
戦時中の小学3年生の國語の教科書に掲載されていた「軍犬利根」の物語をご紹介します。
短文ですので、ぜひ、ご一読いただければと思います。
原文は、旧仮名遣ですが、以下は、ねず式で現代語に加工しています。
私の感想は、その後に書きます。
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【軍犬利根】
文部省初等科國語一(小学三年生)教科書より
*一
利根は、小さい時、文子さんのうちで育てられた、勇ましい軍犬です。
文子さんが、ちょうど三年生になったばかりのころ、おじさんの家から、子犬を一匹もらって来ました。
その親が、軍犬として、戰地ではたらいてゐると聞いた文子さんは、もらった子犬も、りっぱな軍犬にしてみたいと思いました。
子犬には、利根という名をつけました。
それは、おじさんの家のそばを流れている、大きな川の名を取って、お父さんがおつけになったのです。

文子さんのうちでは、みんな犬がすきでした。
利根の来るずっと前にも、犬を飼っていたことがあるので、文子さんは、本当によく利根を可愛がりました。
朝夕、からだの毛をすいたり、きれでからだを拭いてやったりしました。
毎日、きまったように、運動をさせてやりました。
食べ物にもよく気をつけて、間食などは、できるだけさせないようにしました。
おかげで、利根は、子犬のよくかかる病氣にもならないで、すくすくと育ちました。
利根はかしこい犬でしたから、文子さんに教えられると、「おあづけ。」でも、「おすわり。」でも、すぐおぼえました。
文子さんは、利根がどこへでもついて来るので、可愛くてたまりませんでしたが、ただ学校へ行く時、何べん追いかへしても、あとからついて来るのには困りました。
文子さんは、おじさんに聞いて、利根に「待て。」を敎えました。
子犬ですから、これは、なかなか聞きませんでしたが、決して叱ったり、叩いたりしないで、少しでもできると、頭をなでてほめてやりました。
のちには、文子さんが学校へ行く時、飛んできても
「すわれ。」「待て。」
と言いますと、行儀よく座って、お見送りをするようになりました。
こうして、その年の秋も過ぎ、冬の初めになりますと、利根は、もう子犬ではありませんでした。
近所の、どの犬よりも大きく見えました。
三年生の文子さんがつれて歩いているのに、向こうから来る人は、大人でも、遠くからよけて通るほど、強そうな犬になりました。
お正月が来るとまもなく、文子さんが願っていたように、利根は、軍隊の軍犬班(はん)へ、入ることになりました。
出發の前の晩、文子さんは、利根にたくさんのごちそうをしてやりました。
自分の育てた犬が、いよいよ軍犬になるのだと思うと、うれしくてたまりませんが、別れるのは、ほんたうにつらいと思いました。
文子さんは、日の丸の小さな旗を作って、利根の首につけ、寒い日の朝、おかあさんといっしょに、停車場まで見送ってやりました。
*二
それからのち、利根のかかりの兵隊さんから、ときどき、利根の様子を知らせて来ました。
文子さんも、手紙を出しました。
文子さんが、四年生になった秋のころ、兵隊さんから、次のやうな手紙が来ました。
利根は、たいそうりっぱな軍犬になりました。
高い障害をわけもなく飛び越えます。
腹を地につけて、伏せをしたり、川を泳いで渡ったり、
遠くに隠してある手ぶくろを、すばやく探し当てたりします。
もう、軍犬のすることは、どの犬にも負けないで、
りっぱにやりとげます。
あなたから手紙が来ると、それを、利根に見せてやります。
利根は、なつかしそうに、においを嗅ぎながら
目の色を変えて喜びます。
あなたが、可愛がっていられたのと同じ気持ちで、
私も、利根を一生懸命で育てています。
どうぞ、安心してください。
*三
それから半年ほどたって、ちょうど、文子さんが五年生になったころ、利根は、勇ましく北Chinaへ出征しました。
利口な利根は、戰場で、敵のいるところを探しあてたり、夜、ふいに近寄らうとする敵の見張りをしたり、隊と隊との間のお使いをしたり、何をさせてもすばらしい働きをしました。
そのうちに、利根のついている部隊は、何倍という敵を相手に、激しく戦う時が来ました。
味方の第一線は、敵前わずか50メートルというところまでせまって、塹壕の中から、敵を攻撃しましたが、敵は多数で、弾は雨あられのように飛んで来ます。
味方はそのままで、一週間もがんばりつづけましたが、その間、第一線と本部との間をお使いするものは、軍犬利根でありました。
利根は、毎日、五回も六回も、この間を行ったり来たりしました。
首輪の袋に、通信を入れてもらって、
