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20151028 B-29

上の写真はB-29です。
B-29は20世紀最強の空の暴君と評された完全武装の超大型戦略爆撃機です。
英語名は「Super fortress」で、直訳すると「超空の要塞」です。
開発したのはボーイング社です。
つまり「B-29」とは、いま風にいえば「ボーイング29」です。
最近就航して話題になった「ボイーング787」の70年前の大先輩ですが、B-29の「B」は、もともとは「Bommer(爆撃機)」を表す記号です。
B-29はたいへんな飛行機でした。
エンジンはターボ搭載の2,200馬力の巨大プロペラを4基搭載。
実用上昇高度1万メートル(9,720m)。
前後上下左右には12.7mmの機関銃を12門搭載、さらに20mmの巨大機銃が一門です。
要するにB-29には全方位、死角がない。
戦闘機がどの方向から挑んでも、機銃ではたき落されるように設計されています。
さらに飛行高度が高くて(零戦の上昇高度は6,000メートル)、撃ち落とせない高高度で飛来して、超上空から、その巨体に積んだ爆弾や焼夷弾、ナパーム弾を地上にバラまくのです。
まさに、B-29は、超空の要塞そのものだったのです。
私など、いまだに写真を見ただけで恐怖が走ります。


B-29は、大東亜戦争のさなかの昭和17(1942)年9月に就航し、昭和19年後半からは、本格的に実戦配備されました。
そして日本本土に飛来し、日本中の大都市を焼土にしました。
昭和19(1944)年11月以降に行われた東京大空襲で、B-29が東京上空にやってきた回数は、なんと106回に及び、一回の空襲でやってくるB-29は、100機から500機という大編隊でした。
日本側は、特別に開発した高射砲や、果敢な特攻作戦でこれに挑みました。
けれど、多勢に無勢であることに加え、飛行の高度差は4000メートル近くあります。
常識で性能を考えれば、当時の日本の戦力で、B-29は「落せるはずがない」のです。
ところがそんなB-29を、日本は714機も撃墜し、1588機に損傷を与えました。
いったいどうやって落としたのか。
飛行高度は届かない。
けれど、猛然と戦闘機を上昇させながら、機銃を撃つ。
弾丸の発射速度に機体の上昇速度を乗せることで、4千メートルの高度さをカバーするわけです。
けれど、日本の戦闘機が上昇してくるB-29の下方向には、B-29の機銃があって、日本の戦闘機よりもはるかに多いB-29から、猛然と機銃が浴びせられるのです。
それでも敢然と向かって行ってB-29を落とし、かつ帰還までしているわけですから、当時の日本軍の敢闘精神というのは、もう、見事としか言いようがありません。
ちなみに、米軍は、日本本土に出撃するB-29の乗組員達に対して、
「万一日本国内に不時着した場合、日本の捕虜に対する取り扱いは至極人道的なものであるから、抵抗しないように」と訓示していたそうです。
これは結構知られた有名な話です。
米国は「日本人は猿だ、獣だ、野蛮人だ」と米兵の戦意を煽っていましたが、一方では日本の一般市民を空からナパーム弾等で焼け野原にして大量殺戮していながら、現場においては日本人が戦いの場においても、また民間人ベースにおいてさえ常に「人道的行動をする民族」であると認識し、米兵への指導をしていたわけです。
政治と現場の矛盾です。
陸上においても、たとえば黒人兵は、人種差別をする米国政府よりも、人種差別撤廃のために戦う日本軍をマインドの面においては味方と思っているという傾向がありました。
ところが陸戦では、常に黒人兵が先頭に立たされるわけです。
日本側は、先頭をやってくる黒人兵を撃たざるを得ない。戦争なのです。仕方ない。
すると撃つことで日本兵の居場所がわかるから、その場所に洋上から艦砲射撃が加えられる。
