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天津市を徘徊する義和団
<20150928 天津の義和団

「義和神拳」と、なんだかマンガの「北斗の拳」みたいなタイトルなので、いったい何の話だろうと思われた方もおいでかもしれませんが、義和団事件の実話です。
もともと義和団というのは、拳法結社で、もとになったのが、China山東省にあった「神拳」という拳法の流派です。
これに剣術の太刀会や、拳法の梅花拳など複数の武術道場が合流し、門弟たちを集めて「義和拳(義和神拳)」を名乗って、巨大な武闘集団となったのが、義和団です。
義和神拳を身につけると、体は鋼鉄となって銃弾さえも跳ね返し、刀で刺すことも斬ることもできなくなる。
不死身の肉体となるだけでなく、闘気だけで敵を倒すことができると信じられていたのだそうで、もしかすると、本当にそんなことのできるリーダーがいたのかもしれません。
そのリーダーが、数多くの門弟を率いて武闘団となり、その武力に惹かれてさらに大勢が群がる。
気がつけば、ものすごい大集団になっていたわけです。
まるでマンガの北斗の拳で、ラオウが複数の武道家の流派を統合して、巨大な大軍を率いたみたいな話ですが、こちらは実話です。
義和拳の生まれた山東省は、もともと孔子様の生地なわけです。
住民には、そういう意味では地域への誇りというか、プライドがありました。
ところがそこにドイツが進出し、さかんにキリスト教の勧誘をしたのです。
ただ宗教というだけなら問題はなかったのかもしれませんが、教会を建てるために、強引に地元住民を立ち退かせたりして、土地争いが起きるわけです。
そしてこの仲裁に、最初に介入したのが、剣術道場の太刀会で、それに拳法道場の神拳が合流する。
動画版:ねずさんのひとりごと


