人気ブログランキング
↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
(それぞれの画像はクリックすると当該画像の元ページに飛ぶようにしています)

20150712 ミツバチ

おかげさまで、今日のねずブロは2700話目になります。
いつもご贔屓、ありがとうございます。
さて今日は、蜂の巣と題させていただきました。
実は、隣の家の二階の雨戸の戸袋の下に、蜂が巣を作りました。
はじめは、数匹の蜂がたかっているだけでした。
なんだろう、と思っていました。
何日かすると、だんだん見事な蜂の巣になっていきました。
ほんとうに徐々に徐々に、数匹の蜂達が一生懸命毎日コツコツ働いて、ようやく蜂の巣は直系8cmくらいに育ちました。
きっと、もう子供が中にいるのかもしれない。
そう思った矢先、一昨日、その蜂の巣に薬品がかけれられ、蜂の巣は撤去されました。
住んでいる人にとっては、いつ刺されるかわからないからです。
蜂の巣があった雨戸の戸袋のすぐ下には、やはり隣のお宅の車庫のトタン屋根があります。
その屋根の上に、一匹の蜂の遺体が転がっていました。
昨日のことです。
あまりの暑さに窓を開けて外をみていたら、一匹の蜂が飛んできました。


その蜂は、巣があったあたりを、何度も行ったり来たりしていました。
見ていると、そこにあったはずの自分たちの巣を一生懸命に探していることが、その様子からわかりました。
まるで、「ええ?!どうしちゃったの?ここに家があったのに!、ええっ?!おかしいよぉ!」と蜂の声が聞こえてきそうな、そんな蜂の行動でした。
その蜂が、車庫の屋根の上の蜂の遺体を見つけました。
蜂は、その遺体のところに飛んで行くと、遺体のすぐ脇に止まり、なんだか匂いを嗅ぐような仕草をしたり、頭で一生懸命に、死んだ蜂を起こそうとしたり、遺体のまわりをぐるぐると回ったりしました。
「おい、起きろよ。起きてくれよ。どうしちゃったの?」と、蜂が泣きながら遺体にすがっていることが、やはり仕草から伝わってきました。
小さな蜂でも、そうやって巣を思い、仲間を思う気持ちがあるんだな、と感じました。
昆虫にも魂があるのかもしれないと思いました。
命は、体が滅びれば、それでなくなります。
けれど魂は永遠だといいます。
もしかすると、昆虫にも、そんな魂が宿っているのかもしれない。
そんな気がしました。
そういえば昔、ある人が庭の木から蝶の幼虫を取り払おうとしたら、その幼虫の親なのでしょうか。
一匹のチョウチョが、その取り除こうとした手に必死にまとわりついてきた、という話を読んだことがあります。
アッツ島の玉砕のときのことを書いた瀬島龍三の『幾山河』にあるエピソードです。
蝶でさえ、仲間や子を護ろうとします。
敵わないと知りつつも、必死に戦います。
仲間や子というのは、それほどまでに生き物にとって大切なのです。
けれど、次のような話もあります。
ラルフ・タウンゼントは、アメリカ人のジャーナリストで、昭和7年頃、上海にいました。
そのタウンゼントのChineseの使用人の中に、爪に火を灯すようにして1800ドルを貯めた者がいました。
当時のChineseにとっては、一財産です。ここまでは見上げたものです。
ところがこの使用人、よせばいいのに博打か株に手を出し、貯めたカネをすっかりスッてしまったのです。
しかもそれを、よく知らない男に頼んでやらせてしまったのです。
彼は、あまりのショックに、死にそうなくらい落ち込んでいたそうです。
ありそうな話だけれど、タウンゼントはかわいそうになって、事情をそのChineseから聞いたのだそうです。
「ワタシ、もうイケナイ。友達ミンナ、飲んで笑って楽しそうある。でもワタシ、声出ないある。笑えないある。食べられないある。ワタシ、何もできないけれど、心臓だけドッキンコ、ドッキンコと、時計みたいに鳴っているある。ココよ、ココ(といって胸に手を当てる)。夜、睡眠ゼロ、心臓だけドッキンコ。ワタシ、声も出ねえし、涙もでねえある。でも心臓だけ泣いているある」
