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20150814 占守島MAP

昭和20(1945)年8月15日の終戦の三日後である8月18日に、ソ連軍は千島列島北端の島、占守島(しゅむしゅとう)に侵攻してきました。
それは、宣戦布告も警告も一切ない突然の奇襲攻撃でした。
このときのスターリンは、クリル諸島を奪取して、あわよくば北海道の東部まで侵攻する目論見でした。
しかし初っぱなの占守島で、日本軍の猛烈な反撃を受けて、ソ連は北海道の占領を断念しています。
占守島で行われた激戦については、昨日の記事に書いていますので、今日は、上原卓先生の『北海道を守った占守島の戦い』(祥伝社新書)をもとに、その戦闘の終結時に起きた出来事をご紹介しようと思います。
なお、文章は、ブログでの紹介ですので、原文をねず式で要約していますので、もし間違いがありましたら、文責は私にあります。


8月18日の正午前に、第5方面軍(在札幌)の司令官樋口季一郎(ひぐちきいちろう)中将から、幌筵島(ぽろむしろとう)の第91師団司部に戦闘中止命令が届きました。
命令を受けた堤(つつみ)師団長は、麾下(きか)の各旅団長・大隊長に「18日16時をもって攻撃を中止し、防御に転移すべし」との命令を発しました。
そして13時、堤師団長から大観台(だいかんだい)の杉野旅団長のところに、「ソ連軍司令部と停戦交渉をせよ。停戦交渉の軍使は、長島厚(ながしまあつし)大尉をこれにあてよ」との命令文書が届けられました。
長島大尉は、軍使として、停戦文書を図囊(ずのう)にいれ、大観台(だいかんだい)の旅団司令部を14時頃に出発しました。
長島大尉に随行したのは、木下少尉、成瀬曹長、鈴木一等兵(伝令)と、般林南岳(はんはやしなんがく)少尉の率いる二個分隊26名の護衛隊兵士、それに牛谷功通訳(日魯(にちろ)漁業の従業員)の31名でした。
護衛隊長の般林(はんばやし)少尉は、学徒出身の応召兵でした。
応召兵にして少尉にまで昇進するは異例のことです。
その知力・胆力が認められての昇進でした。
一方、部下の分隊長板垣軍曹も応召兵でしたが、中国戦線で匪賊(ひぞく)と戦い幾度も死地をくぐり抜けてきた古参兵でした。
実戦の経験を持たない般林(はんばやし)少尉には、自分が「よき隊長であらねばならぬ」という気負いがありました。
その気負いが、般林(はんばやし)少尉に死をもたらすことになります。
長島大尉たちが訓練台の南側をすぎて窪地にさしかかったとき、訓練台の南側に進出しているソ連軍が長島大尉たち一行を認めて、速射砲、迫撃砲、重機関銃の猛射を浴びせてきました。
これに応じて、訓練台やそ後方の大観台(だいかんだい)に布陣する日本軍も砲撃を始めました。
なんと、長島大尉たちは敵味方から飛来する銃砲弾の真っ只中にはさまってしまったのです。
場所は、身を隠す場所のない低地です。
腹ばいになって弾を避けていた大尉たち一行は、銃砲弾の連射の途切れる瞬間にバネのように飛び起きて、低い姿勢をとって突っ走り、次の銃砲弾の猛射が始まると感じた瞬間に身を伏せたそうです。
このときの模様を長島大尉は後年、「脳細胞の活動を停止させ、本能の命ずるままに走り、身を伏せました」と語っています。
これが実践経験を持つ兵の凄味といえるかもしれません。
長島大尉は、ようやく四嶺山の南側山麓にたどり着きました。
木下少尉、板垣軍曹、護衛隊員たちも硝煙と泥で汚れた顔で次々と到着しました。
ところが般林少尉と牛谷通訳、それに護衛隊員の多くは、遂に姿を見せませんでした。
板垣軍曹の語るところによれば、目の前を行く般林少尉は、銃砲弾の猛射のなか、身をせることなく悠然と歩いていたそうです。
長島大尉は、「般林少尉は自分が勇気のある隊長であることを部下に示そうという気負から無謀な行動を取った。その結果、わが命を失っただけでなく、少尉に従って行動した部下たちの多くの命まで奪うことになってしまった」と、痛ましく思いながら、このとき心のなかで合掌しています。
このとき長島大尉は、霧の切れ目から、100メートルほど前方に味方の戦車隊がいるのを見つけました。
