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20150830 日本の一番長い日

映画『日本の一番長い日』が公開されています。
原作は半藤一利先生で、監督はトム・クルースが主演した映画「ラストサムライ」に出演してた原田眞人氏です。原田眞人氏は、以前、佐々淳行氏の『突入せよ! あさま山荘事件』(2002年)も撮っていて、これも良い内容でしたので、今回の映画もある程度期待できるものと思っています。
この映画の中で、最後まで戦争継続(遂行)のために力を尽くした若い青年将校たちが、最後に自決するシーンが描かれています。
これは本当にあった話です。
ただ、自決の理由については、映画の説明が足りないと感じました。
なるほどすでに日本の敗色が濃くなる中で、「それでも戦争を継続する」という選択は、いまの私達の目から見ると異様なことに思える方が多いかもしれません。
けれどそれこそが、戦後のGHQと左翼の宣伝工作にうまく乗せられてしまっている証(あかし)なのです。


なぜなら、軍人というものは、どんな状況下にあっても最後の最後まで死力を振り絞ってでも戦いに勝利できるように努力するものだからです。
それが軍人の責任というものです。
ですから彼等は、
「戦争を続けたいと願った」のではありません。
「戦争に勝つための努力を最後まで続けてるために割腹した」のであり、
「敗戦の責任を自らの痛みとして命に刻むために割腹した」のです。
責任ということには、少し補足が必要です。
戦いに敗れるということは、それによって国家とそこに住む人々が痛手を被ることを意味します。
その痛みを、我が痛み、自分の痛みとして身に刻むのです。
敗れた責任を我が痛みとすることで、責任を魂に刻み、魂魄となって、あるいは来世においてその責任を全うしていく。
その覚悟を身と魂に刻む行為が、切腹なのです。
例えは悪いかもしれませんが、いま、女子バレーボールチームが「FIVBワールドカップ2015」を戦っています。
なぜここで女子バレーボールなのかというと、単に私が全日本女子バレーボールチームのファンだからという理由です。ごめんない。
バレーボールの試合は、点をとったりとられたりします。
点差が開いたら、もう試合をあきらめるでしょうか。
仮にもう負けるとわかっても、それでも最後の最後まで勝利を信じ、仲間たちとともに戦い続ける。
そんな姿に、誰もが共感し、応援をします。
せんだって終わった夏の甲子園も同じです。
今年の決勝戦は東海大相模と仙台育英でしたが、8回裏まで、両者は6−6でした。
ところが9回表で東海大相模が4点を連取しました。
10−6の大差となりました。
それでも仙台育英の球児たちは、9回裏、決してあきらめることなく、最後の最後まで勝利を信じて真剣な勝負を繰り広げました。
そういうものだと思うのです。
まして国家として命がけの戦いが戦争です。
どんなに苦しくても絶対にあきらめない。
だから、各所で兵隊さん達は玉砕してまで戦ったし、特攻してまで戦い抜いています。
最後の最後まで、文字通り死力を尽くして戦っています。
けれど、終戦が決定となり、玉音放送に至りました。
だから本部の責任者たちの多くが腹を斬って自決しました。
なぜ自決したのか。
GHQには、その意味も理由もわからなかったし、そのGHQに洗脳された戦後サヨクもまったく意味も理由もできないものであったようです。
最近では、ChinaやKoreaの工作活動がさかんですが、やはり彼等にもその意味も理由もわからないようです。
だから、ただ「狂気であった」と結論付けています。
けれど、そんな理由付けに、多くの日本人は心の中で、「何かが違っている」と感じることでしょう。
何が違うのかの説明はできなくて、理由がうまく説明できないまま、無理やり与えられた「狂気」という情報も受け入れられないまま、結局のところ自分のなかで当時の人達の行動を「他人ごと」にしてしまうことで、ようやく心を落ち着かせているのではないでしょうか。
なぜ、深く考えたり、あるいは他人ごとにまでしてしまうのかといえば、はっきり言ってしまえば、「狂気である」という説明に、誰も納得できないからです。
当時の日本人には、戦後高度成長を担った時代の日本の企業人にも共通の、つまり古くからある日本人にとってあたりまえの常識が備わっていました。
そのひとつが「忠義心」です。
その「忠義」とは、China語としての漢字の意味ならば、皇帝に対して身を捧げることです。
「忠」は、見た目の通り心の中心であり、