相手がドイツ軍ならいざしらず、相手は「ドイツ系のカトリックの教会」なのです。
当然、神父たちは武装などしていません。
武装していない人達を、剣と拳法を身につけた人達が大勢で襲撃すれば、そりゃあ勝てます。
非武装のドイツ人を袋叩きにして撲殺しただけなのに、その話にいつの間にか尾ヒレがついて、ドイツ軍の銃弾さえも通さない肉体となり、さらにドイツ軍がとれて「鉄砲玉も通さない神の拳」と、尾ヒレに派ヒレがついて、ついには義和神拳となっていったわけです。
このあたりの話の膨らみ方は、まさにChina的です。
しかもこの武闘集団、襲撃対象をキリスト教関連施設にだけ限定していました。
Chinaの軍閥は、集団を維持するために周辺住民から収奪を行い、必要に応じて周辺住民を捕まえて食べるのですが、この剣術と拳法の集団は、そんな襲撃対象を、外来宗教のカトリックに限定したわけです。
そのため彼等は「義に厚い平和の拳法」という意味で、「義和団」と自称するようになります。
「義」とは、日本人にとってはものごとの道理を意味しますが、Chinaにおいては戦いに我が身を捧げるのが「義」です。
ですから、非武装・無抵抗のカトリック教徒を、剣術や拳法の武芸者が襲撃して金品を奪い、教会に火を付け、神父らを食べることが、彼らにとっての「義」であり「和」となります。
このあたりの言語感覚の違いも、私達日本人はちゃんとわきまえる必要があります。
「ねずさん、ちょっとひどく書きすぎじゃないの?」と言われそうですが、事実なのだから仕方ありません。
こうして「義和拳」とか「義和神拳」と呼ばれるようになった彼等は、山東省内で巨大化していきます。
巨大化すれば、当然弾圧があります。
義和団は、明治32(1899)年に、北洋軍閥の袁世凱によって弾圧され、山東省から蹴散らされるのです。
つまり本物の銃を持ったChinaの軍閥によって蹴散らされたわけです。
銃弾さえも跳ね返す肉体だったはずですが、弾が当たると痛かったのでしょうか。
そんなわけで義和拳は山東省から追い出されるのですが、これによって逆に義和拳の一団は、勢力を拡大しています。
ここがまたChina的です。
要するに義和神拳の噂が独り歩きしていたために、河北や天津、北京方面で次々と入団者ができ、またたく間に彼等は20万の大勢力になるわけです。
もちろんそうなると、全員が義和神拳をマスターしているわけではありませんし、各地で様々な拳法道場や剣術道場などを仲間に引き込んでいましたから、もはや義和拳とばかりはいえなくなり、そこで変えた名前が「義和団」でした。
要するに義和団は、もともと神拳を名乗る武術流派であり、それが山東省内のドイツの圧政に立ち上がって非武装無抵抗のカトリック教会を襲い、そこに山東省内の様々な武術流派が合流して義和神拳となり、それが山東省で弾圧されて、周辺地域に逃げ出したことによって、China国内の不平分子を統合して、さらに一層、巨大な組織となっていったというわけです。
このあたりのChineseの行動様式というのは、たいへん興味深いものです。
さて、明治33(1900)年6月10日に、20万の大軍で北京入場を果たした義和団は、清王朝の西太后にたいへんに気に入られます。
西太后は、この頃、清王朝内の自分の政治権力基盤を強化することを画策していましたから、義和団の20万の正規軍(Chinaでは、軍と暴徒とヤクザは同じものです)は、たいへんにたのもしい存在にみえたわけです。
一方で義和団からしてみれば、北京の王城入りは必然でした。
なにせ20万の大軍なのです。
仕事もしない愚連隊です。
でも食べていかなければならない。
食料の調達には費用がかかりますから、普通、Chinaでは周辺の住民からタダで食べ物を奪います。
ようするに集団強盗をするわけです。
必要に応じて、住民も食べます。
ところが彼らは仮にも「義和」を名乗っているわけです。
そうなると、あまり悪辣な真似もできないし、しにくい。
だから、むしろ積極的に清朝政府に取り込まれることで庇護を受けようとしたわけです。
一方で清朝内部は、西太后一派がやや強いといえ、内部は対立と抗争のメッカです。
軍を謹呈しますといえば、必ず乗ってくる。
案の定、西太后は新たに生まれた20万の軍勢(ここで暴徒が軍に早変わりしています)に狂喜するわけです。
義和団は、彼等の暴行を制止しようとした日本公使館の杉山彬書記生を路上で殺害し、同月20日にはドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラーを殺害します。
そして西太后から清王朝の10万の正規兵を借り受け、北京市内にあった外国人公使館区域にいる約4000人の外国人、およびChineseキリスト教徒たちを、いっきに殲滅・殺害しようとしたのです。
このとき北京の外国人公使区域(外国人疎開)にいたのは、英・米・仏・露・独・墺(オーストリア)・伊・蘭・ベルギー・スペインと、日本の合計11カ国の公使とその家族と随員、それと教会に付属していたChineseキリスト教徒たち、合わせて4000人です。
このうち、まともに戦える兵士は、11カ国全部合わせても、わずか400人しかいません。
そのわずか400人が、義和団20万、清王朝の正規軍10万、合わせて30万の大軍を前に、なんと100日間の籠城戦を闘いぬいたのが、義和団事件です。
この戦いの中、ある英国人の義勇兵が、とても人間業とは思えない光景を見たと、P・フレミングの「北京籠城」に書いてあります。
*****
隣の銃眼に立っている日本兵の頭部を銃弾がかすめるのを見た。
真赤な血が飛び散った。
しかし、彼は後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもない。
『くそっ』というようなことを叫んだ彼は、手ぬぐいを取り出すと、はち巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように敵の看視を続けた。
(中略)
戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本兵は、ヨーロッパ兵のように泣き叫んだりはしなかった。
彼は口に帽子をくわえ、かみ締め、少々うなりはしたが、メスの痛みに耐えた。
しかも彼らは沈鬱な表情一つ見せず、むしろおどけて、周囲の空気を明るくしようとつとめた。日本兵には日本婦人がまめまめしく看護にあたっていたが、その一角はいつもなごやかで、ときに笑い声さえ聞こえた。
(中略)
長い籠城の危険と苦しみで欧米人、とりわけ婦人たちは暗かった。
中には発狂寸前の人もいた。
だから彼女たちは日常と変わらない日本の負傷兵の明るさに接すると心からほっとし、看護の欧米婦人は皆、日本兵のファンになった。
*****
続けて英国人B・シンプソンの日記です。
*****
数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。
その壁はどこまでも延々とつづき、それを守るには少なくとも5百名の兵を必要とした。
しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。
公使館付き武官のリュウトナン・コロネル・シバ(柴中佐)である。
(中略)
この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。
彼は部下たちを組織し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼はなすべきことをすべてやっていた。
ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。
******

