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20151216 金山巨石群

先日、ハンドルネームてっさんさんから、コメント欄でご紹介いただいたのですが、岐阜新聞がおもしろい記事を紹介してくださいました。
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グレゴリオ暦と一致か 下呂市の金山巨石群
岐阜新聞 2015年12月12日 09:29
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20151212/201512120929_26303.shtml
岐阜県下呂市金山町岩瀬の県指定史跡で、縄文時代の天文台とみられている「金山巨石群」を調査している金山巨石群調査資料室は11日、現代と同じ太陽暦の「グレゴリオ暦」に基づいた観測ができる可能性が極めて高い、との調査結果を発表した。
金山巨石群は推定4500年以上前に造られたとされる。
高さ9~10メートルの岩が折り重なり、岩と岩の隙間から差し込む太陽光の位置や大きさなどから暦を読み取ったとされる。
同資料室によると、巨石群にある3カ所の遺跡のうち、岩屋岩蔭遺跡巨石群内部の特定の石の端に、4年周期で10月15日に長さ約10センチの光が当たることを観測。
さらに国立天文台が示す太陽高度のデータと照らし合わせた結果、128年周期で10月15日に観測できるはずの光が差し込まず、平年は光が当たらない2月26日に光が観測されることが分かった。
そのため縄文人は光の変化によって4年周期の閏(うるう)年、128年周期で訪れる約1日分の暦のずれを知っていたと考えられるという。
資料室代表の小林由来さん(67)=同市金山町金山=は、
「16世紀に欧州で導入された暦が、そのはるか昔の日本で観測・解明されていたとすれば驚くべきこと」と話している。

20151208 倭塾・動画配信サービス2


20151216 金山巨石群で暦の観測に使われていたと推測される石と石棒

巨石群内からは差し込む光の形と同じ形状に加工された石、石棒なども見つかっている。
小林さんは「稲作をしていない縄文人がなぜここまで正確な暦を知ろうとしたのかは分からないが、変化の少ない時代背景が長期間の観測を可能にしたのではないか」と推察する。
【グレゴリオ暦】
現行の太陽暦として世界各国で用いられている暦法。1年の長さは365日と5時間48分46秒のため、4年に1度閏(うるう)年を加えていくと、128年周期で約1日分のずれが生じる。
そのため、グレゴリオ暦では400年の間に3回閏年を外すことで、時間のずれを修正している。

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すごい発見として報道されました。
けれど実は地元では、すでに古くから「ここは天体観測所」であったのだという言い伝えがあったのです。
「なぜなら、ここはかくかくしかじかで、このように使われていたのだから」とも言われていたのです。
そして実際、差し込む光の形と同じ形状に加工された石や石棒まで出土していたのです。
ですから、観測のために用いたというのは、間違いのないことであったろうし、外国からも研究者の方がやってきたりもしていました。
つまり、日本国内よりも海外でのほうが有名なほどであったのです。
それが国内では、いまになってようやく、地方紙の片隅で報道され、それがネット上でも報道されたということです。
4500年前といえば、山形県舟形町の西ノ前遺跡で発見された、高さ45cmの「縄文の女神像」よりも、200年位あとの時代です。
日本では、11万年前には石器が使われ、3万年前には加工した磨製石器(世界最古)が使われ、1万6500年前には世界最古の土器がつくられ、1万3000年前には、人の形をした土偶がつくられ、1万2500年前には、漆が栽培され、使われています。
気温からすれば、西日本が熱帯だった時期が終わり、急速に寒冷化が進んだ時代でもあります。
わずか1500年の間に、年間平均気温が4度も下がり、止まない大雨が降り続いた時期でもあります。
ノアの方舟伝説が生まれたのも、ちょうどこの頃と言われています。
急速な気象変動は、植物体系を大きく変えます。
自生する植物が熱帯性から寒帯性に変わるのです。
食べ物も変わらざるをえない。
なぜこのような変化が起きるのか、先々がどのようになるのか。
そのために陰暦だけでなく太陽暦も併用するなどして、生き残りのために必死になっていろいろな物事の研究すすめるのは、当時の政治にとって大きな役割であったろうと思います。
それにしても、これだけの巨石です。
しかも「128年周期で訪れる約1日分の暦のずれ」の確認ができるように工夫が凝らされているわけです。
いったいどうやって加工したのか。
そもそもこのように大きな巨石を、どこから運んできたのか。
どうやって配置したのか。
これだけの微細な精度を、どうやって確保したのか。
興味は尽きません。
そもそも日本は地震大国なのです。
巨石を配置し、積み上げ、削り、地震があっても観測精度が落ちないようにしてあるわけです。
ものすごい技術力だと思います。
謎は深まるばかりです。
さらにこの巨石群には、さまざまな彫り物があります。
それは天体観測のための印であったり、あるいは曲線を多用した不思議なカタチをしたりもしています。
かなり風化が進んでいますが、それでもある程度は肉眼でも確認できるものです。
それらは実は模様ではなくて、神代文字かもしれません。
そもそもこの岐阜県の飛騨の高山から下呂に至るあたりは、古代において、日本列島の西日本が熱帯であった頃、日本の中心地であったという説があります。
ここから天の鳥船が世界に向けて飛び立っていたという伝説も残されているくらいです。
地球全体の気温が高かった頃、北極と南極の氷が溶け、海水面がいまより5〜6メートル高かったのです。
西日本は熱帯で暑すぎるし、ですから飛騨の高山のような高地が、人類の生存にはもっとも適した安定した気候の土地だっったというのです。
これは地球の長気温変化云々が判明するよりもずっと古い時代からの言い伝えです。
そもそも古事記を諳んじた稗田阿礼(ひえだのあれ)の稗田は、もともとが「ひだ(飛騨)」という姓であったという説もあるくらいです。
つまり、飛騨が日本の中心地で、日本の統治者(うわかたさま(上方様))が飛騨におわした、という伝承があるわけで、そうであれば、この地に高度に発達した天体観測所があったとしても、不思議はないのかもしれません。
もし、この報道が、欧米や支那朝鮮のものであれば、おそらくニュースは世界中に波紋を投げかけることでしょう。
「考古学上の貴重な発見」としてきっと大々的に報道されていることと思います。
ところが日本では、ほとんど報道さえされません。
そういう控えめな姿勢が日本人らしくて「良い」という意見もあろうかと思います。
私も、大騒ぎして自慢したり、胸を張ったりするようなことではないと思います。
けれど大切なことは、ひとつの発見から、次々といろいろなカタチでの検証作業が行われ、冷静にその謎を解明していくことではないかと思います。
そういう地道な努力こそが日本らしさといえるものです。
ただ、いまの日本の歴史学会や考古学界は、日本文明はなかった、日本は7世紀まで、いわゆる原始時代のような状態にあり、半島から文明が伝わってようやく文明開化したのだという「前提」から、すべての物事をみようとしています。
そういうことを世界では学問とは呼びません。
それは政治です。
残された遺跡から、謙虚に真実を探しだす努力こそが学問の名に値するものです。
そういう意味で、こうした遺跡群の真実が、これからもっと解明されていくことを願ってやみません。
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