戦車隊に近づくと、そこに、戦死した池田連隊長に代わって戦車連隊を指揮をとる伊藤力男大尉がいました。
伊藤大尉と長島大尉は、陸軍士官学校時代の同期生です。
長島大尉の姿を見た伊藤大尉は、「おう」と片手を挙げました。
長島大尉も、「お前、よく生きとったなあ」と、伊藤大尉の手を握りました。
そして驚きました。
穏和な福顔と柔和な目をした伊藤大尉が、引き締まった顔と鋭い眼をもつ戦車連隊指揮官に変わっていたのです。
長島大尉は、その変容ぶりに瞠目しました。
伊藤大尉と分かれたあと、長島大尉は、占守街道に出たところで街道脇に窪地を見つけて小休止しました。
ここから先は敵陣です。
9名が一緒に行動すると、日本軍の尖兵と勘違いするソ連軍の集中砲火を浴びせられ全滅しかねません。
長島大尉は、
「このまま前進すると、損害のみが増加してわれわれの任務達成はおぼつかない。
ここからは、私ひとりで進み任務を全うしたい。
木下少尉は全員を率いて大観台に帰り、この状況を報告せよ」といいました。
長島大尉の言葉を聞いた成瀬曹長は、即座に、
「これまで通り、長島大尉と行動をともにし、死ぬ時は一緒に死にます」といいました。
間を置かず板垣軍曹も、
「私は部隊長から軍使の護衛を命じられています。
般林小隊長の代理として行動を共にさせてください」と身を乗り出しました。
長島大尉は、その二名のみの同行を認め、他の木下少尉たち6名を後方に帰らせ、3名で占守街道を北上しました。
北上する途中で、塹壕(ざんごう)に身を隠し敵と対峙している友軍の歩兵小隊に会いました。
塹の一つに、白兵戦で捕虜にしたソ連兵が一人、両手を縛られて座っていました。
長島大尉は、停戦交渉のためにソ連軍の前線基地に向かっていることを小隊長に伝え、捕虜を案内役として貰い受けたいと言いました。
小隊長は快く承知しました。
長島大尉が先頭に立ち、ソ連兵を成瀬曹長と板垣軍曹が前と後ろからはさむたちで、足音を立てぬよう、少しの物音も聞き漏らぬよう気を張り詰めながら、占守街道をゆっくりと進みました。
30分ほど進んだとき、前方の暗闇のなかから話し声が聞こえてきました。
長島大尉たちが、声のするほうへ音を立てぬように匍匐(ほふく)していきますと、小さな丘の茂みのそばに屯している数名のソ連兵の姿が見えました。
警戒任務にあたっているソ連軍の歩哨でした。
長島大尉は、同行しているソ連兵に、身振り手振りで「ソ連軍の将校に会いたいと言ってほしい」と頼みました。長島大尉の頼みを理解したソ連兵は、「ヤポンスキーが、わが軍の将校に会いたいと言っている」と大声で叫びました。
その途端、長島大尉たちは、一斉射撃を浴びました。
ソ連兵は、暗闇のなかの予想もしない近距離から「ヤポンスキー(日本兵)・・・」と怒鳴る声があがったので、日本兵がここまで攻めてきたと驚愕して射撃したのです。
素早く道路の側溝に身を伏せた長島大尉は、ポケットから取り出した白いハンカチを振り、戦う意思のないことを示しました。
それを見た数名のソ連兵がマンドリン銃を数発撃ち、更に肉薄して3、4メートルほど手前で止まると、マンドリン銃を腰に構えながら乱射しきました。
銃弾は、長島大尉たちの左右や頭上をシュッ、シュッと鋭い音を立てて飛びすぎました。
その1弾は長島大尉の軍服の左肩をこすって飛び去りました。
長島大尉は「もう駄目か」と観念しました。
マンドリン銃の乱射は、30発ほどで止みました。
ソ連兵たちは、日本兵が無抵抗であることを知ると、一斉に飛びかかって来ました。
長島大尉は、ソ連兵に後ろ襟をわしづかみされ側溝から引きずり出されました。
長島大尉は着用していた軍刀、図囊(ずのう)をはじめとする軍装品から腕時計や軍袴(ぐんこ=ズボン)のベルトにいたるまで、あっという間に奪い取られました。
ソ連兵たちは、長島大尉たちを後ろ手に縛り上げると、背中を小突いて歩くよう促しました。
歩くこと10分ほどでソ連軍の兵舎に着きました。
兵舎は村上大隊が造っておいたものでした。
長島大尉たちは、兵舎の前庭に座らされ木に縛りつけられました。
ソ連兵たちは、長島大尉たちを日本軍の斥候(せっこう)とみているようでした。
(どうすれば、分が軍使であることをソ連軍に認めさせられるだろうか)
