
昨日の記事で、
「People on Taiwan」と、
「People of Taiwan」について、すこし触れさせていただきました。
このことは、3年ほど前から、このブログで何度か申し上げてきたことなのですが、非常に大きな問題なので、今日はこれについての解説をするとともに、もうひとつ、いま、何が起ころうとしているのかについても申し上げたいと思います。
台湾の人口は約2,300万人です。
このうち、約4分の3にあたる約1,725万人が、元々台湾に住んでいた人達で、これが「People of Taiwan」です。
つまり、もとからの台湾の民(たみ)です。
残りの人口の約4分の1にあたる約575万人が、「People on Taiwan」で、この人達は、大東亜戦争終結後に大陸から入植してきた人達です。
あとから来た人たちなので、「on」です。あとから来て台湾に「乗った」人たちです。
この区別は台湾の人達にとって、大変重要な意味を持ちます。
早い話が、ほんのちょっと前までは、待ち合わせの時間も違いました。
台湾で人と待ち合わせをするとき、「People of Taiwan」時間なら、正確にその時間に待ち合わせをします。
その待ち合わせが中国時間、つまり「People on Taiwan」時間なら、前後2時間の幅のある待ち合わせ時間になります。
そしていま、台湾の政治とメディアを牛耳っているのは、「People on Taiwan」の人たちです。
経済は、「People of Taiwan」です。
もとからの台湾人である「People of Taiwan」は、まじめによく働くし、約束は守る。
作業も正確であり誠実です。
けれど彼らが稼ぐ富は、政治的に元大陸人である「People on Taiwan」に巧妙に吸い上げられるようにされています。
台湾における親日の人達は、「People of Taiwan」です。
東日本大震災に際して多額の義捐金を送って下さったのも、この方達です。
終戦のときまで、台湾は日本でした。
ですから台湾にいたのは日本人です。
これがどういうことなのか、振り返ってみます。
では日本が台湾を統治する前の台湾は、どこの国の領土であったかというと、答えは、どこの国の領土でもなかった、です。
これを「無主地」といいます。
戦前まで、つまり国際連盟が機能していた時代の世界の常識は、「無主地は列強が面倒をみなければならない」というものでした。
欧米諸国の植民地統治に、ある意味「都合の良い」理屈ですけれど、それが世界の常識であったことは事実です。
こういう点について、現代の価値観で歴史を見ると、大きな履き違いをしてしまいます。
その台湾で、明治4年に、沖縄の宮古島の漁民が殺害されるという事件が起こりました。
それが「宮古島島民遭難事件」です。
宮古島の漁民が、台湾近海で操業中に海難事故にあって遭難し、乗組員54名が台湾に漂着したのです。
山中をさまよったこの漁民たちは、たいへん残念なことに、台湾の原住民によって殺害されてしまいます。
このことを、直接的に責めることはできません。
世界中どこの国でも、他所の国の人がその辺をウロウロしていたら殺すというのが、世界の標準だった時代のことです。
さらにいえば、China本土に近い台湾においては、大陸人が漂着してくれば、必ず盗みはするし殺人はするし、人を食べてしまうのです。
これが何千年も繰り返されてきたのです。
ですから彼らは自衛のためには、よそ者は殺すしかなかったのです。
ところが、このとき宮古の漁民たちは日本人です。
明治新政府は、国家として事態の収拾を図らなければなりません。
そこで明治新政府は、手順として、清王朝に、この事件について厳重抗議を行ないました。
清王朝は、
「台湾は化外の民(国家統治の及ばない者)につき、関与しない」と回答しました。
清王朝は、このとき台湾を「化外の民」つまり、清国とは関係のない地であり民であると明確に回答したのです。
そこで日本は、明治7(1874)年、台湾に出兵し、加害者たちを攻めました。
これが「牡丹社(ぼたんしゃ)事件」です。
この台湾について、清朝が関心を払うようになったのは、明治17(1884)年のことです。
この年「清仏戦争」が勃発し、フランスの艦隊が台湾北部に侵入したのです。