白人の命は大事だったけれど、有色人種の命は、ただの道具でしかなかった、そういう時代だったのです。
こうした政治と現場の矛盾は、実はいまでもあります。
最近まで、米国政府(国務省)は、対日戦略の拠点として韓国を優遇しました。
なんと為替まで操作して、韓国製品の競争力までつけてあげるという徹底ぶりでした。
ところが米軍の現場の将兵たちは、差別好きな韓国人をたいへんに嫌いました。
ベトナム戦争でも、韓国軍が行った非道の数々を米軍上層部は承知しています。
北ベトナムがあそこまで徹底して交戦し続け、決して和平工作に応じなかったのも、振り返ってみれば、戦う米軍の脇で北ベトナム人女性の強姦と、無抵抗な村民の虐殺ばかりをしていた韓国軍の蛮行によって、戦線が泥沼化したことを知っています。
韓国に置かれた米軍基地も、多くの結婚している米軍将校は、妻子は日本の基地に置いたまま単身赴任で韓国基地に向かいました。
子供の教育上、韓国は好ましくなかったし、女性にとっても居心地の良い場所、安全な場所とは言えなかったからです。
話が脱線しました。
B-29の話です。
みなさんよくご存知のボーイング727は、就航したのが昭和38(1963)年ですが、半世紀経った今でも、しっかりと現役飛行機として空を飛んでいます。
意外と、飛行機の現役就航期間というのは長いもなのです。
ところがB-29は、20世紀最強の暴君と呼ばれていた飛行機でありながら、ある日を境に、こつ然とこの世から姿を消しています。
なぜでしょうか。
答えは朝鮮戦争にあります。
朝鮮戦争は、大東亜戦争の終戦から5年目の昭和25(1950)年6月25日から、昭和28(1953)年7月27日の休戦までの約3年間朝鮮半島で繰り広げられました。
この戦いは、北朝鮮の金日成のソウル攻略戦に始まり、韓国軍の一方的敗退によって、米軍が参戦。
多国籍軍(連合軍)を編成して、中共軍、ソ連軍、北朝鮮軍と対峙し、最後は米軍が韓国の頭越しに休戦協定を締結することで終わった戦闘です。
開戦の当初の北朝鮮軍は、まさに破竹の勢いでした。
米軍が緊急で派遣した一個師団もまたたく間に粉砕し、ついには朝鮮半島南端の釜山まで、韓国および連合国軍を追いつめました。
北朝鮮軍の強さの秘訣は、ソ連製の最強戦車であるT型戦車でした。
この戦車は装甲が厚く、鉄砲や機関銃、果てはバズーカ砲にいたるまで、まるで歯がたちません。
まさに鉄鋼戦隊そのもので、戦いは一方的に北朝鮮有利にすすめられました。
これを逆転させたのが、釜山の戦いでT型戦車をことごとく打ち破った金錫源将軍です。
彼は日本の陸軍士官学校を卒業した軍人です。
韓国軍が釜山まで追い詰められたとき、はじめて旧日本兵だった朝鮮人だけでの部隊の編成が認められました。
それまではさしもの金錫源将軍も、旧日本軍所属だったからということで、李承晩大統領から一切の権限を与えられていなかったのです。
権限を委ねられた金錫源将軍は、北朝鮮の戦車隊を海岸線におびき出し、そこを米艦隊によって砲撃させるという戦法で、北の戦車隊をまたたく間に壊滅させました。
バズーカ砲などでは歯がたたない地上の暴君T型戦車も、戦艦の巨大な砲門の前には、まるで紙同然でした。
この釜山の戦いで勝機をつかんだ韓国および連合軍は、いっきに戦線を取り返し、ついには朝鮮半島の北端まで攻め上がりました。
このとき大活躍したのが、B-29です。
海岸線におびき出せば、さしものソ連製戦車も、艦砲射撃の前では塵にしかなりません。
しかし、内陸部に深く入り込まれたら、艦砲射撃はそこまで届かない。
つまり相変わらずソ連製戦車の独り舞台だったわけです。
これに対抗する方法として投下されたのがB-29で、B-29は地上爆撃用の爆弾だけでなく、ナパーム弾を搭載し、空からT型戦車のいる一帯を、丸焼けにしたのです。
いくら戦車が強いといっても、鉄のかたまりです。
紅蓮の炎で、戦車のなかにいる人間を焼き鳥にしたのです。
