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古代ハス
20150709 古代蓮

月刊「玉響(たまゆら)」という雑誌があります。
日月神示で有名な中矢伸一先生がご主催されている月刊誌です。
たいへんおもしろく、私も毎月購読させていただいています。
その玉響に、百人一首に関する私の論考が掲載されました。
前篇と後編、二号続けての連載です。
本当は、おもしくなるのは後編の方なのですが、今日は、前編をご紹介したいと思います。
前編は「玉響」の今月号に掲載されています。
後編は来月号ですので、まだ未発表です。
興味を持っていただけたなら、「玉響」を定期購読してみてください。
毎号、勉強になります。
◆月刊「玉響」のご案内
http://www.nihoniyasaka.com/contpgm2/w_main.php?oya_id=5
*~*~*~*~*~*~*~*~*
小倉百人一首と日月神示(前編)
国史研究家 小名木善行
────────────
1和歌が持つ「察する文化」のもたらす平穏
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今回、二号連続で表題のテーマについてお話してみたいと思います。
連続となるのは、小倉百人一首をめぐる大きな時代の流れの中に、神々のご意思を感じるからです。


20150709 玉響

実は、小倉百人一首の選者である藤原定家は五十八歳のときに後鳥羽院と政治的に激しく対立しています。彼はそのために政界を追われ、小倉山に蟄居となりました。そこで晩年最後の仕事として、まる四年がかりで書き上げたのが『小倉百人一首』です。
なぜ定家は小倉山に蟄居になったのでしょう。
もともと後鳥羽院は、定家が若い頃から彼を引き立ててくれた大恩人です。
そんな大恩人と、どうして定家は対立することになってしまったのでしょう。
時代は鎌倉時代初期のことです。
政治権力の中枢は京の都から鎌倉に移っていました。争いが絶えない世の中で一番苦労するのは民です。
ならばむしろ武家に政権を委ねるべき、そういう意見が支配的になった世の中でもありました。
けれど、世の中の刃傷沙汰は続いていました。
「なんとかして世の平穏を取り戻したい」
そう思う藤原定家は、鎌倉の三代将軍源実朝を和歌の弟子にし、鎌倉武士団と京の都の公家文化の融和を図りました。
これは亡くなった尊敬する式子内親王のご遺志でもありました。
ものの本によると、式子内親王と定家は「できていた」などと書いているものがありますが、とんでもない話です。
式子内親王のほうが十四歳年上というだけでなく、若い頃から定家は式子内親王を心から尊敬し敬愛していたのです。
その式子内親王が、晩年になってお体をお壊しになりながらも世の平穏を願って百首の歌を詠み奉納しました。
そしてその中の一首を、藤原定家に、笑って手渡したのです。
その歌が百人一首の八十九番に収蔵されています。
 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
 忍ぶることの弱りもぞする

昔の日本では、肉体と魂(玉)は緒でつながっていると考えられていました。
肉体から出ている緒の半分が「絆」です。
その半分と、誰かの半分を結ぶことが「結」です。
「玉の緒が絶える」というのは「肉体が死ぬ」ということです。
けれど魂は肉体から離れ、常世の国に行ったり、輪廻転生したりします。
そしてこの世は、その魂のための修業の場というのが、千年前も、ほんの二〜三〇年前までの日本でも、ごく一般に考えられていたことでした。
ですから私どもの父母の世代ですと、「乞食したってこの魂だけは汚さない」ということがひとつの生きるうえでの誇りでした。
すでに重い病気となり、玉の緒が切れると、死を覚悟された式子内親王は、私の生命なんかどうなっても構わない。もう耐え忍ぶ気持ちさえも弱くなってしまいました、と詠んだ歌を定家に渡しました。
だから不倫だ、恋愛だと騒ぐお馬鹿な学者もいるようですが、そういうのを下衆(げす)の勘ぐりといいます。
そんなんじゃありません。
皇女である内親王が、お体の具合を悪くされながらもなお世の中の平穏を願い続け、それでも世の中が音を立てて崩れていき、人が人と殺しあい、そんな日が毎日続くなかにあって、なんとかして世の平穏を取り戻したいと祈り続け、それでも世の中が崩れていく。だから「私は近く死んでしまうことでしょう。もう祈る気持も弱まってしまいそうです」と詠んでいるわけです。
和歌というのは、「察する文化」です。歌の詠み手の思いを察する。
