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日本の国旗は日の丸です。
白地に赤丸です。
丸というのは、必ず中心点があります。
日の丸が国旗として用いられるようになったのが、いつ頃かというと、公式な記録に日の丸がはじめて現れるのが、平安時代初期の延暦16(797)年に編纂された「続日本紀」です。
そこに、大宝元(701)年の正月元旦の朝賀の儀に「日像の旗」を掲げたという記述があります。
ちなみに奈良時代のはじまりが、和銅3(710)年ですから、大宝年間というのはその前、飛鳥時代の出来事、ということになります。
公式な式典である朝賀の儀に用いられたということは、実際にはそれ以前から民間部門で日の丸は使用されていたということかもしれません。
日本が日の丸を使い始めたのは、それほど古くからだ、ということです。
日の丸は、世界最古の国旗でもあるのです。
にもかかわらず、日の丸の国旗を「戦争のシンボルだ」とか言ってサゲる人達がいます。
あわれなものです。
自分から教養のなさを露呈している。
いえば言うほど、「私、馬鹿で〜す」と言っているようなものです。
さて、今日、お話するのは、日の丸そのもののことではなくて、丸には中心点がある、というお話です。
その中心点が、実は、神様になっています。
古事記は、冒頭の「日像の旗」を掲げた朝賀の儀が行われた年の11年後の和銅5(712)年に編纂されたものですが、実はその古事記の出だし、冒頭の記述が、その「中心点」のお話なのです。
そこに、世界のはじまりが書かれています。
現代語訳してみます。
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【神代七代】
天地(あめつち)が初めに発したときに高天原におみえになられた神様の名は「アメノミナカヌシ(天之御中主神)」でした。
次が「タカミムスビノカミ(高御產巢日神)」で、
その次が「カミムスヒノカミ(神產巢日神)」です。
この三柱の神は、お一人でご出現なさった神様で、その後身をお隠しになりました。
(原文)
天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御產巢日神、次神產巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時流字以上十字以音、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。
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サクっと読み飛ばしてしまいそうな短い文です。
が、よく読むと、もうこの冒頭から、不思議な世界観が広がっているのが、実は古事記です。
と申しますのは、この三柱の神様のお名前です。
最初の神様が「アメノミナカヌシ(天之御中主神)」です。
「アメ(天空)の真ん中の主(ぬし)」というお名前です。
つまり、天空の中心点であり、日の丸の円の中心点です。
点はすべてのはじまりであり、すべての中心です。
では、点というのは、どのくらいの大きさをしているのでしょう。
1cm? 1mm? 1ミクロン?
中心点に大きさはありません。とにかく極小な「点」です。
この「点」が最初の神様です。
実は最新の理論物理学は、すでに「宇宙の創世はビックバン」から、という説を越えて、さらにその「ビックバン」が起きる前の状態まで解析が進められています。
これによると、やはり一番最初は、9次元くらいの高次元空間に、極小の「点」が生まれたとされているとされています。
この点が、ある瞬間に、ニュルっと伸びて、「線」になります。
「線」は、点と点が結ばれたものです。
これが現代理論物理学でいう「超ヒモ理論」に描かれた、宇宙への発展のはじまりです。
「点と点が高次元空間で結ばれてヒモになった」わけです。
なんと、2番目の神様のお名前をみると、「タカミムスビノカミ」となっています。
まさに「高次元空間で結ばれた神」というお名前です。
現代物理学では、宇宙の創世は、最初(137億年前)に、点が生まれ、その点と点が結ばれて高次元空間に、原子よりも数万倍小さな「ひも(弦)」が生まれたと説かれます。