「行け。」
と言われるが早いか、どんなに激しく弾が飛んで来る中でも、勢よく駆け出しました。
のちには、敵が利根の姿を見つけて、弾をあびせかけます。
それでも利根は、弾の下をくぐるやうに抜けて走りつづけました。
係の兵隊さんはもちろん、みんなの兵隊さんが、利根のこうした働きを見て、涙を流すほどでした。
いよいよ、わが軍が、敵の陣地にとつげきする日が来ました。
午前五時、まだ、辺りは薄暗い頃、利根は、最後の通信を首にして、
「行け。」
の命令とともに、走り出しました。
敵の弾が、うなりをたてて飛んで来ます。
利根は、ひた走りに走りました。
本部では、利根の係の兵隊さんが、今にも、利根が来るだろうと思って待っていました。
すると、向こうの、コウリャンのあぜ道の間に、利根の姿が見えました。
「ようし、来い、利根。」
と、兵隊さんは呼びました。
利根は、もう百メートルで、本部というところへさしかかりました。
ちゃうどその時、敵の弾が、ばらばらと飛んで来ました。
利根は、ぱったりとたふれました。
「ようし、来い、利根。ようし、来い、利根。」
と、係の兵隊さんは、気が狂ったように呼びつづけました。
この聲が通じたのか、利根は、むっくりと立ちあがりました。
しかし、もう走る力がありません。
係の兵隊さんは、敵の彈が飛んで来るのも構わず、這うように駈け出して利根のからだを、しっかりと抱きかかえました。
一時間ばかりののち、わが軍は、勇ましく敵に突撃して、とうとう、その陣地を占領しました。
*四
利根の手柄は、係の兵隊さんから、詳しく文子さんに知らせて来ました。
そうして、おしまいに、
利根は、足をやられただけですから、
まもなく、良くなることと思います。
利根は、そのうち、きっと甲号功章を
いただくにちがいありません。
と書いてありました。この手紙を見て、文子さんは、
「まあ、利根が。」
と言ったまま、つっぷして、泣いてしまいました。
「利根はえらい。感心なっやつだ。」
と、おとうさんも涙を流しながら、お喜びになりました。
*******
以前にも書いたことですが、私が高校生だった頃、日教組の熱心な活動家であった教師が授業中に、「戦時中の教科書では、犬まで利用して軍国主義をあおっていた」と、実に悔しそうに話していましたから、よほど印象に残ったのでしょう。
そのときの先生の表情や身振り手振りなど、今でも鮮明に覚えていますし、おそらくはクラスの誰もが「酷い話だなあ」と思ったと思います。
いまから、40年以上も昔のことです。
けれど、社会人となってだいぶ経ったとき、たまたま私のいた会社が御茶ノ水にあり、神田の古本屋街が近かったこともあって、よく古書店めぐりをしていて、そのとき、実際のその教科書を手にして、なかのお話を読むことができました。
一読して、このどこが軍国主義をあおる記述なのかと思いました。
それどころか、ものすごく感動しました。
なぜならそこに書かれている物語は、軍国主義どころか、動物を愛する心の物語だったからです。
文子さんと軍犬利根の愛、そしてその利根を引き取った軍用犬係の兵隊さんと利根の愛、そしてその係の軍人さんの、里親として育ててくれた文子さんを気遣うやさしい愛の物語です。
愛という字は、訓読みでは「いとし、おもふ」と読みます。
「いとしく思うこと」が日本人にとっての愛です。
文子さんの利根への思い、係の兵隊さんの利根や文子さんへの思い、大人で軍犬係の兵隊さんは、もちろん仕事で利根の訓練をしているわけです。
里子で育ててくれたのは、小学校3年生の子供です。
けれど、その兵隊さんは、文子さんを子供だからと軽んじてなどいません。
同じく利根を愛する者として、文子さんを自分と対等な人として、丁寧に近況を書き送っています。
ものすごくありがたいことです。
そしてそんな文子さんや係の兵隊さんの愛に、利根も真剣に答えようとしています。
大人も子供も、人も犬も、ここでは対等な愛の連鎖を築いています。
そしてこれを読んだ当時の子供達も、いま、お読みいただいたみなさんも、同じく対等な存在として文子さんのことも、兵隊さんのことも、利根のことも感じていたのではないかと思います。
このような考え方や感じ方は、ウシハク支配と隷属の関係からは生まれません。
日本人にとって、ごくあたりまえのこうした感覚は、日本人がもともと等しく陛下の「おおみたから」であり、人も犬も、すべては「おおみたから」として対等であるという、シラス統治から生まれています。
さらにいえば、この物語のどこにも、軍国主義をあおるような記述などありません。
むしろ戦地に関しては、敵弾が飛んで来るたいへん危険でおそろしい場所として描かれています。