米国が投入したB-29は、ナパーム弾を含む60万トンもの爆弾を北朝鮮に投下しました。
大東亜戦争で米軍が日本に投下した爆弾が、全部で16万トンです。
どれだけすさまじい爆撃であったかということです。
この米軍の空からの攻撃で、北朝鮮ではおよそ230万人の民間人が死傷しています。
爆撃の凄さがわかろうというものです。
こうした米軍の爆撃に、なすすべもなかった北朝鮮の金日成は、なんとかしてくれ、とソ連のスターリンに泣きつきました。
このときスターリンが、B-29対策に導入したのが、ソ連製のジェット戦闘機である「ミグ15」でした。

ミグ15
ミグ15

「ミグ15」は、最大速度が時速1,076km/hと、B-29のおよそ二倍の速力があります。
そして実用上昇高度は1万5千メートルです。
B-29よりも5千メートルも高いところまで飛びあがることができます。
しかも武装は、強力な37mm機関砲です。
要するに「ミグ15」は、B-29よりも、1.5倍も高高度を飛ぶことができ、B-29の倍の速度で飛行し、さらに強力な砲門を備えていたわけです。
ソ連から持ち込まれたミグ戦闘機の前に、世界最強の空の暴君とされたB-29は、一瞬にして空に浮かぶ巨大な的(まと)になりました。
図体がでかくてのろいから、ミグ15にとっては、B-29はネタでしかなかったのです。
空の暴君だったB-29は、ミグによって次々と、いともたやすく撃墜されました。
超上空から攻撃してくるミグの砲火から逃れようと、B-29が飛行高度を落とせば、地上からは高射砲の餌食でした。
この様子を見た金日成は狂喜したといいます。
あの「空から降って来る恐怖の大魔王」が、まるで紙くずのように撃ち落とされるのです。
わかる気がします。
あまりにミグがつよいことから、金日成は、ソ連に頼み込んで、ミグ戦闘機を大量に北朝鮮に仕入れました。
こんどは自分たちの手で、米空軍をやっつけようとしたのです。
さらには、B-29をたたき落とすだけでなく、今度は奪われた朝鮮半島の制空権を自分たちのものに取り返そうとしたのです。
一方米国は、B-29があまりに簡単に撃墜されることから、ついに昭和26年には、B-29を第一線から完全に退かせました。
そして制空権を取り返すために、同じくジェット戦闘機であるF-86Aセイバーを朝鮮半島に差し向けました。
F-86Aセイバー
F-86Aセイバー

こうして世界ではじめて、ジェット戦闘機同士のドッグファイトが行われたのが、朝鮮半島の上空でした。
戦績は、4対1で米軍のジェット戦闘機が圧勝でした。
こう書くと、なんだか米国製セイバーの方が圧倒的に性能が優れているように見えますが、そうではありません。
ジェット戦闘機としての実力は、米ソとも、さほど違いはなかったのです。
違いがあったのは、パイロットの技量でした。
ソ連軍のパイロットがミグを操っているときには、ミグの被害はほぼゼロだったのです。
ところが、米軍がセイバーを投下する昭和27年頃になると、北朝鮮兵が操縦するミグが、朝鮮半島の空を飛ぶようになっていたのです。
きわめて簡単な理屈ですが、ジェット戦闘機は地上からの弾の届かない超高空を飛ぶから、墜とされないのです。
ところが何を血迷ったか、北朝鮮兵の乗るミグは、米軍のセイバーが現れると、低空に逃れようとしました。
低空に来れば、これまたあたりまえのことですが、地上からの高射砲の餌食になります。
こうして戦闘機はジェットの時代を迎えました。
ちなみにジェットエンジンというのは、ものすごく簡単にいうと、プロペラ式エンジンの発達したものです。
プロペラ式エンジンは、羽根(プロペラ)を回して、前方にある空気を後方に送り出すことで推進力を得ます。
この「プロペラの回転によって後方に送り出される空気」を、狭い穴から思い切り吹き出させたら・・・というのが「ジェット気流」です。
狭い穴から気流を吹き出す力で推進力を得ます。