長島大尉は軍使であることを証明する停戦文書を収めた図囊(ずのう)を奪われたことが残念でなりませんでした。
8月後半の冷気が軍服を通して体にしみこんできました。
長島大尉は、身震いとともに尿意を催しました。
長島大尉は見張りの兵士に声をかけ近寄ってきた三人の兵士に、自分の股間を指して「シーッ、シーッ」といいました。
ソ連兵の一人が本部兵舎に向かい、伍長の肩章をつけた下士官を連れて来ました。
下官は日本語が少し分かりました。
長島大尉は、このチャンスをとらえました。
用を足し後、長島大尉は、下士官に自分は停戦交渉の軍使であると伝えました。
長島大尉の言葉を理解した下士官は、急ぎ足で兵舎に戻っていきした。
長島大尉が本部兵舎に呼び入れられたのは、それから少しした、日にちが変わった19日の午前2時ごろでした。
長島大尉が本部兵舎内に入りますと、土間に敷き詰めた筵に腰を下ろした少佐をトップに、6人の将校たちがいました。
少佐の横にいる大尉が、上官をさしおいて訊問を始めました。
長島大尉は、この大尉はコミッサール(政治将校)だろうと思いました。
政治将校は、ソ連共産党に直属していて、プロパガンダ、防諜、反共思想の取り締まりを担う軍隊内の政治指導者です。
政治将校は、政府の政治原則を逸脱する軍司令官を罷免する権限さえもっています。
長島大尉は、氏名と階級を告げ、ソ連軍の前哨線に入ったのは、軍使として停戦交渉をするためであると伝えました。
それを少尉が通訳すると、将校たちのあいだにざわめきが起こりました。
政治将校は、
「軍使であることを証明するものを出せ」といいました。
長島は、
「前哨線で捕まったとき、持ち物のすべてを奪われた」と答えました。
政治将校は、傍らにいた少尉に早口で何事かを指示しました。
出て行った少尉は、5分ほどすると長島大尉の図嚢を手にして戻ってきました。
長島大尉は、受け取った図嚢を開けました。
中に入っていたものはほとんど紛失していしましたが、幸いにも通信文綴りだけは残っていました。
それをめくると、停戦文書が挟まっていました。
停戦文書には、
・現在の戦線で両軍ともに速やかに停戦する
・武器引き渡しに関する交渉をする用意がある
・その方法について交渉したい
と書かれていました。
長島大尉は、通訳を介して停戦文書の内容を説明しました。
しかし、政治将校は、文章の末尾にある「日本軍北千島最高司令官 」を指して、「司令官の氏名と司令官直筆のサインが無い。これでは、停戦文書と認めるわけにはかない」といいました。
日本軍司令官が発する文書には、司令官の氏名を記しません。
ましてや、司令官が直筆のサインをする慣習など日本軍にはありません。
軍使の任務を遂行するために命懸けでやって来て交渉が頓挫したのでは、これまでの苦労が水の泡になります。
長島大尉は、窮地に陥りました。
そのとき、長島大尉のなかに、ある記憶が蘇りました。
それは、中学校時代に英語の授業でラフカディオ・ハーンの『十六桜』を読んだときに、「HARAKIRI」(ハラキリ)という言葉が出てきて感動した記憶でした。
(そうだ、これを使おう。ソ連の将校たちに教養があれば、日本武士のハラキリの意味が分かるはずだ)
そう思った長島大尉は、政治将校やその周りの将校たちの顔をゆっくり見渡していいました。
「貴官たちがこの停戦文書を信用しないのならば、私はハラキリをする」
長島大尉の言葉を聞いたソ連軍将校たちはシーンとなりました。
政治将校は「ウーン」と唸り、「ダー」(分かった)といいました。
政治将校は、これまでの処遇の非礼を詫び、軍刀を長島大尉に返しました。
その他の装備品については、「どこへ行ったか分からない」と気の毒そうにいいました。
それらの装備品がもどってくることは遂にありませんでした。
将校たちは、長島のそばに一人の少尉を残して別室に行き、無線電話を使ってどこかと連絡を取りました。
しばらくすると、少佐が戻ってきて長島大尉に、
「貴官を今から上陸軍指揮官アルチューフィン大佐の指揮所へ連れていく」といい、案内役の大尉を紹介しました。
長島大尉は、案内役となった大尉に従って、本部兵舎の外に出ました。
一面に漂う薄霧が、朝の陽光を白く反射していました。
