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遣隋使
20150831 遣隋使

今日9月2日は、昭和20年、戦艦ミズーリ艦上で降伏文書への調印が行われた日です。
戦艦ミズーリ艦上での調印の話なのに、どうして冒頭の絵が遣隋使の絵なのか、不思議に思われるかもしれません。
理由をこれからご案内します。
この日について、4年前の今日、西村眞悟先生がご自身のブログ「眞悟の時事通信」に、「戦艦ミズリー号艦上を忘れるな」という記事を掲載されました。
忘れてはならない大切なことが書かれた記事だと思いますので再掲させていただき、内容について考えてみたいと思います。
******
【戦艦ミズリー号艦上を忘れるな】
 西村眞悟の時事通信 2011/9/2
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=670
八月に入れば、慰霊の月となる。八月十五日の終戦の日にむけて、広島と長崎の原爆忌が続く。
その間、マスコミでは、「戦争の悲惨」を訴える回顧番組が組まれ、アメリカ軍の撮した日本兵の死体、斃れ行く日本兵、火炎放射器に焼かれる日本兵そして本年もまたサイパンで崖から身を投げる日本婦人の姿が放映されていた。
しかし言っておく。
これは、戦争の回顧即ち歴史に学ぶことではない。
未だに占領軍に迎合して勢力を伸ばそうとしている左翼が、戦死者を利用して自虐史観を定着させようとする政治活動である。
従って、左翼政党の閣僚は八月になれば、この自虐映像が放映されるのをみてほっとし、靖国神社を無視することになる。


さらに言いたい。
八月にマスコミが流す映像は、アメリカ軍が撮ったものである。
つまり日本軍の組織的戦闘が終結したあとでの、日本兵を狩りの獲物のように撃ち殺し焼き殺す側の映像である。
そして、この映像を我が国のマスコミが毎年使うということは、我が国のマスコミ人は、日本兵をアメリカ軍と同様のマインドを以て見ているということだ。
つまり、戦後の我が国のマスコミは、日本兵をアメリカと同じように虫けらのように見ているのだ。これは、慰霊ではなく冒涜だ。
自問していただきたい。
3月11日に発災した東日本大震災で死亡した方々の映像を我が国のマスコミは放映するのを控えた。
その理由は、愛する同胞(はらから)の死体を晒すことができないからである。
しかし、海外のマスコミは累々と横たわる犠牲者の亡骸を放映した。
それを止めることはできないけれども、その映像を遺族が見れば如何に悲しむか想像できる。
では何故、我が国のマスコミは、日本兵の死体は、情け容赦なく放映するのか。
それは、我が国のマスコミが日本兵を同胞(はらから)と思っておらず、アメリカ軍と同様虫けらと思っているからだ。
我が国のマスコミ人よ、八月の慰霊の月に、よくもこんなこと、冒涜ができるものだ。
どういう神経をもっているのか、可哀想に、未だに亡骸を放映される日本兵は、我らの同胞はらからではないか。
靖国に祀られている英霊ではないか。
更に書いておく。
サイパンで崖から海に身を投げる婦人の映像のことである。
カメラは「身投げ撮影スポット」を決めて待ちかまえている。
アメリカ兵はそのスポットへ、日本婦人を追い詰めてきたのだ。
最後に婦人は後ろを振り返る。
その目に映った映像は、にやにや笑いながら迫ってくるアメリカ兵だろう。
その婦人は、生きてアメリカ兵に捕まれば何をされるか知っていた。
そして、屈辱よりも死を選んだ。
誇り高い女性だ。
やまとなでしこではないか。
その死の瞬間を何故異邦人のようにいつまでも放映するのか。
サイパンでアメリカ軍が日本の民間の婦女子に何をしたか分かっている。
その情報が沖縄に伝わり、沖縄戦の悲惨につながった。
つまりアメリカ軍というのは、インディアン討伐が原点となった軍隊である。
アメリカ軍はインディアンの勇敢な戦士と向き合うことを避けて、いつも戦士の家族の住む村を襲い逃げまどう婦女子に陵辱を加えて皆殺しにしてインディアンを討伐して絶滅寸前に追い込んだ。
彼らは、インディアン婦女子にすさまじい陵辱を加えてから殺戮し、遺体から性器をくりぬいて飾り物にする。
これが戦争になったときの、アメリカ軍の遺伝子である。
従って、サイパンでも沖縄でもそれをしたのだ。日本軍の戦士の家族の住む日本の都市を焼き尽くし、広島と長崎に原爆を投下したのも、まさにその遺伝子に従ったことだった。