このどこをどう捉えたら「犬まで利用して軍国主義をあおった教科書」になるのか、不思議です。
不思議ですが、プロパガンタに洗脳されて物事を斜めにしか見れなくなると、このようなおかしな思考に陥ったりします。
私は右翼とか保守とかに区分されているようですが、自分では、右翼とも保守とも思っていません。
普通の日本人として、日本を築いてくださった祖霊に感謝し、先輩たちを尊敬し、そこから多くを学ばせていただきながら、そこにある「大切なもの」を守り、語り、次の世に伝えていきたいと思っているだけです。
いちばんイケナイのが、イタズラに対立を煽ること。
次にイケナイのが、まるでいまの時代に生きている我々が、あたかも進んでいるかのように高慢になることだと思っています。
偏らず、感謝して謙虚に学ぶ。
そこに感動があるし、感動の中に使命感や志が生まれるのだろうと思います。
もっと言いますと、この利根の物語が載っているのは、国民学校の小学4年生の國語教科書です。
戦前に「尋常小学校」と呼ばれた小学校は、昭和16年から「国民学校」と名前が変わりました。
だから「戦争のために戦時意識高揚のために変えた」と戦後左翼から攻撃されました。
その攻撃はGHQが火付け役になってもいました。
けれど、実際に国民学校の教科書を見ると、全然軍国主義教育、国粋主義教育になっていないのです。
このことは、また日をあらためて別な稿に書きますが、むしろその教科書から伺えることは、「いま、大人たちは間違って戦争をしてしまったけれど、君たち少年少女が大人になったとき、決してそうした「戦争」という手段を用いることなく国を護れる、そういうことができる大人に育ってもらいたい」という、明確なメッセージが、そこここに埋め込まれているのです。
なんと、国をあげた戦いの最中に、日本は「戦争をしない国つくり」のための教育を子供達にしていたのです。
涙が出ます。
大東亜戦争では、多くの人々が亡くなりました。
けれど同時に、軍馬も20万頭、軍犬も1万頭以上が戦地で活躍し、命を失いました。
いま靖国神社に行きますと、遊就館の前の広場に「戦没軍馬慰霊」「鳩魂塔」「軍犬慰霊像」があります。
これらは、戦地で命を失った馬や犬や鳩の御霊を慰めるために建てられたものです。
先の大戦で、多くの動物たちの命が犠牲になりました。
けれど軍人墓地などの施設で、軍馬や軍用犬などへの感謝の思いを慰霊碑にまでしている国というのは、そう多くはないと思います。
そして現代日本においても、阪神淡路大震災や、東日本大震災のあと、お亡くなりになられた方々への慰霊祭はありますけれど、同時に命を失った牛や豚、馬や犬猫、鳩などへの慰霊祭は、あまり聞きません。
そういう点、現代の日本人は、なにか大切なものを、見失っているのではないかと思います。
愛知県の三ケ根山の慰霊碑の中にも、こうした愛馬や軍用犬の慰霊碑があります。
管理人の伊藤さんから伺った話ですが、戦争が終わり、武装解除して、全員が内地に帰還するということになったとき、Chinaの軍部は、軍馬や軍用犬は、すべて置いて行け、と高圧的に命令したそうです。
置いて行けば、馬や犬たちがどうなるのか。
これは、あえて聞くまでもないことです。
何でも食べるChineseたちのことです。
彼らは、ものの一ヶ月としないうちに、みんな殺して食べてしまうことでしょう。
いよいよお別れというとき、馬や犬たちが、日本の兵隊さんのところにやってきて、袖口を咥(くわ)えて放さなかったそうです。
そしてあの可愛がっていた馬や犬たちが、目にいっぱい涙を浮かべていたと伺いました。
馬でも犬でも、ほんとうに悲しいときは、人間と同じように涙を流すといいます。
「それって、ほんとうのことだったんですね」
実際に、戦地で、そのお別れを体験した軍馬、軍犬の係だったかつての兵隊さんたちが、伊藤さんに、そのように語られたそうです。
靖国の軍馬、軍犬、軍鳩の慰霊碑をみると、その犬や馬が、とても立派で凛々しい姿です。
像をじっと見ていると、なにやら、馬や犬たちが、「私たちのこと、忘れないでね」と語りかけて来るような気がします。
私たちが決して忘れてはならない歴史が、ここにもあります。
どうかみなさんも、靖国神社や三ケ根山、あるいは護国神社に行き、そこで戦没軍馬や、軍犬の慰霊像をみかけたら、是非、手を合わせ、それが夏の暑い日なら、水をあげてやっていただきたいと思います。
※このお話は2013年4月の記事をリニューアルしたものです。

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