
後醍醐天皇は、楠木正成に、
「勝てる見込みはあるのか?」と質問しました。
正成は、
「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありません。しかし知謀を尽くし策略をめぐらせば勝機は生じます」と答えています。
そうはいっても正成の兵力はわずかに500余騎です。
これに対し幕府は、数万の大軍を差し向けています。
鎧兜に身を包み、きちんと武装した幕府軍に対し、正成軍の将兵は、まるで野武士の集団です。
兜なんてありません。上半身が裸の者も多いです。
粗末な山城を見た幕府軍の武将は
「こんな急ごしらえの城など片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。せめて1日でも持ちこたえてくれねば恩賞に預かれぬぞ!」と声を荒げました。
幕府兵は、総員総攻撃を敢行しました。
兵が攻撃を始め、城の斜面を昇り始めました。
ところが、兵が斜面を埋めた瞬間・・・・
ドドンという音とともに、突然、城の外壁が崩れ出します。
幕府兵の頭上に、岩や大木が地響きをあげて転がってきます。
1対1で戦うことを名誉とする鎌倉武士と異なり、武勲にこだわらない地侍たちは、集団での奇襲作戦を行ったのです。
この初戦だけで、幕府側は700名も兵を失ってしまいます。
そして、楠木正成軍は、藁人形であざむく、熱湯をかける、熱した糞尿を頭からかける(まさに焼け糞です)など、奇策に奇策を重ね、幕府軍を翻弄しました。
やむなく幕府軍は、力押しをやめて、いったん兵を引き、城を包囲して持久戦に持ち込みました。
山城にとどまる正成軍の食料は、20日で底をついてしまう。
このままでは、飢え死にするほかない、となったそのとき、京で後醍醐天皇が捕らえられたと急報が入りました。
正成は城に火を放ち、火災の混乱に乗じて抜け道から脱出し、行方をくらまします。
猛烈な火災に、鎌倉幕府側の武将たちは、誰もが「正成は武士の伝統に従って炎の中で自刃した」と考えます。
そして、「敵ながら立派な最期だった」と言い合ったそうです。
このように従来の価値観で動かず、舌を出してさっさと逃げているところが、型に収まらない正成の正成たる由縁で、後世、特に江戸期に楠木正成は大人気となります。
これが有名な「赤坂城の戦い」です。
*
翌元弘2(1332)年、赤坂城の攻防戦から1年が経った頃、再挙兵の仕込みを完璧に仕上た正成が姿を現しました。
当時の気分としては、
「天下の大悪党ここに現る!」という感じだったようです。
北条氏は、討伐のために、鎌倉幕府最強とされる先鋭部隊を差し向けました。
楠木正成側の兵力は、このとき幕府精鋭部隊の4倍です。
臣下は「一気に踏み潰しましょう」と正成に進言します。
しかし正成は、「良将は戦わずして勝つ」と提案を退け、謎の撤退をします。
幕府の精鋭部隊はもぬけの殻になった天王寺をなんなく占領しました。
ところが夜になると、天王寺は何万という“かがり火”に包囲されたのです。
兵士達は緊張で一睡も出来ないまま朝を迎えました。
しかし夜が明けても正成軍に動く気配はありません。
そして次の夜になると再び無数のかがり火が周囲を包囲します。
「いつになれば正成の大軍は総攻撃を始めるのか…」
4日目、精神的&肉体的に疲労の極致に達した幕府兵は、ついに天王寺から撤退します。
実は、このかがり火は「幻の大軍」で、正成が近隣の農民5000人に協力してもらい、火を焚いただけのものでした。
正成軍は一人の戦死者を出すこともなく勝利しています。
翌元弘3(1333)年2月。
幕府は8万騎の大征伐軍を編成し、目の上のタンコブの正成追討を図りました。
迎え撃つ楠木正成の軍団は、わずか千人です。
楠木正成は、山奥の千早城(いまの大阪府南河内郡千早赤阪村千早の辺り)に篭城しました。
幕府軍はこれを包囲したものの、正成の奇策を警戒するあまり近づくことが出来ません。
2年前の赤坂城と同様、兵糧攻めが一番と、千早城を取り囲みます。
ところが今回は勝手が違いました。
幕府方は、なまじ8万もの大軍であるがゆえに、先に餓えたのは、包囲している幕府軍だったのです。
正成の作戦は、目の前の大軍と戦わずに、その補給部隊を近隣の農民達と連携して叩き、敵の食糧を断つという、
「千早城そのものが囮(おとり)とする」という前代未聞のものだったのです。
山中で飢餓に陥った幕府兵に対し、抜け道から城内へどんどん食糧が運び込まれていた正成軍は、3ヶ月が経ってもピンピンしていました。
やがて幕府軍からは数百人単位で撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れになりました。
これが「千早城の戦い」です。
*
8万の幕府軍がたった千人の正成軍に敗北した事実は、すぐに諸国へと伝わりました。
「幕府軍、恐れるに足らず」