「義」は、我が身を羊の生贄として捧げることだからです。
けれど、日本人にとっての意味は違います。
「忠」は、「まめなる心」です。
「義」は、「ことわり=条理」です。
「まめ」という日本語は、新婚の妻が夫にかいがいしく尽くしたり、未婚時代にその妻を口説くために、まめまめしくプレゼントしたり気遣いをみせたりと、いたいけな努力を重ねるような場合にも使われますが、ようするに、大きなことから小さなことまで、自分にできるすべてを、そのためにつくすことをいいます。
そして「ことわり」は、ものごとの筋道であり条理、道理です。
軍人であれば、戦いに勝つために全力を捧げる。
それは、ただ全力を捧げるというのではなくて、自分にできるすべてを、条理に従い、毛筋一本にいたるまで使い果たして戦う。
それが「まめなる心」であり、軍人としての「ことわり」だったのです。
そして日本人は「魂と命」の存在を知っています。
そんな教育を受けていない現代人でも、多くの人は、肉体には魂が備わっていると感じています。
命は肉体がほろびれば、一緒に滅びます。
それはスマホやパソコンの電源がOFFになるようなものです。
けれど、電源をOFFにしたからといって、スマホやパソコンを使っている人が滅びるわけではありません。
魂は、再び輪廻転生してこの地上に舞い戻り、あるいは魂魄となってこの世に留まり、国を護るのです。
日本の軍人(武人)に敗北の二字はありません。
肉弾戦で生命が失われても、魂魄となって戦う。
それが、「まめなる心」で、「ことわり」を尽くすことになるからです。
実際、肉体的にも精神的にも頭脳的にも、この世で持つ自分のすべてを出し切って戦ったのなら、あとに残っているのは、自分の魂だけです。
ならば魂魄となって戦う。
自らの手で、みずからの肉体を滅ぼし、魂魄となって戦う。
生まれ変わって尚、戦う。
責任を我が身と魂に刻み込む。
それが日本人にとっての「忠義」です。
だから玉砕してでも攻撃する。
だから、腹を切る。
腹を切ることは、自ら責任を取るという意味もあります。
けれど、魂魄に刻むという意味もあるのです。
つまり切腹は、
敗戦の責任をとるという意味と、
生命がなくなっても、魂魄となって責任をまっとうするという
二つの意味があるのです。
そういう日本人の「肉体には魂が宿る」という死生観が、外国人にはわからない。
ChineseやKoreanは、いま生きている肉体の贅沢しか頭にないし、白人たちの信仰では、復活の日に肉体が再生されると説かれています。
あくまで肉体と生命、魂魄は一体なのです。
だから日本人の行動が「狂気」としてしか理解できなかったし、説明できなかったし、日本人をいいように騙した在日が日本破壊工作として日本人学生を騙していた戦後サヨク運動家たちにも理解できない。
ちなみにその在日の戦後左翼活動家は、学生運動華やかりし頃、女学生を性の道具にすることで日本人学生たちを左翼活動に巻き込んでいました。
おかげで神田川は、ゴム製品で川が詰まったほどだといいますから、すさまじいものです。
昨今ではその活動が、もっぱら日本人女性を騙すAVにシフトしているそうですが、こういうことは、犯罪が起きてから処罰するという現行法体系のもとでは、処罰できません。
本来、根絶やしにしていかなければならないことなのです。
話が脱線しましたが、私は宗教家ではありませんので、カルト的なことにはまったく不案内ですし、宗教のことは全くわかりません。
ただ、先日も伊勢神宮、熱田神宮、近江神宮、明治神宮等に参拝させていただき、神様の御存在は、まちがいなく「ある」と感じています。
◆ご参考→http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2623.html
そして、古くからの日本人が、命と魂を別物と考えていたということも、百人一首の研究や、記紀の研究等を通じて、学ばせていただきました。
命が失われることは、目に見えることですが、魂の永続性は、目に見えるものではありません。
ですからわからない世界です。
けれど目に見えないから存在しないというのなら、空気は存在しないことになる。
ウイルスや細菌や放射能も存在しないことになります。
何かある。
そういう「何かある」という自分自身の感覚は、自分自身の体験ですから疑いようがありません。
そして何万年も続く、古くからの日本人という血脈のなかで蓄積された古代の知恵というものは、それなりに尊重すべきものだと思うのです。
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