長島大尉は、成瀬曹長、板垣軍曹とともに、案内役のソ連軍将校に先導され、四嶺山(しれいざん)北側山麓にあるソ連軍の前線本部に到着し、上陸軍指揮官アルチューフィン大佐に会ました。
長島軍使は、堤司令官の停戦交渉文書をアルチューフィン大佐に手交しました。
こうして長島大尉は、軍使としての任務を達成しました。
それは、19日の午前6時30分ごろでした。
そして停戦交渉がまとまったのが21日の正午頃、堤師団長が、幌筵島沖にやってきたソ連警備艦キーロフに赴いて降伏文書に調印したのが22日13時頃です。
占守島戦いは、足かけ4日間の激戦です。
戦いにおける両軍の損害は、ソ連軍側の統計によれば、ソ連軍の死傷者1567名、日本軍の死傷者1000名でした。
日本軍は、武装解除後、戦死者の確認や収容を認められぬままに、捕虜としてシベリアやヨーロッパ方面に移動させられたため、死傷者の正確な数をつかめませんでした。
日本軍側の推定によれば、日本軍の死傷者は死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3000名です。
当時のソ連政府機関紙イズベスチヤは、次のように占守島の戦いを紹介しています。
「占守島(しゅむしゅとう)の戦いは、満州・朝鮮における戦闘より損害がはるかに大きかった。
8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」
占守島で激戦が行われていた同じ時期に、米軍は北海道への進駐を行いました。
これによって、ソ連軍は北海道への侵攻をあきらめています。
このことは、逆にいえば、もし占守島が簡単に陥落していたら、ソ連軍はそのままの勢いで短期間に北海道までなだれ込み、いまの北海道は、もしかすると北海道人民共和国とかの名前で、日本とは別の国になり、そのために朝鮮半島で北朝鮮と韓国の戦闘(朝鮮戦争)が起きたように、日本でも北海道と本州間で、東北北海道戦争が起きていたかもしれません。
いま、北海道は日本です。
そして北海道にお住まいの方々は、その誰もが戦後70年の平和と安定と経済の成長を享受しています。
婦人服の流行は、東京の流行が、全国でいち早く、その1時間後には北海道で流行すると言われるほど、北海道は戦後の繁栄の最先端を享受してきました。
もちろんそれには、日本国政府が北海道開発庁をつくり、北海道の経済の繁栄を支え続けてきたことの影響があります。
けれどもし、北海道が北朝鮮のような、ソ連配下の共産主義国となっていたら、果たして北海道の戦後史はどのようになっていたでしょうか。
「歴史にIFは禁物」などと言わないでください。
「歴史にIFは禁物」は、左翼の洗脳用の妄言です。
歴史は、常に「IF」を考えることで、現在と、そして未来のための生きた教材となるのです。
ひとつはっきり言えることは、もしそうなっていたのなら、北海道は東ドイツや北朝鮮同様、経済は貧困にあえぎ、大量の餓死者が発生したであろうということです。
また、北海道と本州が、それぞれ東側陣営、西側陣営に分断されていたならば、そこは米ソの東西冷戦における代理戦争としてのドンパチのひとつの中心地になっていたであろうということです。
いったい、どれだけの血が流れたことか。
想像するだけで、そらおそろしくなります。
占守島を守った男たちは、その後、シベリアに抑留され、辛い時期をすごし、そして祖国帰還後は、日本の経済成長のために一命を捧げられてきました。
そうした先輩たちのおかげで、いまの私達の繁栄がある。
そのことを、わたしたちはもういちど、しっかりと考えてみる必要があるのではないかと思います。
そうそう。
男と書いて「おとこ」と読みますが、古い大和言葉では「おとこ」は、「流れをせき止め、立てわける」といった語彙になります。
不当があったとき、これをせき止め、立て分け、平和を護る。それが「おとこ」という言葉の持つ意味です。
これに対して「おんな」は、「光を受け止めて成就させる」という意味の言葉になります。
女性は光であり、光を受け止めて子を産み、未来を成就させます。
だから「おとこ」は身を呈して「おんな」を護る。
それが日本男子です。


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