これまで幕府の軍事力を恐れて従っていた各地の豪族が次々と蜂起し始めました。
そしてついに、幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞などの源氏直流の大物豪族たちが公然と反旗を翻し出したのです。
足利尊氏は、京都の幕軍を倒し、新田義貞は、鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取りました。
ちなみに楠木正成は、赤坂城の戦い、千早城の戦いの後日、敵・味方の区別なく、戦没者を弔うための供養塔(五輪塔)を建立しています。
高僧を招いて法要もとり行なっています。
この供養塔で、彼は「敵」という字を使っていません。
代わりに「寄手(攻撃側)」という文字を使いました。
そして寄手塚の塚を、味方の塚よりひとまわり大きく築造しています。
味方の勝利におぼれ、敵のことなどいっこうに顧みない戦国武将が多い中で、こうした楠木正成の誠実な人柄は、際立ちました。
この供養塔は、現在も千早赤阪村営の墓地に残っています。
楠木正成は、同年6月、隠岐へ流されていた後醍醐天皇を迎えにあがり、都への凱旋の先陣を務めました。
翌建武元(1334)年。
後醍醐天皇は朝廷政治を復活させ、建武の新政をスタートさせました。
楠木正成は、土豪出身でありながら、河内・和泉の守護に任命されています。
ところがこのとき朝廷は、天皇主導の下で戦のない世の中を築こうという理想のもとに、恩賞の比重を公家に高く置き、武士の恩賞を低くしました。
さらには、早急に財政基盤を強固にする必要があるとして、庶民に対して鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課しました。
その結果はすぐに出ました。
諸国の武士が反発し、建武2(1335)年11月、足利尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵するのです。
京へ攻め上った尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇方の武将が迎え撃ちました。
尊氏軍は大敗を期し、九州へと敗走します。
しかし楠木正成は、この勝利を単純に喜ばなかったといいます。
なぜなら、逃げていく尊氏軍に、朝廷方から多くの武士が加わり、一緒に去っていったからです。
「天皇方の武士までが、ここまで尊氏を慕っている・・・」
このとき新政権から人々の心が離反した現実を痛感した正成は、戦場から戻ると朝廷に向かい、後醍醐天皇に、涙ながらに進言しています。
「どうか尊氏と和睦して下さい」
ところが公家達には、正成の誠意が通じない。
「なぜ勝利した我らが、尊氏めに和睦を求めねばごじゃらぬのか。正成は不思議なことを申すものよの」
正成は、公家たちに嘲笑され、罵倒されます。
建武3(1336)年4月。
いったん九州に疎開した後、多くの武士、民衆の支持を得た尊氏が大軍を率いて北上を開始しました。
朝廷は、「湊川で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じました。
湊川というのは、いまの神戸です。
「討伐」といっても、今や尊氏側の方が大軍勢です。
正面からぶつかっては勝てるものではありません。
楠木正成は、
「私は河内に帰って兵を集め
淀の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めします。
帝(みかど)は比叡山に移ってください。
京の都に尊氏軍を誘い込んだ後、
北から新田軍、南から我が軍が
敵を挟み撃ちすれば勝利できましょう」
と進言しました。
ところが公家たちは「帝が都から離れると朝廷の権威が落ちる」と反対して案を却下します。
有事と平時の区別がつかなかったのです。
失意の中、楠木正成は、湊川に向かって出陣します。
このときすでに朝廷方の求心力は無きに等しいものとなっています。
尊氏軍3万5千に対し、正成軍はたったの700だったのです。
戦力差は何と50倍です。
正成は決戦前に遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書き送りました。
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この戦いで我が軍は
間違いなく敗れるでしょう。
かつて幕府軍と戦った時は
多くの地侍が集まりました。
民の心は天皇と通じていたのです。
しかしこの度は、
一族、地侍、誰もこの正成に従いません。
正成、存命無益なり・・・
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彼はこの書状を受け取った天皇が、朝廷内の改革革新を行ってくれることを心から祈ったのです。
