
↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
(それぞれの画像はクリックすると当該画像の元ページに飛ぶようにしています)

今日も、古事記のお話です。
古事記の最初に出てくるお話が「神代七代」です。
実はここに、その後の物語に続く大変重要なお話があります。
最初の神様から順にお名前を示すと次のようになります。
1 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
2 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
3 神産巣日神 (かみむすひのかみ)
4 宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかひひこちのかみ)
5 天之常立神 (あめのとこたちのかみ)
6 国之常立神 (くにのとこたちのかみ)
7 豊雲野神 (とよくものかみ)
ここまでが「神代七代」です。
このあと、5組の男女神が誕生します。
一 宇比地邇神、須比智邇神
二 角杙神、活杙神
三 意富斗能地神、大斗乃弁神
四 於母陀琉神、阿夜訶志古泥神
五 伊耶那岐神、伊耶那美神
「読み」はともかくとして、この5組の男女神として登場された神々の最後のところで、イサナキ、イサナミの二神が登場しています。
このことを逆から読むとわかりやすいのですが、つまり男女に別れた神様よりも、男女の性別ない神様のほうが、より高次元の神様であるということになります。
ご神域では、大本の根源となった神様には男女の区別がないといういうことですから、男女に別れた神様よりも、男女の性別のない神様のほうが、より高位な神様ということになります。

つまり、ご神域においては、男女の性別のあるうちは「まだまだ」で、男女の性差を超越して一体となったとき、より高位な神様、つまり御魂となるということも、ここに示されているわけです。
このことが、まず大前提となります。
そのうえで、古事記は、イサナキ、イザナミの物語が進行します。
ここで面白いのは、イサナキ、イザナミが、物語の中では「命(みこと)」として書かれていることです。
古事記は、「神」と「命(みこと)」を完全に区別して書いています。
「神」というのは、肉体のない御魂としての存在です。
「命」というのは、肉体を持った存在です。
つまり、国生みをしたり、黄泉の国でイサナキを追いかけるイサナミは、すべて「命(みこと)」、つまり、肉体を持った存在として描かれています。
そしてそのラストシーンで、この肉体を持ったイサナキ、イサナミの二神に、千引岩をはさんでのお別れがやってきます。
そのシーンの詳細は省きます。
問題は、そのあとにある古事記の展開です。
まずひとつは、二神のお別れの後イサナミが「黄泉津大神」になられたと書かれていることです。
ポイントのひとつめが、ここです。
神と大神は、異なります。
字を見たらわかることですが、神より大神の方が次元の高い神様です。
その前の記述で、黄泉の国は肉体と命が行くところと書かれています。
つまり、イサナミが「黄泉津大神」になられたということは、イサナミの御魂は、黄泉から離れて、ご神域の、それも高次元のところに行かれた(より高次元の神様になられた)ということになります。
一方、イサナキは、「自分はひどく穢いところに行った」と、禊(みそぎ)を行っています。
するとその禊のときに、
左目を洗ったら天照大御神、
右目を洗ったら月読命、
鼻を洗ったら須佐之男命、
の三貴子が生まれたと書かれています。
禊というのは、穢れを落とすためのものです。
ここだけを読むと、天照大御神も月読命も須佐之男命も、それぞれイサナキの穢れであったことになってしまいます。
そうではない、ということが、その前に書かれているのです。
神様にせよ、命のある人間であるにせよ、「生まれる」ということは常に、男女の合体によって母体から生まれるか、あるいは男女を超越したより高次元な神様からか生まれるかしかありません。
この場合、イサナキは、男性の、しかもここでは「命(みこと)」として禊(みそぎ)を行っています。
男性から単体生殖で子が生まれることはありません。
ですから、その前の段における国生み神話において、男女が合体して子を生んでいるということがちゃんと書かれているのです。
では、禊によって三貴子が生まれたということは、どういうことなのでしょうか。
そこに「黄泉津大神」が関係しています。
つまり、妻であるイサナミは、この時点で偉大な神様になっているわけです。
そしてイサナキも、禊をしているイサナキノミコトは、肉体を持った存在ですが、その魂は、やはり神です。
つまり、禊の際に三貴子が生まれたということは、穢れとして誕生したということではなくて、イザナキの御魂と、大神となったイサナミの御魂がこのとき合体して、三貴子を生んだということになります。
つまり、神としての御魂が男女で合体した結果として、三貴子が生まれているわけです。
だからこそ、天照大御神は最高神であるし、月読命は夜と食、この場合の食というのは、月の満ち欠けを意味しますから暦と時間の神様、須佐之男命は海の神様として誕生しているわけです。
ところが私たちは、たとえばヤマタノオロチの神話が、本来は盆地の水害対策の話であるにも関わらず、長い年月とともに、そうした「教え」がどこかに置き去りになって、おもしろおかしい八岐大蛇の物語、つまりキングギドラ対ゴジラの物語へとすり替えられてしまっている現実を目の当たりにしています。
つまり神話というのは、何千年もの間、語り継がれることによって、いつのまにかそこにあったたいせつな「教え」の部分が人々の記憶から消え去り、形骸化して、ただの面白おかしい荒唐無稽な物語に変化してしまうという事実を知っています。
では、イサナキからの三貴子の誕生の物語から、より高次元における御魂としての男女神の合体というたいせつな概念が失われたらどうなるのでしょうか。
先程も書きましたように、「最高神が穢れから生まれた」という部分だけしか残りません。
ところが、「穢れから最高神が生まれた」とするなら、「なぜ?」という疑問が必ず起きます。
「どうして、最高に偉い神様が、穢れから生まれるの?」という、きわめて素朴な疑問です。
説明をするなら、それは「人類の原罪を背負ってお生まれになられたのだ」としか言いようがなくなります。
すると、「ではその原罪って何なの?」ということになります。
こうなると「人間は神様が作ったけれど、神様を裏切った。それが人間の原罪である」としか言いようがなくなります。
まさに、アダムとイブ、そして原罪論ができあがります。
私は、世界の宗教の日本起源説などを説くつもりはまったくありません。
ただいえることは、日本は、幸いなことに、古い時代の伝承がまるごと生き残った、世界的に見てもきわめて稀有な国であるということはいえると思います。
つまり、洋の東西を問わず、古代文明のある種の共通項となったものの原典が、実は、現代にまで伝承されている。
もっというなら、それは日本が他民族等に滅ぼされるという経験を持たない唯一の民族であるということからくる人類の幸運が、日本には、まだ残されている、ということなのではないかと思います。
そういう点が、これから、もっともっと解明されていくと、世界の本当の仕組み、人類社会の本来のあるべき姿までが、くっきりと浮かび上がってくるのではないかと思うのです。
*******
以上のお話は、今週の月曜日(12月7日)に「ねずブロメールマガジン(略称:ねずマグ)で配信した記事です。
ねずマグは、平日の毎週月曜日に配信しています。
次回の「ねずマグ」配信は、12月14日(月)です。
よろしければ、ご登録なさってくださいね。
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓


↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
■ねずさんの日本の心で読み解く「百人一首」
http://goo.gl/WicWUi
■「耳で立ち読み、新刊ラジオ」で百人一首が紹介されました。
http://www.sinkan.jp/radio/popup.html?radio=11782
■ねずさんのひとりごとメールマガジン。初月無料
http://www.mag2.com/m/0001335031.html

