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20150921 神倭伊波礼毘古命

古事記は、ほんとうに面白いです。
たとえば皆様よくご存知の神武天皇です。
神武天皇のお名前は、即位前は、日本書紀では「神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」です。
「磐」は、巌(いわお)、岩石のこと、「余」は「我(われ)」、「彦」は男性を意味しますから、お名前を読み下せば「巌(いわお)となった日本の尊い神様」という意味になります。
日本書紀は正式な漢文で書かれていますから、ひとつひとつの漢字そのものに意味があるからです。
ところが古事記になりますと、読みはおなじ「かむやまといわれひこのみこと」でも、字は「神倭伊波礼毘古命」です。
しかも原文にはちゃんと注釈があって、「神倭以下の5文字は音だけをとったあて字である」とちゃんと書かれています。
つまり、「神倭イワレヒコのミコト(命)ですよ、とちゃんと注釈しています。


これがどういうことかというと、
「神倭」は、「倭国(=日本)の神」です。
「イワレ」は、「云われた、呼ばれた」です。
「ヒコ」は、男性を意味します。
つまり、「やまとの国の神と呼ばれた男」の物語です、とちゃんともうお名前だけで、語ってしまっているのです。
そして最後の「命(みこと)」です。
実は古事記では、「〜の命(みこと)」と、「〜の神(かみ)」を、ものすごく厳密に書き分けています。
どのように書き分けているかといいますと、
「〜の命(みこと)」は、その時代に肉体を持って生きていた御存在、
「〜の神」ですと、御霊(魂)としての存在(まさに神様そのもの)として書かれています。
肉体には命が宿りますが、肉体が滅べば命もなくなるわけです。
けれど、肉体も命もなくなっても、御霊は永遠です。
そしてその御霊を、明確にはっきりと確信をもって当然に「ある」という前提ですべての記述がなされています。
つまり神武天皇記は、「やまとの神と呼ばれた男の活躍と、その男が天皇になるまでの物語」ということになります。
で、ここからが面白いのです。
その「やまとの神と呼ばれた男」は、ある日、兄の五瀬命と「天下の政を看よう」と語らって日向(宮崎)を出発するのです。
もうここから注意が必要です。
実は古事記では、ここではじめて、上巻ではまったく使われなかった「政」という漢字が使われているからです。
けれど「政とは何であるか」は、まだ明らかにされません。
実は、以降の物語の中で、その「政」の意味と、そのために何が必要かが描かれていきます。
このように、最初に問題提起をして、その答えを徐々に明らかにしていくというのが、古事記の記述の特徴です。
上巻の神代では、最初に「知国(シラス国)」という言葉が出てきます。
イザナキが、生まれた子の天照大御神に、「汝は高天原をシラセ」と言うのです。
けれど、では「シラセ」とはいったいどのような統治形態を言うのかは、そこでは明らかにされません。
そして古事記の上巻は、まさにその「シラス」とは何かが大きなテーマとなって物語が進めれられていきます。
同様に、古事記の中巻では、「天下の政」という言葉が冒頭に出てくるわけです。
そして「政」とはいかなるものかが、中巻全体を通じて明らかにされていきます。
さて、兄弟で日向(宮崎)を出たお二人は、大分で大歓迎を受けます。
歓迎を受けたということは、認められたということです。
つまり兄弟の旅の目的が認められ、歓迎され、喜ばれたということです。
けれど兄弟は、すぐに大分を去ります。
そして筑紫(福岡)で一年、広島で七年、岡山で八年を過ごします。
何をしていたのでしょうか。
兄弟は、目的を持って旅立っています。
目的とは「天下の政を看る」ということです。
では何のために、1年も8年もそれぞれの地に滞在したのでしょう。
滞在したということは、そこで食べていたということです。
しかも滞在場所には、もともとの現地の人々もいたことでしょう。
長期滞在したということは、現地の人々にもたいへんな歓迎を受けていたということです。
何をしていたのでしょうか。
ヒントになるのが古代から明治、大正、昭和初期にかけて全国で活躍した「老農」です。