その紐が、閉じた輪の弦や、開いた弦となり、弦と弦の触れ合いが、振動になり、これがすべての物質のはじまりであり、また宇宙の創世(ビックバンの前の姿)だとされているのです。
つまり三番目には「弦と弦が結ばれ」ているわけです。
古事記に出てくる三番目の神様のお名前は、なんと「カミムスヒノカミ」です。まんまです。
なんと、「最先端の現代理論物理学がようやく辿り着いたところは、古事記の冒頭に描かれた世界であった」というわけです。
なんだかすごいです。
もうすこし古事記の記述を追ってみます。
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次に、国がまだ稚(ちいさく)て、水に浮いた脂やクラゲのようにふわふわと漂っているときに、泥の中から葦が目を出してくるような勢いでご出現された神様が「ウマシアシカビヒコヂノカミ(宇摩志阿斯訶備比古遲神此神)」で(この神の名は、音をもって名付けられています)。
次に「アメノトコタチノカミ(天之常立神)」(訓が大事)で、
この二柱の神様もまた、お独りの神様としてご出現され、そのまま身をお隠しになりました。
以上の5柱の神は、特別な神様です。
(原文)
次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時流字以上十字以音、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。上件五柱神者、別天神。
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このくだりで注目すべき点は、お二柱の神様のお名前のすぐあとに、それぞれ「此神名以音」、「訓常云登許訓立云多知」と書かれていることです。
つまり、このお二柱の神様については、その読みの音が大事だと書かれています。
これまた最新の理論物理学の話なのですが、宇宙は、はじめ何もないところからはじまって、10のマイナス44乗秒後から、10のマイナス33乗秒の間に、インフレーションが起きて急激に膨張したのだそうです。
ビックバンの前の話、ビックバンの前の1秒の1兆分の1を、さらに1兆分の1にして、またさらに10億分の1以下にした、とてつもなくわずかの時間に、虚無の高次元空間に、とつぜん点が生まれ、弦になり、それが振動して急激に膨張し、直系1cmくらいの玉になったのだそうです。
これがビックバンの直前の宇宙の創世記の姿です。
つまり、直径10のマイナス34乗cmという、物質をこれ以上細分化できない究極の粒子といわれる素粒子よりもはるかに小さな途方も無い極小で誕生し、それが急激なインフレーションで、1cmくらいの形のない何かになった。
なんと、無限に広がる大宇宙は、最初、わずか1cmの「何か」だったわけです。
そこからビッグバンがはじまります。
実は、ここまでの宇宙の成長・・・極小の点が弦となり、その弦と弦が結ばれてから、急速に膨張して直系1cmくらいの球体になるまでの成長のことが、やはり、神様のお名前になっています。
4番目の神様のお名前が、「ウマシアシカビヒコヂ」、つまり、ウマシ(美しい)アシ(葦が)ソナエ(成長)です。
葦は、ものすごい速さで成長しますが、その葦が成長するように弦が成長して行ったというわけです。
そして5番目の神様が「アメノトコタチノカミ(天之常立神)」です。
字ではなく、音に注目してくれ、と書いてあります。
すると、天空の(アメノ)床(トコ)に立つ神と聞こえてきます。
床の間は家の中心ですけれど、葦が成長して天空に床の間ができた、というわけです。
まさに、無限に広がる大宇宙になるまえのわずか1cmの「何か」を、天空の床の間の床にたとえているかのようです。
ここまでの五柱の神様が、特別の天の神樣(上件五柱神者、別天神)です。
宇宙のビックバンが起きる前の話です。
たしかに特別な神様です。
それにしても、なんだか、すごい話になってきました。
そしてここからです。