ご存知の通り、台湾とChina本土は、まさに目と鼻の先です。
そんなところにフランスの軍事基地ができたら、これはたいへんなことになると認識した清王朝は、まったく新たに「台湾省」を新設して、台湾に清朝の役人を置きました。
これが明治18(1885)年です。
そして明治27(1894)年にはご存知「日清戦争」が起こり、明治28(1895)年の日清間の下関条約において、清朝は正式に台湾を日本に割譲しています。
そして日本は、このあと昭和20(1945)年の終戦まで、ずっと台湾を日本の領土として統治してきました。
ここ、重要なポイントです。
台湾を領土とみなしていなかった清朝が、台湾を清朝の領土、すなわちChinaの領土としたのが明治18(1885)年です。
そして清朝が日本に台湾を割譲したのが明治28(1895)年です。
つまり、台湾がChinaの国土の一部であったのは、歴史上、「たったの10年間」しかなかったのです。
ではそれ以前の台湾はどうであったのかというと、日本でいう戦国時代頃にオランダが約30年統治したことがありました。
あるいは、琉球が台湾を支配しようとした時代もありました。
けれどオランダも琉球も、きわめて短期間のうちに、台湾から撤退しています。
なぜかというと、台湾にはコレラなどの風土病があり、また8つある部族は、それぞれまったく違う言語を話し、しかも部族間の対立も激しい。
しかもこの台湾の各部族というのが、とんでもなく強いのです。
ですから銃を持ってインカを消滅させたほどの欧米列強が、台湾に関してだけは、まったく歯がたたない。
ひとつの王朝が台湾全土を支配しているのなら、その王朝を倒せば事実上の支配権が手に入るのです。
けれど台湾には、その王朝がなく、村落共同体があるだけです。
その村落共同体を攻めようとすれば、村人たちは山中に避難します。
そして夜陰に紛れて、襲ってきた欧米人や、その昔なら大陸人たちを音もなく皆殺しにしてしまうのです。
警備の厳重な仮設要塞を築いても、今度はそこが伝染病にやられてしまう。
そして台湾には、8つの部族があり、それぞれごとに言語が違う。
共通言語がないのです。
ですから、世界中どこの国も、台湾を支配したり統治したりすることが、まったくできなかったのです。
こうして明治28(1895)年の下関条約から昭和20(1945)年まで、日本が台湾を統治しました。
引き算をしたらわかりますが、まる50年間、台湾は日本だったのです。
この50年間に、台湾は劇的な近代化を遂げ、言語も統一され、台湾の人々は日本人、すなわち天皇のおおみたからとなり、皇民教育を受け、法治国家となり、かつての日本と同じ、治安の良い平和で人々が和と絆と結(ゆ)いの心を大切にする日本国民となりました。
繰り返しますが、台湾がChinaの領土だったのは、歴史上、たったの10年間です。
その後の日本統治の50年の方が、よっぽど長い歴史を刻んできたのです。
けれど、このように書くと、そうはいっても、戦後70年じゃないかという声が聞こえてきそうです。
そうなのです。そこが問題なのです。
終戦のとき、日本には米軍が占領軍として入り込みました。
台湾には、中華民国を名乗るChina国民党が、占領軍として入り込みました。
いよいよ国民党軍が上陸してくるとわかった日、当時の台湾の人々の中には、日本統治を良しとせず、占領軍である国民党軍がやってくることを歓迎しようとする人々もあったのです。
ここも大事な点です。
こういうところに、日本に古来からある言論の自由が保証されていたことが明確に見て取れるからです。
どういうことかというと、言論の自由のない国ならば、日本国であるときに、親中派となることは売国奴として粛清の対象となる、つまり片端から逮捕して殺害するのが、当時の時代にあって、あたりまえのことであるからです。
反体制派の人達が、それなりに自由に活動できるということも、それが日本ならではのことである、ということなのです。
けれど、国民党軍が上陸する日、港に歓迎にでかけた反日親中派の人達は、そこであまりの現実に慄然とします。
彼らは、軍隊といえば、日本の軍隊しか知りません。
礼儀正しく、規律的で、民衆を守るイージス(盾)となる人々であり、服装も態度も立派な人々、そういう認識です。