藤原定家は、政治家でもあり、高級官僚でもありますが、それ以上に当代一の歌人です。
その藤原定家に、式子内親王がこの歌を託したというのは、藤原定家に「何事か」を託した、ということです。
式子内親王は、定家に何を託したのでしょうか。
それは「世の平穏を取り戻すこと」以外にありません。
そしてそのことを、武人ではない、歌人の定家に託したということは、殺し合いを続ける鎌倉武士達にも、殺さない文化、殺し合いになる前に、互いに察して事態を解決する文化を、是非とも定着させてほしいというメッセージです。
すくなくとも藤原定家はそのように受け止めました。
だから定家は、考えに考え、鎌倉の三代将軍源実朝を自分の和歌の弟子にしたのです。
そして定家は和歌を通じて、五百年続いた天皇と大御宝の平和で安定した世が、どのように生成され、形成し、発展し、その結果どのような文化が根付いたのか、そこにある本質とは何かを、徹底して実朝に仕込みました。
源実朝は、頭の良い青年です。
ものすごい吸収力を発揮して、定家の教えをどんどん吸収していきました。
鎌倉では「今度の将軍は、貴族ボケして歌ばかり詠んでいる腰抜けだ」と悪口を言う者もいました。
けれどそのように品のない批判をしたり対立的に物事を考えること自体が、敵対を生み、殺し合いを呼び、世の中を乱すのです。
定家にしても源実朝にしても、いまさら貴族の世が戻ってくるとは思っていません。
武力をもった武士団という強力な政治勢力がすでに誕生しているのです。
問題はその武士団が持つ武の力をいかに平和のための力に変えていくかが大事です。
武を抑えるためと称していたずらに武を用いれば、かえって争いが大きくなるだけです。
典型が源平合戦です。
だからこそ武を抑えるためには、武を抑える心や思想を定着させていかなければなりません。
十七条憲法第十六条には、そのために「古之良典」と書かれています。
「古(いにしえ)の良典を用いよ」と読みます。
混迷する時代を乗り切るためには、古典にその知恵を求める。
なぜなら歴史は繰り返すものだからです。
定家は和歌を通じて実朝に、察する文化や十七条憲法の精神を伝えて行きました。
実朝はそれによく学ぶ生徒でした。
「これでようやく世の平穏を取り戻すことができる。」
そう定家が確信を持った矢先、鎌倉三代将軍であった実朝が鶴ヶ岡八幡宮で刺殺されてしまいました。
一二一九年、定家五七歳のときのことです。
最後の頼みの綱が、切れてしまったのです。
後鳥羽院は「もはや鎌倉政権との武力衝突やむなし」と、さかんに過激発言を繰り返しています。
このままでは、後鳥羽院の要請に応じて地方の武士団が挙兵し、世は再び戦乱の世となってしまいます。
「それでも戦うべきだ」と後鳥羽院はおっしゃいます。
けれど定家は「それは違う。断じて違う」と主張しました。
「短慮を起こさず、どこまでも平和の道を築いていくべきだ」と主張したのです。
後鳥羽院は激怒しました。
「お前の顔など見たくない。二度とオレの前に顔を出すな。歌会にも出入り禁止じゃ!」
この時点で藤原定家は、政界を引退し歌人として、歌の指導などをして生きています。
それが歌会にさえ出入り禁止という。
つまり後鳥羽院のこのお言葉は、定家に死ねと言っているようなものです。
定家は謹慎処分となりました。
都を事実上追い出され、小倉山に蟄居(ちっきょ)です。
翌年、後鳥羽院は鎌倉幕府倒幕のため挙兵をしました。
けれどその乱は事前に発覚し、後鳥羽院は隠岐に流されてしまう。
これが承久の乱です。
一年前、後鳥羽院と激しく対立して中央政界を追われた藤原定家は、今度は中央政界と鎌倉をつなぐ政界の実力者として高い官位を得て、政治的影響力を増したのです。
けれど、だからといって嬉々として政治の世界に舞い戻ることを定家は望みませんでした。
むしろ、飛鳥、奈良、平安と続いた大和文化を、源氏物語、土佐日記など、様々な作品の書写や評釈を通じて、日本の文化そのものを拡散し、日本の持つ文化性そのものを時代が取り戻せるよう、必死の努力を続けたのです。
このあたりの定家の行動は、非常におもしろいものです。
世の中から、政界への復帰を求められながら、後鳥羽院を尊敬していた定家は、そのまま謹慎蟄居先である小倉山に篭って、文化の伝承者としての道を選ぶのです。
それから十一年、七十一歳になった藤原定家は、後堀河天皇から、新たな歌集の編纂を命ぜられました。
そしてまる三年をかけて定家は『新勅撰和歌集』をまとめあげました。
その『新勅撰和歌集』の中から、さらに抜き出した百首の歌を、宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めで小倉山荘の障子に貼ったのが、一二三五年の五月二十七日のことです。