けれど、それをすることは、天皇にはできない相談でもあったのです。
結局、朝廷内に人物がいなかった、ということです。
5月25日。
湊川で両軍が激突しました。
海岸に陣をひいた新田軍は、海と陸から挟まれ、あっという間に総崩れとなりました。
このため新田軍は、正成に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵までいる始末です。
最早、戦力の差は歴然としています。
誰もが、即座に勝敗がつくと思われました。
ところがここで不思議なことが起こります。
敵の総大将である足利尊氏は、楠正成軍に対して戦力を小出しにするだけで、なかなか総攻撃に移らないのです。
これには理由がありました。
尊氏にしてみれば、今でこそ両者は戦っているけれど、3年前には北条氏打倒を誓い合って奮戦した同じ同志なのです。
楠正成ほどの男を失うのは、いかにしても惜しい。惜しすぎる。
ですから足利尊氏は、何とかして正成の命を助けようと、正成へ再三降伏勧告をしました。
しかし、正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返しました。
このままでは足利尊氏軍の損失も増える一方です。
ついに尊氏は一斉攻撃を命じました。
6時間後・・・・
楠正成は生き残った72名の部下とともに民家に入りました。
そして死出の念仏を唱えて家屋に火を放ちました。
その炎の中で、全員が自刃しました。
正成は弟・正季と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺しちがえました。
享年42歳でした。
このとき正成が、弟正季ら、生き残った一族郎党と誓い合った言葉としていまに伝えられているのが「七生報国」(しちしょうほうこく)です。
旧字体では“七生報國”と書きます。
最期をさとった正成が、弟正季に「何か願いはあるか」と問いかけたとき、正季が答えたのです。
「七生まで人間に生れて朝敵を滅ぼしたい」
これを聞いた正成は、
「いつかこの本懐を達せん」と誓ったと伝えられています。
正成の首は、一時京都六条河原に晒されました。
けれど死を惜しんだ足利尊氏の特別の配慮で、彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられています。
尊氏側の記録(『梅松論』)には、敵将・正成の死が次のように書かれています。
****
誠に賢才武略の勇士とは
この様な者を申すべきと、
敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける。
****
尊氏没後、室町幕府は、北朝の正当性を強調するために、足利軍と戦った正成を『逆賊』として扱いました。
このため正成は、死後300年近くも「朝敵」の汚名を着せられたままとなりました。
たとえ胸中で正成の人徳に共鳴していても、朝廷政治より武士による支配の優秀さを説く武家社会の中で、後醍醐天皇の為に殉じた正成を礼賛することはタブーとされたのです。
その楠正成を、再び世に出したのが、水戸黄門で有名な、水戸光圀です。
光圀は、元禄5(1692)年、大日本史を編纂中、水田の中にあった小さな塚に正成の偉業を称え建立し、
「嗚呼忠臣楠子之墓」
と自書した墓碑を建立しています。
ちなみにこのときの工事監督をしたのが「助さん」として有名な佐々介三郎です。
光圀は、
「逆賊であろうと
主君に忠誠を捧げた
人間の鑑であり
全ての武士は
正成の精神を
見習うべし」
と述べ、正成の名誉回復に努めました。
たとえ逆賊の汚名を着ても、主君に忠義を捧げつくす。
楠正成は、大東亜戦争を戦い抜いた若き日本軍の将兵に「皇国の最大の英雄」と慕われ、
「七生報国」は、「忠君愛国」「滅私奉公」とともに、旧日本軍日本人の精神として受け継がれました。
人間魚雷「回天」出撃の際には、正成の軍旗に記されていた文字「非理法権天」と書いたのぼりが掲げられ、その本体には楠一族が用いていた紋所の「菊水」が描かれました。
「非理法権天」というのは、
*
非は理に勝たず
理は法に勝たず
法は権に勝たず
権は天に勝たず
*
という意味です。つまり、天命のままに動き、人は天に逆らうことはできない。だから人は天道に従って行動すべきである、というものです。
人を思いやり、和をもって尊しとなすのが日本の文化です。
たとえ相手が自分より数十倍上回る敵であっても、勇猛果敢に戦いに挑む。
そしてその誇りと精神を守るために、「七生報国」を合言葉に命を捧げられた英霊が246万柱、靖国神社に祀られています。
私たち現代を生きる日本人は、そうした先人たちの心に恥じない日本を後世に繋いでいかなければならないと思います。

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