けれど上陸してきた国民党軍には、まるで規律などなく、兵達は体中に略奪品の鍋や釜をぶら下げ、それはまるで銃を手にしたホームレスの集団だったのです。
そしてそのホームレスたちは、上陸するやいなや、台湾中の町中に入って、略奪を始めました。
ある家では、水道の蛇口から水が出るのを狂喜した国民党兵が、これは便利だからと、その蛇口を取り外して兵舎に持ってこいという。
わけもわからず、その家の主人が蛇口を外して兵舎に持って行くと、そこに取り付けろ、という。
言われるままに兵舎の壁に蛇口をつけると、彼らは大喜びだったのだけれど、壁に蛇口を取り付けただけですから、肝心の水が出ない。
すると彼らは、蛇口から水が出ないのは、その主人のせいだとして、その場でその主人を射殺してしまったのです。
こういうことは、いまの日本人もしっかりと認識すべきことです。
日本では、いまも昔も軍人(自衛官)といえば、辛く苦しい中にあっても、災害救助に来てくれたり、とっても信頼できる民衆のイージス(盾)ですけれど、大陸においては、いまも昔も大昔も、軍人と暴徒とヤクザは、まったく同一のものなのです。
歴史を振り返れば、世界中が国と国の争いや戦いに明け暮れたのがこの二千年ですけれど、そんな暴徒たちから国を守ろうとすれば、戦いになるのが、むしろあたりまえなのです。
さて、こうして台湾に占領軍としてやってきた国民党(中華民国)ですが、その国民党はシナ大陸の政権です。
ところが彼らは、その大陸を、China共産党に追われて、敗戦につぐ敗戦を繰り返し、ついに国そのものが台湾に亡命してきてしまったのです。
これがどういうことかというと、いまでも日本では、かつてGHQにぶら下がって特権を得た、日本人とは価値観の異なる在日コリアンが、敗戦利得者となって国を混乱させていますけれど、元日本であった台湾では、コリアンならぬ大陸人が、GHQとなっていまだに台湾に居座っている状態ということができます。
それがどれほど恐ろしいことなのか。
仮に日本の人口の4分の1がコリアンとなり、政治経済を彼らが牛耳ったらなどとは考えたくもないことですが、その恐ろしい出来事が、いまだに現実となっているのが、実は、台湾の現状です。
いま台灣にある政権は、国名として「中華民国」を名乗っています。
ところがこの「中華民国」は、国連からも世界中の諸国からも、また日本からもアメリカからも「国」として承認されていません。
なぜかというと、「中華民国」は、台灣の政権ではないからです。
「中華民国」は、あくまでChina大陸の「元・政権」、「元・国家」であって、台灣の政権ではありません。
そして「中華民国」は、台灣を、第二次世界大戦の戦後処理の一環として、台灣を軍事占領しているだけです。
そして軍事占領というのは、あくまで一時的にその国の法執行を停止し、行政機構その他の政府機構のすべてを占領軍の下におく、というだけのものであって、その国の主権を獲得するものではありません。
ですから中華民国政権が台灣にあっても、それが台灣の政権として認められるものではないのです。
つまり、台灣にある中華民国政権は、あくまでも占領軍であり、台灣に亡命してきた亡命政権でしかないわけです。
ここがまた問題です。
亡命政権である、ということは、亡命してきた先があるわけです。
たとえばインドには、チベットのダライ・ラマが亡命しているガンデンボタンがありますけれど、それはチベットの正当な政権保有者が、いまは「主権国家であるインド」に亡命している、ということです。
つまり、主権の確立された他国に亡命しているから亡命政権なのです。
では中華民国(国民党)の場合はどうなるのでしょうか。
中華民国は、China大陸の政権を自認する政権です。
けれどその大陸を追い出されて、いま台灣に亡命しています。
その台灣の本来の国際法上の地位は、どのような地位になるのでしょうか。
もともとは台湾は日本の領土です。
そしてその台湾について、昭和27年のサンフランシスコ講和条約には、次の記載があります。
第二章 領域
第二条
(b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(英文)
(b) Japan renounces all right, title and claim to Formosa and the Pescadores.