老農は、農業指導者のことで、土地にあった作物を紹介し、改良し、育て方を教え、その料理の仕方までをも伝授して、地域の農家のみなさんが、よりたくさんの稔りを得れるように指導していた民間農業指導員で、昔は土地の開墾のための技術の伝授などもしていました。
いまでも、国際青年協力隊などで、日本人の若者が世界中の貧しい国で農業の指導と振興をしています。
これは、みんなが豊かになれるための指導・振興ですから、どこにいても喜ばれますし、滞在期間も自然と長期化します。
そこで神倭伊波礼毘古命と行動をともにした兄の名前が問題になります。
兄の名は「五瀬命(いつせのみこと)」です。
「五瀬」というのは、「五穀」と、それを育てる「浅瀬」を意味します。田んぼには浅瀬をつくります。
つまり、五瀬命は、畑と田んぼと五穀の神様であり、指導員であったということが、そのお名前で明らかになります。
おそらくは、稔った作物の美味しい料理の仕方なども指導していたのでしょう。
昔も今も、誰だって美味しいものは大好きです。
きっと兄の五瀬命は、誰からも好かれる笑顔の素敵な良い男だったのだろうと思います。
ところが、ご兄弟は、奈良まできたとき、思わぬ抵抗を受けるのです。
ナガスネヒコの一団が、軍勢を率いていきなり矢を射掛けてきました。
この「ナガスネヒコ」は、古事記では「那賀須泥毘古」と書かれています。
そしてこの名前は6字とも音だけをとった当て字ですと書かれています。
素直に読んでみたら「なかすど」です。
要するに、近隣の人達を襲って民衆を泣かせていた、人々を泣かす男、悪いやつ、つまり野盗の群れだったということがわかります。
野盗といえば野党ですが、要するに良識の府である参議院にいてさえ、平気で暴力をふるうとんでもない奴らだったわけです。
そしてここが大事です。
兄弟は、船から「楯」を取り出して彼らの矢を防いだのです。
けれど、兄の五瀬命に、矢が刺さり、兄はその傷がもとで亡くなってしまうのです。
兄の五瀬命がどれだけやさしい男であったかは、死ぬ間際の兄の言葉に明らかです。
兄はこういったのです。
「弟よ、俺達は日の御子だ。天照大御神様からの直系の子孫として、これまで誰もが食える世の中にしようとして東に向かってやってきた。ずっと平和を願ってきた。けれど、矢を射掛けられたとき、つい抵抗して武器(楯)を使ってしまった。平和を願いながら戦ってしまった。この傷はその罰なのかもしれない」
兄の五瀬命は、名前の通り農業の専門家ですし、おそらくは(これは私の想像ですが)料理の達人でもあったのではないかと思います。
美味しい作物をたくさん稔らせ、その作物で美味しい料理を作ってくれるし、その料理の仕方まで教えてくれる。
そんなとってもやさしい兄貴です。
そんなやさしさを持った兄貴だからこそ、みんなを幸せにしたかったし、みんなの幸せな笑顔を大切にしたいから、一生懸命農業の指導をし、料理も教えたりもしていたのです。
きっと、笑顔のとっても素敵な兄貴だったのだろうと思います。
そんな兄貴だから、理不尽な暴力にさらされても、なんとかして話し合って解決すべきと思ったし、だから「楯」を使ったことさえも、まずかったのかもしれないと思ったに違いありません。
けれど、「楯」だけでは現実に身を護ることができなかったし、そんなやさしい兄は死んでしまうのです。
ここで高天原が登場します。
なんと天照大御神は、生き残った神倭伊波礼毘古命に、天空から太刀を授けるのです。
それもただの太刀ではありません。
あの最強の武神、建御雷神の太刀です。
つまり「神太刀」です。
太刀は、楯と違い、敵を斬り伏せるためのものです。
高天原は、明確に「戦え」と言っているのです。
イージス(楯)艦だけではダメだと言っているのです。
攻撃用原潜や、敵地攻撃のためのミサイル、それも地上最強の建御雷神の太刀を持てと言っているのです。
これは攻撃型武器は世界最先端、最新鋭の最強の武器を常に保持せよということです。
けれど、それだけの装備をしても、まだまだ世界には危険がいっぱいです。
そこらじゅうに荒ぶる神がいます。
だから高天原は、すぐに戦うのではなく、味方を集めてから、集団的自衛権を行使するよう、八咫烏(やたがらす)を派遣しています。
八咫烏も、日本書紀では三本足のカラスとされますけれど、古事記にはそんなことどこにも書いてありません。
