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東日本大震災のとき、米軍が「トモダチ作戦」と名づけて救助復興支援をしてくれたことは、みなさまご存知のことと思います。
けれど、その「トモダチ作戦」が、60年以上も前に起きたある小さな事件がきっかけになっていたことを、誰も報道しません。
実はこのことは、私も知らなかったことで、昨日ご紹介しました服部剛先生のご著書『教室の感動を実況中継! 先生、日本ってすごいね』を読んで初めて知りました。
そこで今日は、このことをねず式で要約してお届けしたいと思います。
大東亜戦争の終結から5年後の昭和25(1950)年9月のことです。
まだ戦火の傷跡が残る日本に、一人の米国人がやってきました。
米海軍の提督、アーレイ・バーク大将です。
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バーク大将は駆逐艦乗りです。
海中に潜む潜水艦を追い詰め、巨大な戦艦をも追い回す駆逐艦乗りには、日米ともに「猛将」といわれた人が多くいました。
バーク大将もその一人です。
バーク大将は大東亜戦争の中でも、日米合わせて9万人以上もの犠牲を出した「ソロモン海戦」で日本軍の脅威となった男です。
そのバーク大将が、敗戦国日本を支配する占領軍の海軍副長として、アメリカから派遣されてきました。
「朝鮮戦争」が勃発したからです。
バーク大将は、東京・帝国ホテルにチェックインしました。
従業員「バーク様、お荷物をお持ちいたします」
バーク「やめてくれ。最低限のこと以外は、私に関わるな!」
実は、バーク大将は筋金入りの日本人嫌いでした。
バーク大将の心には、敵だった日本人への激しい憎悪が燃えていたのです。
それは、戦争中「日本人を一人でも多く殺すことなら重要だ。日本人を殺さないことなら、重要でない」という訓令を出したほどだったのです。
ついこの間まで戦争で敵として戦い、多くの仲間を失っているのですから、米国海軍大将として当たり前の感情であったのかもしれません。
バーク大将は日頃から公(おおやけ)の場で日本人を「ジャップ」「イエローモンキー」と差別的に呼んでいました。露骨に日本人を蔑(さげす)みました。
ですから帝国ホテルにやってきたときも、いくら日本人の従業員が話しかけても無視したのです。
そのバーク大将が日本に来てから一ヶ月ほどしたある日のことです。
「それにしても、なんて殺風景なんだ、この部屋は!」
ベッドと鏡台とイスだけの部屋を見て、せめてもの慰みにと、バークは一輪の花を買ってきてコップに差しました。
このあと、この花が意外な展開をたどることになったのです。
***
翌日、バーク大将が夜勤から戻ってみると、コップに差してあった花が、花瓶に移されていました。
バーク大将はフロントに行き、怒鳴りました。
バーク「なぜ、余計なことをした。誰が花を花瓶に移せと言った!?」
従業員「恐れ入りますが、ホテルではそのような指示は出しておりません」
バーク「何だって!? うーむ…」
この時は誰が花瓶に移したのか分かりませんでした。
そして数日後…、何と花瓶には昨日まではなかった新しい花が生けられていました。
「いったい誰がこんなことを……」
花はその後も増え続け、部屋を華やかにしていきました。
バーク大将は再びフロントへ行きました。
「私の部屋に花を飾っているのが誰なのか、探してくれ」
調べた結果、花を飾っていた人物が分かりました。
それは、バーク大将の部屋を担当していた女性従業員でした。
彼女は自分の少ない給料の中から花を買い、バークの部屋に飾っていたのです。
それを知ったバーク大将は彼女を呼び出して問い詰めました。
「君は、なぜこんなことをしたのだ」
「花がお好きだと思いまして」
「そうか。ならば、君のしたことに代金を払ねばならない。受け取りなさい」と彼女にお金を渡そうとしました。
ところが彼女は、
「お金は受け取れません。私はお客様にただ心地よく過ごしていただきたいと思っただけなんです」
「どういうことだ?」
米国ではサービスに対して謝礼(チップ)を払うのは当たり前です。
しかし彼女はお金はいらないという。
このあと、彼女の身の上を聞いたバークは驚きました。
彼女は戦争未亡人で、夫は米軍との戦いで命を落としていました。
しかも彼女の亡き夫も駆逐艦の艦長でした。
そしてソロモン海戦で乗艦と運命を共にしていたのです。
バーク大将は、「あなたのご主人を殺したのは、私かもしれない」と彼女に言いました。
ところが彼女は毅然としてこう言ったのです。
「提督。提督と夫が戦い、提督が何もしなかったら提督が戦死していたでしょう。誰も悪いわけではありません。強いて言えば、戦争が悪かったのです」
バーク大将は考え込みました。
「自分は日本人を毛嫌いしているというのに、彼女はできる限りのもてなしをしている。この違いは、いったい何なんだろうか?」
のちにバーク大将は次のように述懐しています。
****
私は彼女の行動から日本人の心意気と礼儀を知った。
日本人の中には、自分の立場から離れ、公平に物事を見られる人々がいること。また、親切に対して金で感謝するのは日本の礼儀に反すること。親切には親切で返すしかないこと、を学んだ。
そして、自分の日本人嫌いが正当なものか考えるようになった。
****
こうして、バーク大将の日本人に対する見方は一変しました。
折りしも朝鮮戦争は激しさを増していました。
バーク大将は一刻も早く米国の日本占領を終わらせ、日本の独立を回復するようにアメリカ政府に働きかけるようになりました。
なぜなら、東アジアにしっかりした独立国が存在することがこの地域の平和を安定させるからです。
そして、その日本の独立を守るために絶対に必要なのが「日本海軍の再建」であると主張しました。
まだ終戦五年後のことです。