だからこの日が「百人一首の日」という人がいます。
全然違います。
そこに貼りだされた百首歌(『百人秀歌』)と『百人一首』は、似てはいますが、別なものです。
────────────
2定家が『小倉百人一首』に託した想い
────────────
翌年(1236年)、75歳になった定家は、『新勅撰和歌集』、そして『百人秀歌』をもとに、彼の晩年最後の仕事として、後世に遺すべき総決戦の歌集として、『小倉百人一首』の選出を開始しました。
世の中が、平安から鎌倉へと激動し、明察功過などどこへやら、短慮と短慮が対立し衝突して、すぐに武力衝突になる。
人の生命が奪われ、世が乱れ、悲惨な殺人事件が頻発する。
女達が安心して生きられた時代はどこへやら、武器をつきつけられて着衣を奪われ、強姦され、他人の子を孕ませられたり、あるいは殺される。毎日のように、悲惨なニュースがもたらされる。
そんな世の中がなぜ生まれるのか。
世の中の価値観が狂い、世の中の秩序が乱れ、日本人が日本人としての文化性を失っているからです。
だから考えられないような短慮な事件が頻発する。
「ならば」その日本人の文化の根源を、どうやって世間に知らしめ、定着させていくのか。どうやって日本を取り戻すべきなのか。そのために何が必要なのか。
理論や理屈をいくら説いてもダメです。
頭でわかっても、それは行動にならないからです。
理屈では人は動かない。
人は感じて動くものです。
だから「感動」といいます。
そうであれば、感動のなかに、取り戻すべき日本の姿を浮き彫りにする。
和歌には感動があります。
ならばその和歌を効果的に配置することで、和歌を順に読み解いて言ったら、誰もが感動し、日本の文化を取り戻そうとする決意を新たにする。そういう歌集が創れないものか。
それは、勅撰和歌集のような長大なものではなく、そうだ。百首くらいがちょうどよい。
百人の歌人から一首ずつ、百首の歌で、大和の文化を全部語り尽くしてはどうだろう。
いやまて。
せっかく歌集にしても、その歌集自体が歴史の中に埋没してしまってはなんにもならない。
それに、五百年続いた平和な日本が、いまこうして音を立てて崩れた今、その日本が、再びもとの美しい姿を取り戻すには、いったいどのくらいの歳月がかかるだろうか。
もしかすると、それは五百年、いや千年かかるかもしれない。
であれば千年の間、歌の意味さえも失われてしまったとしても、その歌だけは生き残る。
そうだ。歌には言霊がある。
その言霊の美しさは生き残る。
そしていつの日か、きっとその歌の意味を理解する者が現れるに違いない。
それがいつのことかはわからない。
けれど、その日まで、歌集が生き残ってくれなければならない。
そのためには、たとえどんなに歌が貶められたとしても、あるいは言葉が失われてしまったとしても、それでも音の美しさだけで口承され、人々に愛され続けるだけの歌を、選ばなければならない。
定家は、それまで自分が学んだ全ての知識と情熱を傾け、晩年最後の仕事として、百人一首の編纂を開始しました。
たった百首の歌を選び、配置するのに、まる四年の歳月がかかりました。
一二四一年、藤原定家は七九歳で永眠しました。
そして定家が晩年の全情熱を傾けた百人一首は、小倉山荘に残った彼の遺産とともに、彼の遺族たちによってまとめられ、桐の箱に入れられて藤原家の蔵にしまわれました。
こうして後鳥羽院、式子内親王、藤原定家らが願った世の平穏は図られぬままとなりました。
ところが後世の私達はその後の歴史を知っています。
一二七四年に文永の役、一二八一年に弘安の役、そうです。藤原定家が死んでわずか三十三年後には元寇が起こるのです。
もし武力を持たない貴族政権のままであったなら、おそらく日本は元の大軍に降伏せざるを得なくなったことでしょう。
果たして我が国の独立自尊が保たれたかどうかは明らかに疑問です。
神々の御心は、私達人間には計り知れないものです。
けれど平安末期から鎌倉初期にかけての時代の動きを見ると、人知の及ぶ範囲をはるかに超えた、大いなる存在の意思が実在するとしかいえないような気がします。
(後編に続く)
 *****
こうした百人一首に関するお話は、以下の本に詳しいです。
『ねずさんの日本の心で読み解く「百人一首」: 千年の時を超えて明かされる真実』
http://goo.gl/WicWUi
「いまなぜ百人一首なのか」というご質問をいただくことがあります。
「いまだから百人一首なのです」とお答えしています。
私達の活動の目的は、日本を取り戻すことにあります。
