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鳩魂塔

まず、一文をご紹介します。
かつての国民学校小学校4年生の國語の教科書に載っていた文です。
原文のままではなく、ねず式で現代語訳しています。
*****
『小さな伝令使』
国民学校小学校4年 國語十二より
昭和6年12月31日の夕暮に、大石橋守備隊の鳩舎(きゅうしゃ)へ、血に染まった一羽の鳩(はと)が、飛んで来た。
取扱兵が、すぐ抱き上げて足の番号を見ると、四日前に、錦州(きんしゅう)へ向けて出発したわが軍が、連れて行つた鳩であった。
信書管は血にまみれ、身には重い傷を負って、息もたえだえであった。


錦州へ向かったわが軍は、30日、突然、敵の大軍に出会って、激しく戦った。
早くこのことを、大石橋守備隊へ知らせようとしたが、電信も電話も、敵のために壊されたので、通信は、ただ鳩に頼る他はなかった。
通信紙を詰めたアルミニュームの管を、鳩の右の足に取り付けた兵は、しばらく鳩の体に頬を擦りつけて、途中の無事を祈った。
小さな伝令使は、胸をふるわせながら、可愛い目で空を見上げていた。
戦の真最中に、鳩は空高く舞いあがった。
二三回、上空に輪を描いて飛んでいたが、すぐ方向を見定めて、矢のように飛んで行った。
寒い夕空をものともせず、南東をさして高く飛んでいた鳩は、ふと、鷹の一群を見たので、すばやく低空に移った。
すると、今度は敵軍に見つけられて、一斉射撃を受けた。
一弾は、鳩の左の足を奪い、一弾は、その腹部を貫いた。
この重い傷にも屈しないで、鳩はなおしばらく飛び続けていたが、とうとうたまりかねて、とある木の枝に止った。
ちょうどその時、附近にいたわが兵士が、これを見つけた。
捕まえようとして手を差し伸べると、鳩は、また翼をひろげて飛びあがった。
飛び去つたあとの木の枝には、かわいそうにも、赤い血がついていた。
弱りきったこの小さな伝令使は、その夜、どこで休んだことであろう。
明くる日になって、やつと、大石橋の自分の鳩舎にたどり着いたのである。
大石橋守備隊では、さつそく信書管を取り外して、手厚く看護したが、任務を果して気がゆるんだのか、鳩は、取扱兵の手に抱かれたまま、冷たくなってしまった。
******
伝書鳩というのは、は、カワラバト(ドバト)などのハトを飼い馴らして、ハトの帰巣本能を利用して、遠隔地からハトにメッセージや小さな荷物などを持たせて届けさせように育てたものです。
今は、スマホにGPSなど、いわゆるハイテクの時代になっていますが、戦場というのは、一切の通信網が破壊され、電気さえも失ってしまうといった事態が幾重にも想定されるわけです。
このことは、昭和初期の日華事変のときもまったく同じで、ですからいざというときのために、大戦中にも、昔ながらの伝書鳩が用いられました。
伝書鳩と人との関わりはたいへん古いもので、旧約聖書には、ノアの箱舟に小枝を届けた鳩の記述がありますし、紀元前約5千年のシュメールの粘土板にも使用をうかがわせる記述、紀元前3千年のエジプトでも漁船が漁獲量を陸に伝えるために使われていたという記録があります。
また、ギリシャのポリス(都市国家)間では、競技会(いまのオリンピック)の覇者について、鳩の足に赤いリボンを結び付けて故郷に勝利と栄光を伝えたのだそうで、ローマ帝国の時代になると通信手段として広く普及、そしてジンギスカンも、カエサルも、ナポレオンも、戦いの状況報告に伝書鳩を使っています。
フランス革命のとき、王妃マリー・アントワネットは、投獄中に伝書鳩で外部の王党派と連絡を取り合っていました。その鳩は、雪のような純白の鳩だったそうです。なのでマリー・アントワネットは、その鳩を「La Naige(ラ・ネージュ、雪)」と呼んで可愛がっていたそうです。
日本でも伝書鳩は、飛鳥時代に輸入され、江戸時代に幅広く普及しました。
そして伝書鳩は、日清日露、第一次世界大戦、日華事変、大東亜戦争でも、大活躍をしています。
日露戦争(1904~1905)では、旅順要塞のロシア軍が伝書鳩を使って外部と連絡を取りあっていました。
乃木大将率いる日本軍は、これにおおいに困り、宮中に鳩退治のために「鷹」を出動させてくれ、と要請したのですが、ところが宮中の鷹は鳩を襲いません。
そこで宮中では、急いでハヤブサの育成をはじめたのですが、その訓練半ばで旅順要塞は陥落してしまった、などいう話もあります。
戦時中、このような小さな命でさえも、国を護るために一生懸命に戦いました。
靖国神社には、伝書鳩たちのための鳩魂塔が立てられています。
文中にある「錦州」というのは、遼東半島の根本にある大連の北川にある州ですので、上にある物語は、満州事変(1931/9〜1932/2)の頃の実話がもとになっていようかと思います。
その後に起きた日華事変も同様ですが、日本は大陸で「軍を名乗る暴徒たち」と「大陸に住む民衆の安全のために」戦いました。
その「民衆」には、もちろんChineseたちも含まれます。
だからこそ、彼らは「日本軍が来たら率先して城の門を開けよ」と唱えていたのです。
ところがその暴徒たちは、その後の日華事変も、そして現代も同様ですけれど、最大の武器が宣伝です。
日本人は戦争は軍人が武器を取ってするものという固定概念がありますが、Chineseはそうではありません。
彼らにとっては、宣伝が武器よりも優先します。
なぜなら、彼らにとって、戦いに勝てば、略奪、虐殺、強姦、放火はあたりまえのことであり、そうした事実を隠蔽するためには、それら非道行為を、すべて、やった側が「やられた」と宣伝する必要があるからです。
これはChinaにおいては、大昔から繰り返されてきた伝統的な技法です。
そして、朝鮮も同じことをします。
どんなにやさしくされても、それは「あたりまえ」としか思わない。
恩恵はすべて、過ぎたこと、なのです。
そして自分たちがしてきた非道は、すべて相手に「されたこと」になります。
それが、彼らの文化です。
つくづく日本人に生まれてよかったと思います。
下にある写真は、昭和6年にはじまる満州事変に先立つ3年前の昭和3年に、蒋介石の北伐で使用されたビラです。
この北伐は、蒋介石率いる国民党軍が、張作霖や張宗昌を攻撃するためにバラまいたビラですけれど、絵を見てすぐにわかる通り、ここで非道いことをしているのは、張作霖の軍隊として描かれています。