つまり、戦士の家族である婦女子の殺戮。
このアメリカ軍の撮影した日本人を殺す映像を、我が国では毎年八月に放映するのが通例となっている。
無念であり、情けない。
反戦を掲げるのは自由だが、同胞の亡骸を利用するのは、止めろ。
いつも通り、書き込んだ表題と違う方向に指が流れたので、もとに戻す。
8月15日を過ぎれば、マスコミからは「戦争回顧」が潮が引いたように無くなる。
まるで言論統制下にあるようだ。
しかし私は、いつも8月15日が過ぎてから、今頃、占守島では、今頃、満州ではと思う。
占守島は千島列島最北端の島であり、ソビエト軍が8月15日を過ぎてから襲いかかってきた島である。
占守島守備隊は敢闘し上陸したソビエト軍を全滅寸前に追い込んで停戦した。
スターリンは、小さな占守島の戦いで蒙ったソビエト軍の損害が、全満州における損害より大きかったので、占守島以南から北海道への武力侵略を断念したといわれている。
8月15日以降に、千島最北端では、本土北海道を守る戦いが敢然と行われ勝利していたのだ。
そして8月15日に降伏を決めた我が国家の仕事として、連合軍との間で降伏文書調印の役を担ったのが外務大臣重光葵全権であった。
重光葵は、調印にあたり全権代表として陛下に内奏した。
「臣、葵。降伏文書に調印することは、我が国有史以来の不祥事であり残念でありますが、日本民族を滅亡より救い、由緒ある歴史及び文化を続ける唯一の方法です。この文書に調印し、この文書を誠実に実行することにより、国運を開拓すべきと考えます」
また重光は、八月二十八日、夜行列車で伊勢神宮に参拝した。
我が国は、ドイツのように無条件降伏したのではない。
従って、重光葵は、降伏文書の調印後からマッカーサーと戦わねばならなかった。
立派に、彼は戦った。
そしてGHQが敷こうとした我が国への軍政を、彼はマッカーサーと直談判して停止させた。
今日、9月2日は、昭和7年に爆弾で片足を吹き飛ばされた重光葵がアメリカの戦艦ミズリー号の甲板に立ち、我が国の降伏文書に調印した日である。
この日から「戦後日本」が始まり、この「戦後体制」との戦いは今も続いている。
何故なら、我が日本は、戦前と戦後の区別無く一貫しているのに、戦後体制で旨味を占めた日本人は、戦前を否定して断絶したものと捉えているからである。
重光葵が守ろうとしたのは、一貫した由緒ある歴史と文化をもつ我が国家と日本民族の連続である。
ところで、重光の片足のことであるが、昭和七年の上海における天長節の式典に参加したときに、爆弾を投げられて付け根から失った。
爆弾を投げ込まれたその時、檀上で天長節を祝う国家斉唱中だったので動くのは不敬であるとして重光は動かなかったという。
また動かなかったのは重光だけではなく、檀上にいた白川義則司令官、野村吉三郎司令官、植田謙吉師団長など全員が直立したまま国歌を歌い続けた。
そして、白川死去、重光片足切断、野村右目失明、植田足指切断の傷を負った。
あの時代の日本人、とてつもないではないか。
自分が国歌斉唱中に爆弾を足下に投げ込まれたとき、とっさにどうするかを思えば、直立して歌い続けた日本人は「とてつもない」としか言いようがない。
その爆弾が足下に転がっても直立して国歌を歌い続けた重光葵が、昭和20年9月2日、戦艦ミズリー号で降伏文書に調印し、それからマッカーサーと戦った。
なお、その時重光葵が見た星条旗は、嘉永6(1853)年、ペリーが浦賀に来航した際に乗船していた旗艦サスケハナ(2450㌧)に掲げられていた星条旗である。
そして、赤坂にある在日アメリカ大使館の現在の応接室には、その旗艦サスケハナの1メートル大の模型が飾られている。
しかし、この応接室を訪れる日本人の中に、飾られている外輪帆船の模型を見てサスケハナと見分け、更にそのサセケハナに嘉永6年、ペリーが乗って浦賀に来たと分かるものが何人いるであろうか。
アメリカ人は、このような歴史の記憶の仕方をする。
従って、東条英機ら7名の処刑を今上陛下のお誕生日に行った。
そこで、我々日本人も「記憶の民」にならねばならないと強調したい。
しかし我々の記憶は、戦利品や相手に屈辱を与えたときの旗などの「見せびらかし」のためではない。
我々が失ってはならない記憶は、66年前の9月2日、敵の戦艦ミズリー号の甲板にいた重光葵全権の体内に渦巻いていた日本人の誇り、日本人の精神、即ち「教育勅語」だ。
我々は、「教育勅語」に帰り、