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次々に現われ出た神樣は、クニノトコタチノカミ(國之常立神)、トヨクモノウエノカミ(豐雲上野神)で、この二柱の神もまた、お独りでご出現され、そのまま身をお隠しになられました。
(原文)
次成神名、國之常立神訓常立亦如上、次豐雲上野神。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。
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宇宙の創世は「ビックバン」といわれますが、そのビックバン以前の急速なインフレーションと比べれば、ビックバンも、まさに人が立ち上がるような、ムクムクと巨大化していくような状況です。
つまり、ビックバンが、それ以前の急速な拡大と比べたら、まさに人が立ち上がるような(國之常立神)状況と述べているわけです。
そしてビックバン後の宇宙空間には、まるで豊かな雲の上に広がる世界のような広大な空間と宇宙に広がる銀河が生まれたわけですが、なんと、それがそのまま神様のお名前(豐雲上野神)となっているとも読むことができるわけです。
すごいのは、ここまでの七代の神様についての記述のあとに、すべて「そのまま身をお隠しになられました(隱身也)」と書かれていることです。
つまり、ここまでの神々は、超ヒモ理論でみたならば、宇宙創世の状態や状況、進化の模様を描いたものです。
状況、状態のことを神のお姿として描いているわけですから、宇宙の状態が変化すれば、まさに「そのまま身をお隠しになられました」となるわけです。
これまたすごい話です。
古事記はこのあと、
ウヒヂニの神、スヒヂニの女神
ツノグヒの神、イクグヒの女神
オホトノヂの神、オホトノベの女神
オモダルの神、アヤカシコネの女神
そして、
イザナギの神とイザナミの女神、
つまり、五組の男女神がお生まれになります。
この五組というところが、またすごいのです。
夜空を見上げた時、肉眼で確認できる惑星は、金星、地球、火星、木星、土星です。
ちなみに水星は、太陽がまぶしすぎて肉眼では見えません。
また、太陽系を回る惑星は、土星の外側に、天王星、海王星、冥王星などがありますけれど、これらも遠すぎて肉眼では見えません。
イザナキ、イザナミの二柱の神様は、神様から天の沼矛を授かって、天の御橋に並び立ち、そこから下界の混沌としたところに沼矛を差し込んで、そこでコオロコオロとかき混ぜ、沼矛を持ち上げたときにポタリと落ちたシズクが、オノコロ島と書かれています。
そのオノコロ島に、ニ神は降り立ったわけです。
ここに描かれた「天の橋」が、どこなのか。
また、オノコロ島はどこにあるのか。
これについては、古来様々な議論が重ねられてきましたし、「こここそがオノコロ島だ」というところに「オノコロ神社」も建立されています。
ですから以下に申し上げることは、ただの私の想像なのですけれど、私は、それは天の川のことであろうと想像しています(これは先日、当ブログに書きました)。
夜空を見上げれば、そこに天の川はありますけれど、これを「川」とみれば「天の川」ですが、見方によっては、天空にかかる巨大な橋にも見えるわけです。
天の川が、川ではなくて橋なら、その橋の上に二柱の神様が降り立って、そこから下界の混沌をかき回したとしても、なんとなく納得できます。
そして「下界の混沌をコオロコオロとかき混ぜた」(原文:鹽許々袁々呂々邇)と、わざわざ擬音をつけて書いているところに注目してみると、矛の先をコオロコオロとかき混ぜるように動かせば、その先っちょは、円形の軌道を描きます。
そして「矛を引き上げたらシズクが垂れた」というのですけれど、何もない空間にシズクが垂れれば、そのシズクは球体となります。
そのように考えると、コオロコオロが円形の軌道で、シズクが惑星と見えるわけです。
そしてその惑星は、おのずと転がる、つまり自転しています。
ということは、まさにこれは地球そのものです。
まだ、公転も自転も、そもそも地球が丸いことや、天動説地動説などが登場するよりもはるか昔に、なんと日本人は、惑星が太陽のまわりを公転し、その惑星は自転していることを「知っていた」のかもしれないわけです。