そもそも「咫」というのは、長さの単位の「尺」のことで、「八尺」なら、身長1メートル90センチくらいの長身です。
しかも「カラス」と書かれていますから、色黒の人達です。
その一団が遣わされるわけです。
太刀の戦いのとき、長身であることは、リーチが長いぶん、有利になります。
日本人は倭人というくらいで、もともと背の低い人が多かったですから、平均身長155センチくらいの中にあって、190センチの八咫の一族は、たいへんに大きな人達です。
その八咫烏たちの案内によって、熊野方面を旅すると、次々と仲間たちが兵を連れて集まってきます。
軍団が強くなると、なかには騙し討ちしようとする馬鹿者もあらわれます。
屋敷に誘い込んで、座ったら床が抜けて、下にある竹矢来で串刺しにして殺してしまおうという、不逞半島人みたない者があらわれるのです。
けれど、そうした情報を事前に察知することで、一行は難を逃れています。
つまり戦いには情報が大事だと古事記は書いています。
そして途中で神倭伊波礼毘古命が献上品などをもらうと、それらは全部、部下となった者達に配り、それが酒や食べ物なら、毘古はそれで大宴会をしています。
ひとりで富を独占するのではなく、どこまでもみんなとともにある。
いただきものは、みんなのものだから、みんなで分ける。
そういうことが人の上に立つ者として大切だということも、ここで説かれています。
そして強力な武器を持ち、大軍を擁した神倭伊波礼毘古軍は、ナガスネヒコを討ちます。
ここは、まさに神倭伊波礼毘古命がナガスネヒコを、斬り殺しています。
悪の根は、退治しなければ、またポッポのように、議員バッチがなくなってもまだ悪さをするのです。
禍根は完璧に絶てと古事記は教えてくれています。
神武天皇の即位前の戦いはまだまだ続くのですが、「天下の政を行なう」、つまり「天下に正しい道を広める」ことを目的とした神倭伊波礼毘古命の東行きの旅は、単にやさしい心をもって善政を施すだけでは、いざというときの脅威に対抗できない。そうした脅威のためには、日頃から準備を整え、しっかりとした軍備、しっかりとした軍を養い、いざ戦うときには「撃ちてし止まん」覚悟で猛然と戦い勝利していかなければならないのだ、ということが書かれています。
これが実に三千年近い昔の日本の知恵です。
昨今、国防をおそろかにするだけでなく、近隣諸国と同盟関係を結んで我が国の平和と世界の平和を守ろうとする安保法案に、左巻きの国会議員や「SEALDs」なる学生たちが反対運動を行いました。
国内では「SEALDs」のデモは、自称20万とか30万人とか述べていたようですが、冷静な海外メディアの報道では、わずかに千人。
保守系の安保賛成デモの方が、実はぜんぜん人数も多いし規模も大きなものでした。
そしてそんな「SEALDs」は、海外で、ひとことでいうなら「日本の学生は国防のなんたるかをまるで考えていないお坊ちゃまである」と、世界中から顰蹙をかっています。
かつて満州で匪賊のボスである張作良を討ったときも、遅きに失しました。
しかもこのときは、ボスの張作良を逃しています。
それがどれだけの被害の元になったか。
昨今の安保法制も同じです。
現実に中共の脅威があり、中共の横暴が目に余る状態になっているのに、日本は武装するな、集団的自衛権も行使するな、戦争反対と寝ぼけたことばかり主張する。
そしてその主張の拝啓には、中共やその下請けである韓国のスパイ工作がある。
そんなことがわかっていながら、それらが言論の自由の名のもとに放置される。
正しい「政」を行なうには、そのような者達に対しては、仲間を集め、断固成敗していかなければならいのだということを、古事記はまず「政」を語るその冒頭で明確に教えてくれているのです。
もちろん「政」とは何かは、これだけのことではありません。
「政」の本質とその展開の方法について、古事記は、ここから第33代の推古天皇の御世に至るまでの歴史を通じ、徐々に明確にこれを教えてくれています。
もう、実におもしろい。
ものすごく勉強になります。
まさに、いまこそ、全国民に知ってもらいたい話が、実は古事記には満載です。
これからちょっとずつ、そんなお話をねずブロで書いていきたいと思います。
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