この精神を記憶しなければならない。
以上、重光葵に関しては、畏友の福冨健一氏に教えられた。
丁度、私が敗戦直後の占守島の戦いと祖国から切り離された満州の関東軍と在留邦人の運命に思いを馳せていた数日前に、著者の福冨氏から、まことに時宜をえた重光葵の次の評伝が届いたのである。
福冨氏と私は、平成6年に解党してしまった共産・左翼勢力と戦うことを党是とした民社党の同志である。
諸兄姉に、福冨氏の書き下ろした重光葵を是非読んでいただきたいので、次にご紹介する。
福冨健一著
「重光葵 連合軍に最も恐れられた男」、講談社、1700円
なお、本書の表紙の帯にはこう書いてある。
「苦難の時代の日本人に指針を示す昭和最高の頭脳と胆力」
「今この男が生きていたら原発事故も大不況も恐くない」
******

ミズーリ号

上の写真は、戦艦ミズーリ(Missouri)の艦上での調印式のときの模様です。
写真をよく見るとわかりますが、重光全権と随員(この随員は当時の外務省の職員で、実は加瀬英明先生のお父さんんです)は、モーニングにシルクハット姿です。
最高の礼装です。
ひとり白の背広の上下の方がおいでになりますが、これは大田三郎さんという外務省の職員で、戦災ですべて焼き出されてしまって、モーニングが間に合わずに、仕方なく背広の上下でいます。
日本の軍人さんも写っています。
略式の軍服です。
軍人が正式の礼装をするときは、いまの警察官のような、固いツバのついた帽子をかぶります。
ところが軍人さんたちは戦闘帽です。
海軍にいたっては、カーキ色の戦闘服です。
どうして外務省の一行が正装のモーニングを着ているのに、軍人は略装だったのでしょうか。
重光全権ら外務省の一行は、畏れ多いことですが、天皇陛下を代表する立場でした。
外務省の一行は、敵国に対してではなく、天皇陛下に敬意を表して礼服です。
軍人は、軍の代表です。
仇敵に敬意を払う必要がないから略礼服です。
一方、周囲にいる米国を筆頭とした相手側の人たちは、礼服でさえありません。
これは通常勤務時に着用する勤務服(SERVICE UNIFORM)です。
小さなこと思うかもしれません。
けれど、国際社会において、こういう小さなことが実は大きなことなのです。
なるほど日本は戦いに敗れました。
しかしその結果、アジアの諸民族は解放されています。
その高波がアフリカ大陸も洗って、次々と新しい独立国が誕生しています。
数百年にもわたって続いた西洋の苛酷だった植民地支配に日本が終止符を打ったのです。
先の大戦は、「軍国主義国日本と、民主主義国だった米国が戦って、米国がファシスト日本を打倒した」という話をお聞きになってきた方もおいでのことと思いますが、まったくの嘘です。
その証拠には、私達が戦った米国は、同じ米国民である黒人を戦時中も戦後も法的に差別していたではないですか。
米国が黒人に市民権を与えた、つまり人としての権利を与えたのは、戦争が終わって19年も経った昭和39(1964)年のことです。
なぜ米国がこの年に黒人に市民権を与えたかには理由があります。
アフリカ諸国が独立することによって、独立国は米国に大使を送り、大使館を建てます。
大使ですから、当然に人として扱われます。
こうなると、同じ黒人なのに、アフリカの大使は人として扱われ、米国に代々住んでいる黒人は人として扱われないという社会矛盾が顕在化します。
結局、米国は、米国黒人にも市民権を与えざるを得なくなったのです。
そしてこの昭和39年というのは、東京オリンピックが開催された年です。
その東京のオリンピックにおいて、黒人国家の代表選手たちは、白人国家の代表選手たちと堂々と対等な人間として競技を戦っています。
人種差別問題に対して、昭和39年の東京オリンピックが世界に与えた影響力は、まさに世界を変える出来事だったのです。
そして、そういう偉業を世界に向けて日本が成し得たのは、私達日本人が、古代の遣隋使の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の時代から一貫して自立自存の心を強く抱き続けてきたからに相違ありません。
歴史を学ぶというのは、そういうことを学ぶことなのだと、私は思います。
それが冒頭の絵の理由です。
(参考資料:新しい歴史教科書をつくる会、日本史検定講座加瀬英明先生講義資料)
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