柴五郎中佐
柴五郎中佐

英国公使館の正面の壁に穴があけられて、そこから数百の清国兵が乱入したときのことです。
当時、北京市内で最も広壮だった英国公使館には、各国の婦女子や負傷者が収容されていました。
このとき柴五郎中佐は、安藤大尉以下8名を救援に向かわせています。
現場に到着した安藤大尉は軍刀を抜くと清国兵に斬りかかり、目に見えないほどの速さでたちまち数名を斬り伏せました。
清國兵が手にしているのは主に青竜刀です。
ご存知の通り青龍刀は、太くて厚みがあって、大きく湾曲しています。
ですから青竜刀で打ち掛かられたものを剣で受けても、青龍刀はすべるように剣を押しのけて相手を斬り倒します。
ある意味、戦場に特化した強力な剣なのです。
ところが会津流の剣術の達人であった安藤大尉は、敵の打ち込みを毛筋一つで交わします。
そして眼に見えないほどの速さで、一瞬にして敵兵数名を斬り倒したわけです。
そしてこれに呼応してつづく日本兵が銃剣で次々に敵兵を突き刺しました。
すると清國兵たちは浮き足立ち、われさきにと壁の外に逃げ出しました。
安藤大尉らの奮戦は、英国公使館に避難していた人々の目の前で行われました。
このため日本兵の勇敢さは讃歎の的になりました。
後に体験者の日記を発掘して「北京籠城」という本をまとめ上げたピーター・フレミングは本の中で次のように記しています。
******
戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。
日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。
日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。
籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本
人だけである。
******
6月27日に清国兵による一斉攻撃があったときは、午後3時頃、ついに大砲で壁に穴を明けて、敵兵が喊声を上げながら北の霊殿に突入しています。
このときも柴中佐は、敵兵が充満するのを待ってから、内壁にあけておいた銃眼から一斉射撃をして、敵を蹴散らしました。
敵は20余の死体を遺棄したまま、入ってきた穴から逃げていきました。
この戦果は籠城者の間にたちまち知れ渡って、全軍の志気を大いに鼓舞したといいます。
英国公使館の書記生ランスロット・ジャイルズは、次のように記しています。
******
王府への攻撃があまりにも激しいので、夜明け前から援軍が送られた。
王府で指揮をとっているのは、日本の柴中佐である。・・・
日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。
日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。
わがイギリス水兵がこれにつづく。
しかし日本兵がずば抜けて一番だと思う。
******
8月13日になって、やっと救援の連合軍が北京にたどりつきました。
総勢1万6千の約半数が日本から駆けつけた第5師団でした。
その他、ロシア3千、英米が各2千、フランス8百などの混成軍です。
籠城していた各国の兵士たちは、このとき、ほとんど弾薬も尽きた状態でした。
14日、西太后らが北京を脱出し、西安に向けて逃げ出しました。
義和団も散り散りになって逃げて行きました。
北京を占領した連合軍に対し、柴中佐は日本軍占領地域では連合軍兵士による略奪を一切許しませんでした。
その治安の良さは市民の間のみならず、連合軍の間でも評判となりました。
そのため他国の占領区域から、日本占領区域に移り住む市民が後を絶たず、町は日に日に繁昌しました。
日本軍は横行する強盗や窃盗、無頼漢らは、容赦なく捕えて厳罰に処しました。
また暴行・略奪をした外国人兵士(その筆頭がロシア兵だったそうです)を捕えると、彼らの軍司令部に突き出しました。
このため事件後も、北京に住む中国人の一般市民は、日本軍を「義軍」として讃え、競って日本軍の占領下に入ってきました。
施政者が何を言おうが、学者モドキがいかなるウソを並べようが、民衆は、自分たちの本当の庇護者は誰なのかよく知っているのです。
そしてこの北京籠城戦で総指揮官を務めた英国公使のマグドナルドが駐日大使に転じたとき、日英同盟の締結を強力に押し進めてくれました。
それは、柴中佐と日本の将兵の見せた奮戦ぶりから、「日本こそが大英帝国が頼みにするに足る国と確信したからであった」といわれています。
そもそも英国は、「栄光ある孤立」といって、どこの国とも同盟関係をもたなかった国ですし、しかも七つの海を制するとまでいわれた、世界の最強国です。
その世界最強国が、世界ではじめて対等なパートナーとして選んだのが、有色人種の国、日本だったのです。
明治白人至上主義の世界にあって、有色人種である日本が、世界最強の覇者である大英帝国と対等な同盟関係を結んだという事実は、これは、当時の世界にあって、まさに「ありえないこと」だったのです。
そしてそのきっかけを作ったのは、まぎれもなく、義和団事件で八面六臂の大活躍をみせた柴五郎中佐や安藤大尉以下の日本軍の奮戦でした。
ちなみに、事件後に日本の救援軍を指揮した福島少将は、清国政府の国益を守るために奮闘しています。
清国皇族で実力者の慶親王に「一刻も早く北京に戻り、列国と交渉を始めなければ、清国はその存立が危ない」と使者を送ったのも福島少将です。
実際、北京攻略戦には一兵も参加しなかったドイツは、事件後に続々と大兵を送り込んで、北京で稼ぎそこなった分を他の諸都市で略奪しはじめていました。
また混乱に乗じて全満州を制圧したロシアは、中国を丸ごと手中にしようと、慶親王の誘拐を計画していました。
これには英国公使のマクドナルドがいちはやく情報をキャッチして、柴中佐らと協力して、慶親王の安全を確保してことなきを得ています。
また事件後の清国への賠償請求では、最大の賠償金を吹っかけたのがロシアでした。
一番少なかったのが日本の5000万円です。
英国は日本の5倍で2億5000万円、
義和団鎮圧後にやってきたドイツは英国の2倍の5億円、
わずかな兵を出しただけのフランスも、日本の2倍(出兵数比で日本の100倍)を要求しています。
まさに「世界は腹黒い」のです。
 