ジェットエンジンは、プロペラ機よりも強力な推進力を得ることができますから、当然、これを搭載した飛行機の機体も、より頑丈になものにしなければなりません。
スピードが早い分、機体や翼の形状も変化させなければなりません。
こうして開発され、実戦配備されたジェット戦闘機が、上にご紹介したミグや、セイバーです。
ミグが初飛行したのが、昭和22(1947)年12月30日。
セイバーが初飛行したのが、同じく昭和22年10月1日のことでした。
ところが日本では、これに先駆けること二年も前の昭和20(1945)年8月7日、ジェット戦闘機が大空を舞っていました。
昭和20年8月7日といえば、その7日後が終戦の日です。
つまり終戦の直前に、ジェット戦闘機が日本の空を舞っているのです。
飛行機の名前は「橘花(きっか)」といいます。
エンジンを開発したのは石川島重工業で、機体を開発したのは中島飛行機(いまの富士重工)です。
橘花(きっか)
橘花

この「橘花」は、ドイツのメッサーシュミットMe262を参考に作られたジェット機で、8月7日の試験飛行と同時並行で10機が生産体制にはいっていて、さらに続々と量産される予定となっていました。
搭乗員としては、予科練甲飛14期生100名と16期生の200名がすでに事前訓練にはいっていました。
もっともこう書くと「そんなこと言ったって、すでに当時の日本には、飛行機を飛ばすための燃料がなかったではないか」という声も聞こえてきそうです。
これも実は対策が進められていて、なんと赤松や黒松などの松の木から採取する「松根油」を用いた燃料が当時の日本で開発されていました。
松根油については、戦後に書かれた資料などをみると、なにやら必死で「役に立たないシロモノだった」と否定ばかりしているのですが、これも実は硫化モリブデンを触媒としてオクタン価を高める技術が当時すでに開発されていて、実際に松の木から採れる油で飛行機を飛ばせる状況になっていたのです。
ということは、朝鮮戦争であっという間にB-29が引退した事実を考えると、もしあと半年大東亜戦争が長引いていたら、あの日本の空襲に猛威を振るったB-29も、空に浮かぶただの紙風船になっていたかもしれません。
高度6000メートルが限界だった飛行機で、高度1万メートルのB-29を撃墜していた日本です。
高度1万5千メートルの高高度と、B-29の倍の速度を持つジェット戦闘機を入手していたら、まさに日本はB-29を空飛ぶ紙風船にしていたことでしょう。
実は大東亜戦争は、あと半年開戦を送らせていたら、日米戦争はなかったかもしれないという説があります。
詳細は次の記事に書いていますので、ご欄いただければと思います。
■外務省の間違い
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2532.html
そしてまた、終戦をあと半年遅らせていたら、日本は戦争に勝利していたかもしれません。
もっともそのことは、あと1〜3発の原爆を投下されたかもしれないという危険も伴うものでした。
その原爆によって失われる日本人の一般市民の惨状を思えば、やはり昭和天皇の終戦のご聖断は、私達国民にとって、ありがたいことであったと思います。
ただし、それによって戦後の日本は陛下を中心とした本来の日本の姿ではない国の状態を、戦後70年経ったいまでも続けています。
そしてその体制は、いつ終わるともしれない状況にあります。
戦後の私達が本当にしなければならないこと。
それは、天皇を中心とした君主国としての日本を、いまいちど取り戻すことではないかと思います。
それが「感謝の心を持つ」ということなのだろうと思います。
※この記事は2012年9月の記事をリニューアルしてお届けしました。
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