20150628 山東省派遣軍記念写真

蒋介石らは「こうした非道をしている満州軍閥の張作霖らをやっつけよう」と宣伝したわけです。
なるほど張作霖らの行った非道は、まさにこの通りでしたけれど、蒋介石軍がやったことも、まったくこれと同じでした。
その蒋介石らを最終的に追い出して中華人民共和国を築いたChina共産党も、同じです。
ところがいまではそれらすべての過去の非道は、いまではすっかり(まったくそういうことをやらなかった)日本軍が「やったこと」にされています。
ここで学ぶべきことは、彼らにとっては戦争は、宣伝が第一ということです。
そしてChinaにおいては、自分たちが「してきたこと」が、「されたこと」になるということです。
そうでなければ、彼ら自身を正当化できないのです。
だからこそ、彼らにとって宣伝は、まさに戦争行為です。
そしてその宣伝活動に、「安保反対、戦争反対」と街宣デモに、何もわからないで参加している日本人も、利用されています。哀れなものです。
鳩でさえも、立派に戦い、護ってくれた私達の国です。
その私達の国を守れるのは、私達日本人だけです。
さて、冒頭の教科書にある文ですけれど、この文を読んで、みなさまは何をお感じになりますでしょうか。
戦場を素敵な場所、自分も行きたい場所と思うでしょうか。
撃った敵を許せない、鬼畜敵軍!などと思うでしょうか。
むしろ戦場は危険な場所であり、そういう戦場で犠牲になる小さな命に限りない同情心を持つのではないでしょうか。
それって、ひとことでいえば普遍的な愛です。
なんと日本の小学校では、戦時中というきわめて特殊な時勢下にあっても、子供達に愛を教えていたのです。
世界には、平時にあってさえ、子供達に憎しみを教えている国があります。
とても悲しいことに思います。
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