さて、そんな義和団を、昨今のChinaでは勇敢な戦士と称えているのだそうです。
何を信奉しようが、それぞれの国の勝手ですけれど、とにかく排外のためなら「何をやっても良い」というのは、近時のChinaの「愛国無罪」と同じ延長線上にある考え方で、極めてよろしくないことです。
なぜならそれは、「目的のためなら手段は選ばないということが正当化される」ということだからです。
目的のためなら、どんなに非人道的なことが行われても、すべては無罪であるという思考は、共産主義と、今も昔も変わらぬChinaのお家芸ですが、それが結果として何をもたらすのかといえば、どこまでも暴力の連鎖です。
そんなこともわからない国のトップが、愛妾を連れて米国大統領を公式訪問。
これまたありえないことです。
なぜならそれは、マフィアのボスの面会要求と同じだからです。
北京の55日
北京の55日

上の写真は、チャールトン・ヘストン主演の『北京の55日』というハリウッド映画のDVDのジャケットです。
この映画は昭和38(1963)年に製作・公開されたもので、出演がチャールトン・ヘストンに、『陽はまた昇る』で有名な美人女優のエヴァ・ガードナーです。
大資本家サミュエル・ブロンストンが1960年代に続けに製作したスペクタクル大作映画のひとつで、ブロンストンは他に『ローマ帝国の滅亡』や『エル・シド』、『キング・オブ・キングス』などを手がけています。
なかでもこの北京の55日は、(明治33(1900)年)に実際に起きた「義和団事件」を題材にしていて、押し寄せる20万のChinese暴徒と、それに対抗した、たった400人の勇気ある八カ国連合の兵士たちの姿が活き活きと描かれた対策になっています。
映画は、愛する女性を護るため、理不尽な暴力に果敢に立ち向かった勇気あるアメリカ軍人の物語・・・となっているのですが、実は主演のチャールトン・ヘストンの活躍は、実はそのまま日本人、柴五郎中佐の活躍です。

参考:国際派日本人養成講座
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h14/jog222.html
■この記事は2009年9月のリニューアルです。
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