そのために、近現代史を語ったり、神話からはいったりといった取り組みが多くなされています。
もちろん大賛成です。
けれど、近現代史も神話も、「戦争はいけないんだよぉ」とか、「だってそれって神話でしょ?」のひとことで片付けられてしまい、なかなか広げるのはむつかしいかったりします。それでもやらなければならないのですが。
ところが百人一首は、どんな学者さんでも、あるいは実業界の方でも、「それは素晴らしい日本文学だ、日本の心だ」と口をそろえておっしゃいます。
実際には、そのように言っていながら、個々の歌の解釈では、残念な解釈しかされていないのですが、それでも、百人一首が「素晴らしい」という点は一致しています。
つまりそれが「常識」なのです。
たとえば4番歌に山部赤人があります。
 田子の浦ゆうち出でて見れば白妙の
 富士の高嶺に雪は降りつつ
とあります。そしてたいていの本が、この歌は「美しい富士山と美しい田子の浦の浜を対比させた風光明媚な景色を詠んだ歌だ」と説明しています。
けれど、歌をよくみてください。
「雪は、降りつつ」と書いてあります。
「つつ」は、今も昔も現在進行形です。
いま、まさに雪が降っているのです。
そして、雪が降っていたら富士山は、見えません。
ということは、この歌は、風光明媚な観光和歌では「ない」ということです。
ことほとさように、百人一首のそれぞれの歌は、ほとんどの本が、いい加減な、わかったようなわからないような解釈しかしていません。
つまり、「突っ込みどころ満載」なのです。
これは常識をくつがえす突破口になる。
しかも、百人一首を通じて日本の心を学べば、そこには取り返すべき日本の姿が明確に描かれている。
さらに百人一首には、戦国時代を終わらせた実績がある。
皆様におかれましても、『ねずさんの百人一首』のご拡散にご協力いただけると嬉しく思います。
そうそう。最後に一点。
昨日、倭塾でお越しいただいた皆様には申し上げたのですが、私の百人一首の歌の解釈について、「具体的な引用先をあげず、学者の中でも一般できでない相当異端の解釈を引き合いに出し、それがあたかも学会の常識であるかのように述べてこれを否定し、異端としかいえない自説を牽強付会に述べている」という批判があるやに聞いています。
なるほど百人一首の歌の解釈にあたって、世間ではこのような解釈がされている(上の例なら赤人の歌は風光明媚を詠んだ歌)と述べるに際して、私はそう述べている具体的な図書も、教授の名前も明らかにしていません。
そのようなことをしなくても、およそ全ての解説本に、そのような解釈が書いてあること。
その大本になっているであろう偉い先生のご著書にも、実際、そのように書いてあること。
けれど、それを具体的に名前を出して述べることは、単にその教授等の批判と受け取られかねず、私の本意はそこにはないこと。
私の目的は、百人一首を通じて取り戻すべき日本の姿を感動とともに明らかにすることにあって、どこぞの個人を攻撃することには、まったく興味も関心もないし、そのようなくだらないことには、1字足りとも割きたくないこと等によります。
そもそもいまの日本人である私達の最大の敵は、左翼でも在日でも近隣諸国でもありません。
私達自身の心の中にある「対立や闘争を求める心」にあります。
対立していれば満足していて、「謙虚に学び考え行動する」という、人として大事な、あたりまえのことが、いつのまにかおろそかになっていることではないかと思います。
百人一首にしても、その他の古典も同じなのですが、私達が謙虚にそこから何かを学ぼうと素直に読めば、日本の文学はそこから様々な事実や、そのもとになった着想を明確に教えてくれます。
逆に、先人たちを馬鹿にすることで自己優越にひたろうとすれば、それこそ先人たちに馬鹿にされ、なにひとつ教えてもらえなくなります。
大切なことは、もっと素直になることではないかと思います。
また、「学説の中でも極端な異端の説で、一般的でないものを、あたかも通説であるかのように書いている」というご指摘ですが、これは昨日の倭塾で、一般的な解釈かそうでないか、具体的にいくつかの本を示し、該当箇所を読み上げて、まさに通説、定説のたぐいとなっていることを証明させていただきました。
私の解説が「異端」というご指摘については、「そう思うなら読まなければよい」だけのことです。
おそらくは読んでもいないでしょう。
読んでもいないのに、批判だけは一丁前にする。
そういうところが、そもそもなってない(つまり子供)なのだ、と申し上げたいと思います。
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