ここに、権利、権原及び請求権を放棄とあります。
このことは、このブログで何度も触れていることですが、「権利、権原及び請求権を放棄」というのは、いわば「処分権を放棄した」ということに等しいことです。
たとえば、自分の持っている携帯電話を、誰か、たとえばA君に、転売、廃棄などなんでも構わないから処分を委託したとします。
処分を委託されたA君は、しっかりとその委託事務を果たさなければならないのですが、ところが「あれから63年」、いまだに、A君は、頼まれた携帯電話の処分をしていません。
ということは、この場合、その携帯電話の今現在の所有権は誰にあるのでしょうか。
つまり日本が締結したサンフランシスコ講和条約の当事者国である連合国は、台湾の主権の帰属先をしっかりと定めなければならなかったのです。
その連合国というのは「United Nations」です。
いまの国連がこれに相当します。
国連は、中華民国を国連加盟国としていまや認めていません。
連合国(United Nations)からみたら、中華民国というのは、「存在しない国」なのです。
では、台湾の主権は、いった誰が、どこの国の誰が持っているのでしょうか。
サンフランシスコ講和条約は、日本と連合国との間で締結されました。
このとき、日本からは全権として吉田茂が調印の場に臨んでいます。
では、吉田茂はこのとき、誰から全権を委ねられていたのでしょうか。
実は日本国政府からではありません。
まずサンフランシスコ講和条約は、大東亜戦争を終結させるための講和です。
日本国政府は、戦後に誕生した日本国憲法下の政権ですから、日本国政府には、戦争当事者国として講和条約を締結する権限はありません。
つまり大日本帝国憲法下の日本と、連合国が戦争したものを集結させ講和条約を締結したのですから、戦争当事者国は大日本帝国です。
吉田茂は、その大日本帝国の全権として、この調印に臨んでいます。
日本国憲法下の政府の代表ではないのです。
だから「全権」なのです。
ちなみに、日本国憲法ができあがったときに、GHQが大日本帝国憲法の廃止ができなかった理由もここにあります。
GHQは日本を占領しましたが、いつまでもその占領統治を続けることはできません。
いずれどこかのタイミングで、占領軍を撤収しなければならない。
そのためには、講和条約を締結しなければならない。
そして講和は、戦争当事者国同士の講和条約でなければ、なんの意味も持ちません。
ですから大日本帝国憲法の執行停止は、さしものGHQにもできなかったし、すれば米国は戦争を終わらせることが
できないというジレンマにおちいってしまったのです。
そして大日本帝国憲法における日本の主権者は、日本国天皇です。
つまり日本の領土領民は、すべて天皇の大御宝です。
ということは、つまり、台湾の主権者は、いまなお、実は、日本国天皇が保持しているのです。
そしてその日本国領土を、中華民国という亡命政権がいまだに占領したままにしている、というのが、実は台湾の法的地位です。
けれど日本は、サンフランシスコ講和条約において、台湾に関する主権者としての「権利、権原及び請求権」を放棄しています。
つまり、その主権の処分は、連合国、そしてその連合国の代表者である米国が、きちんと結論を出さなければならないというのが、実際のところです。
ところがその台湾は、東シナ海と南シナ海の中間点に位置しています。
そしてその東シナ海と南シナ海の海中には、世界第二位の産油国であるイラクに匹敵する埋蔵量の莫大な石油が眠ていることが明らかになっています。
そして中共政府は、その東シナ海と南シナ海を領有し、石油の独占をすべく、琉球諸島、台湾、そして南シナ海にある西沙諸島、南沙諸島までをも、自国の領土領海にしようと、軍事活動を展開しています。
けれどもその中共政府は、サンフランシスコ講和条約の当事者国ではありません。
つまり、中共の行動は、国際社会における横領行為ということになります。
横領を放置すれば、国際秩序は乱れます。
ですからこれは放置できない問題です。
そうなると、米国としても、いつまでも台湾の法的地位を曖昧にしておくことができなくなります。
そして台湾の地位を明確にするためには、日本における主権者も、国民主権などという占領統治下の曖昧なものではなく、明確にしなければなりません。
なぜなら、日本国の主権者が明確になることで、台湾の地位保全や、南沙諸島、西沙諸島、そして東と南のシナ海の領有権が明確になるからです。
南沙諸島に、中共政府が軍事基地を作っています。
これを放置することはできません。
けれど、米国が、その中共に「待った」をかけるには、米国側に、「待った」をかけれるに足る法的発言権が必要になります。
そしてその法的発言権は、実は、サンフランシスコ講和条約に基づく以外にない。
そして米国がサンフランシスコ講和条約を持ち出すならば、それは台湾の地位正常化にも、直結した法的地位の安定化になり、それを言うためには、日本国憲法という戦後の占領法規についても、修正を要請しなければならないことになっていくわけです。
実はいま、東亜情勢の根幹にあるのが、この流れなのです。

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