米国人の多くがまだ反日感情を持っている時代に、バーク大将は根気強く説いてまわり、ついに海上自衛隊の設立を実現させたのです。
帰国したバーク大将はアメリカ海軍のトップである作戦部長に就任しました。
この時、バーク大将は最新鋭の哨戒機(しょうかいき)P2Vを16機、小型哨戒機を60機も海上自衛隊に無償で提供しました。
昭和36(1961)年、バーク大将は海上自衛隊の創設に力を尽くした功で、日本から勲一等旭日大綬章(最高位の勲章)を贈られました。
平成3(1991)年、バーク元海軍大将は96歳で亡くなりました。
各国から多くの勲章を授与されたバークですが、葬儀の時に胸に付けられた勲章は日本の勲章ただ一つでした。
それは本人の遺言によるものでした。
そのため、ワシントン海軍博物館のバーク大将の展示には、日本の勲章だけが抜けたままになっています。
*
平成23年3月11日、東日本を巨大地震が襲いました。
この戦後最大の国難に際して、在日アメリカ軍は直ちに「OPERATION (オペレーション) TOMODACHI=トモダチ作戦」を発動しました。
このトモダチ作戦で、もっとも早く被災地に着いたのが、原子力空母ロナルド・レーガンです。
本来は韓国に向かう任務で移動中でしたが、艦長の独断で日本の救援に駆けつけてくれたのです。
その艦長の名は、海軍大佐トム・バークでした。
そう、あのアーレイ・バークの孫です。
バーク大佐は、ヘリコプターのパイロット出身でしたから、空母のことは副長に任せ、自分は救援物資を積んだヘリを操縦して、避難所を飛びまわりました。
このような自然災害が発生した場合、世界中でどんな光景が見られるか知っていますか。住民たちによる食料の取り合いが始まります。
こうなると、ヘリコプターといえども危険で着陸できないそうです。
何とか着陸した途端(とたん)、被災住民が銃を撃ちながら食料を取りに来ることもあるといいます。
したがって、たいていは低空から支援物資を空中投下することになります。

ところが東北地方はどの避難所にもヘリが着陸しやすいように、着陸の目印「H」が書いてありました。
ヘリが着陸すると、被災した住民が荷降ろしを手伝いました。
終わったら、全員がお礼を言って見送ってくれました。
これには、世界各地で救援活動をしてきたバーク大佐も驚いたそうです。
みずから「東北地方では、一件の略奪も殺し合いもなかった」と軍の機関紙『星条旗』に書いています。
さらに、住民たちは必ず「ここはこれだけで良いから、別の避難所に持って行ってください」と言いました。
そんなことを言われたことも、日本だけだったそうです。
人間、極限状況にある時ほど、その本性があらわれると言います。
日本人には「みんなが困っている時ほど他人を思いやる」という遺伝子が備わっているように思います。
バーク大佐は帰国後、日本で経験した驚きの出来事を家族に話しました。
この時、もしバーク大将が生きていたら、「お前も日本好きになりおったなぁ」と言って何度もうなづいたかもしれません。
時が流れていくと、変わってしまったり、失われてしまうものがあります。
しかし、そんな中で、変わらないのが日本人の「人を思いやる心」です。
いつまでも護(まも)り伝えていきたいものです。
*
(服部先生の感想)
私たちは安全で物にあふれた日本に生きています。
飢えることはなく、生命の危険を感じることもなく、夜道を女性が一人で歩いても安心です。
こんなすばらしい国は世界にありません。
しかしながら、これにどっぷりつかって思考停止してしまうと、大人も子供もなれ合いになりがちな日常生活の中で大切なことを見失うことにもなりかねません。
思いやりの気持ちも、その大切なことのひとつだと思います。
この授業を通して生徒たちは思いやりの精神の美しさを再認識してくれました。
生徒たちは、自ら進んで思いやりの心を身につけようとの意欲を示してくれました。
*
<ねずさんより>
この逸話をいつものねず式で書いたら、上のようなお話になります。
ところがこれを中学生の子供達に教えるとなると、先生がただこの話をしただけでは、生徒たちは乗ってこないし、理解もしません。
そもそもまったく問題意識がないのです。
しかも道徳は、受験科目にない科目です。北辰テストもありません。
みなさんの学生時代であったなら、どうだったでしょうか。
私は運動部にいましたので、テストに関係のない科目の授業なら、まず、100%寝てました。
教師は、そんな子供達を前に、いかにしたら彼等の興味を惹きつけることができるか。
いかにしたら、子供たちに浸透させ、考えさせることができるか。
いかにしたら、子供たちの心に染み込み浸透する授業にすることができるか。
そのために、子供たちが興味を持ち、理解するように1時限の授業を組み立てます。
もちろんそういうことをしないで、ただ文科省の学習指導要綱に基いて、機械的に授業を処理しようとする教師もいます。
けれど以前ご紹介した斎藤武夫先生や昨日ご紹介した服部剛先生のように、入念に準備をし、本気で子供たちに向かう教師もいます。
だからこそ、授業が子供たちの心に染み込みます。
子供達の心が動きます。
もう少し砕いて言うなら、良い話だからといって、それを、ただ話して聞かせても、子供達は振り向かないのです。
ただ良い話というだけでなく、その良い話をどのようにしたら子供たちに伝えることができるか。
そして伝わった生徒たちがどのように変わっていくのか。
服部先生の、生の授業体験が、この本にはぎっしりと詰まっています。
感動です。
参考図書
『教室の感動を実況中継! 先生、日本ってすごいね』
服部剛 著、中山成彬先生推薦
参考記事
■日本が大好きになる斉藤先生の授業
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2713.html

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