最新の物理学の理論や、宇宙のなりたち、あるいは太陽系の構造などを、神々のおはたらきとして、神様の名前にして象徴させながら、わかりやすく後世に伝えていく。
もしかしたら、それが日本の神話であったのかもしれません。
何を馬鹿なことをと思われるかもしれませんが、すくなくとも、神話をただ頭から否定するのではなく、私達はこれを謙虚に受け入れ、そこからヒントや着想を得て、より真実に迫っていく。そういうことが大事なのではないかと思います。
否定するのは簡単です。
「違う」とひとことで済んでしまうからです。
けれど、謙虚に肯定することで、もしかするとそこに何らかの真実を見つけ出せるかもしれないのだとしたら、単純否定は、実にもったいない話です。
ちなみに、五組の男女神のお名前は、原文ですと、
宇比地邇神、須比智邇神
角杙神、活杙神
意富斗能地神、大斗乃辨神
於母陀流神、阿夜訶志古泥神
伊邪那岐神、伊邪那美神
とされています。
イザナキ、イザナミは、「誘(いざな)う男(キ)」、「誘(いざな)う女(ミ)」と、以前説明させていただきましたが、「キ、ミ」の意味は男と女で間違いはないと思いますが、それを古事記では「岐」と「美」と書いています。
けれど、イザナが何を意味しているかは、実は諸説あります。
私も、いちおうは「誘(いざな)う」説をとっていますが、もしかするともっと深い意味が隠されているのかもしれないのです。
というのは、他の4組の男女神のお名前が、いかなる意味をもっているのか、実はこれがまだわかっていないからです。
古事記には「神名皆以音(神の名は、みな音をもって表記」とされているのですが、では、その音である「ウヒヂニ、スヒヂニ」、「ツノグヒ、イクグヒ」、「オホトノヂ、オホトノベ」、「オモダル、アヤカシコネ」、「イザナ」などが、果たしてどのような意味を持つのか、謎なのです。
たとえば「ウヒヂニ、スヒヂニ」は、日本書紀では「埿土煮尊、沙土煮尊」と書かれています。
古語で「ウ」は泥、「ス」は砂州のことを指すからというのですけれど、ではどうして砂州の土を煮なければならないのか不明です。
むしろ、古語の大和言葉で、「ウ」は、宇であり、広大なことを示す音であり(だから広大な水でウミ、広大な宙で宇宙)、広大(巨大)であって州のようなものがあるといえば、それは木星のことかもしれません。

「ツノグヒ、イクグヒ」は、クヒが「杭(くい)」のことで、角杭(つのくい)、行く杭(いくくい)だという説がありますが、これももしかしたら、惑星に杭が刺さっているように見える土星のことかもしれません。
なるほど土星は、肉眼では、惑星に杭がささっているように見えると言われています。
私は近眼なのでわかりませんが、視力2.5くらいの方ですと、土星は米粒のような形にちゃんと見えるのだそうです。
さらに、アフリカなどでは、視力が6〜7くらいある方が多数おいでになるのだそうで、そうなると下の写真のような土星の姿が、肉眼で見えているのかもしれません。

古事記には、まだまだ、わからないことがたくさんあります。
最新の理論物理学にしても、わからないことだらけです。
では、わからないからと、ただ頭ごなしに否定するのでしょうか。
古事記を「しょせん神話だから」と否定することは、最新の理論物理学の最先端の研究を、「しょせんわからないことだから」と否定するようなものです。
そういう意味で、日本の学者のなかに、古事記日本書紀を否定する人がたくさんおいでになるのは、きわめて残念なことといえます。
なぜなら、わからないから否定するのでは、そこに進歩などひとつもないし、そもそも学問的でありません。
不思議なことです。
進歩派と呼ばれる左向きの学者さんたちが、いちばん進歩を否定し、頑迷な保守になっているようです。
わからないことはわからないこととして認めることこそ、科学の進歩の出発点なのではないかと思います。
本当は、左も右もないのです。
学問を対立の道具にするのは、もったいないことです。
謙虚に学び、謙虚に考え、真実を探る。
それは、馬鹿にしたり対立したりすることではなくて、「へえ〜、そういう見方もあるんだ」と、まずは受け入れてみる。
そこからが出発点だと思います。

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