ところがこの使用人、コレラで死んだ友の話となると、ガラッと変わったのだそうです。
いかにも可笑しかったというように大笑いしながら、
「2日前の晩だった。ワタシ、あいつの家に行ったある。あいつ、まさか自分が死ぬとは思わなかった。それからコレラがきた。罹った。四時間もしないで昨日死んだ」と、話したあと、大笑いしたのだそうです。
タウンゼントは、この話に続けてChineseの芝居見物の様子を書いています。
かわいそうな場面、たとえば息子が死ぬ、嵐に家を吹き飛ばされるなど、涙をさそう場面があります。
「ところがなんと驚くなかれ。ここで大爆笑が起こるのである。私自身、何度も芝居小屋に足を運んだから間違いない。芝居だけではない。現実も同じである。何事にも鈍感なのに、カネの話になるとヘナヘナっとなるのである。」
日本人は、古来、おおいなる存在を信じ、生きているのではなくて、生かされているのだと考えていました。
そして、みんなが安心して食べて行かれる国作りを、なんと太古の昔から行ってきたわけです。
古墳などは、まさにその典型的な実例ですし、また、地震や火災、あるいは大水、火山の噴火など、度重なる天変地異に際しても、飢えて全滅することがないよう、日頃からしっかりと備えをしてきたわけです。
民こそが宝。
これがシラス国です。
これに対しChinaは、ウシハク国です。
世界中のホテルでは、ポーターさんにチップを渡す習慣があります。
Chinaにも、もちろんその習慣はあります。
ところが世界で(たぶん)ただひとつ、Chinaだけは、ポーターさんにチップを渡しても、そのチップはポーターさんのフトコロには入りません。
ポーターさんには、親方がいて、お客様からいただいたチップは、全部、親方に巻き上げられます。
そしてその親方は、親方の親方、つまりその上の親分に、集めたチップを搾り取られます。
これをChinaでは「搾」といいます。
「絞(しぼ)りとる」という意味です。
ポーターさんだけではありません。
街の乞食から、一般企業に至るまで、すべての民衆が稼いだお金は、すべて親方に搾り取られる構造が、社会構造として定着しています。
搾りに応じなければどうなるか。
残酷なリンチが待っています。
ウシハク国とは、そういうものです。
Chinaは国土は広いですけれど、多産系で、人口も多いです。
食い物が足らない。
だから、とにかく全ての人が、今、生きることだけに集中しています。
明日のことなど関係ないのです。
自分さえ良ければ、今日、いま、この瞬間に実入りが多ければ、贅沢ができれば、それで良いと考える。
これが民族の伝統です。
ですからたとえ友人であっても、人の命よりも、自分の今日のお金が大事となります。
冒頭に、蜂のお話をしました。
蝶のお話もしました。
そんな昆虫でさえも持っている心を持ち得ない、不幸な国や民族もあるということを書かせていただきました。
もちろん個体差はあると思います。
民族をひとくくりに批判することもよくないと思います。
しかし、それぞれの国には、それぞれの国ごとに民族ごとに、それぞれの歴史があり、伝統があり、文化があります。
人の形をしていても、「同じ」ではないのです。
早い話、隣の家と我が家では、家風が違います。
それが地域や民族や言語が異なれば、当然、もっとはるかに大きな違いがある。
あたりまえのことです。
すこし大げさな言い方をすれば、天国の横に地獄があるようなものなのです。
天国が天国であるためには、天国であることをしっかりと住民たちがわきまえて、天国であることを護り抜かなければなりません。
そうでなければ、その天国は早晩、地獄に取り込まれてしまうのです。
それこそ、蜂の巣にされてしまうのです。
日本に生まれて、感謝です。
人気ブログランキング
↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

コメントは受け付けていません。