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Bushido - The Soul of Japan

新渡戸稲造著の『BUSHIDO(武士道)』は、日本の武士道を書いた世界的名著とされている本です。
そして武士道は、日本的精神の根幹を成すものとされています。
この本が最初に出版されたのは明治33(1900)年のことで、米国で『Bushido: The Soul of Japan』として刊行されました。
出版のきっかけとなったのは、これは本にも書いてありますが、新渡戸稲造がある日、米国の法学者と話していたときに、宗教の話題となり、そのとき相手の法学者から、
「あなたがたの学校には宗教教育というものがないのですか?」と尋ねられたのだそうです。
このとき新渡戸博士は「ない」と答えました。
すると相手の法学者は、
「宗教なしで、いったいどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか?」と問うてきたというのです。
この質問に対して新渡戸博士は即答できない。
で、質問に愕然としたのだそうです。


「自分たち日本人の道徳規範というのは、いったい何に基いているのだろうか」
新渡戸博士は、そこで一生懸命考るわけです。
そして、はたと思いついたことが、
「近代日本の道徳観念は、封建制と武士道が根幹を成しているのではないか!」ということで、そこで武士の道を体系化し、本にして出したのが、世界的名著と言われる『Bushido: The Soul of Japan』です。
実はここがたいへんに面白いところなのですが、当時の日本は、宿泊先の旅館の床の間に現金を置きっぱなしで出かけても、誰も盗むなんてしなかったし、数万人が出るお祭りに際して、警備の警察官はほんの数名でまかなえるほど、治安の良い国であったわけです。
この頃東京市の市長であった尾崎行雄は、ある外国人から「どうして東京市はこんなに治安が良いのか」と問われ、答えに窮して「それは東京市の住民の民度が高いからだ」と答えています。
いまでも東日本大震災にみられたように、日本人の民度の高さは、世界的にみても群を抜いているということができます。
ところが、ではどうして日本人は民度が高いのか、日本人の道徳観念はいったいどこから来ているのか。
そのことに、新渡戸博士ですら即答できなかったということは、日本人にとっては、治安の良さも民度の高さも、それは、ごく日常的な、空気のような、あたりまえのもの、もっというなら日本人の血肉となっているものであったということを示しています。
なぜなら、後天的なものとか、あるいは他者から強制されたものなら、「これが原因だ」と誰もが即答できるからです。
お隣の朝鮮半島の人達などは、いまでも「日本に強制された」と声高に主張しています。
日本が強制したのは、両班の専横を排除したこと、学校に行って教育を受けること、誰もが読み書きができるようにすること、道徳心を身につけること、不当な暴力を禁じること、言論の自由を認めること、過酷な刑罰を廃止すること、刑務所の待遇を改善して囚人であっても人として遇すること、女性にもちゃんと氏名を付けることなどなどです。
他にも、路上脱糞を禁止し男女とも屋内で用をたすことというものもありました。
もっとも彼らにとっては、それがいまだに不服で、日本が半島から完全撤退してすでに70年が経過しても、いまだに彼らは、自分たちが受けた不当は「千年経っても忘れない」のだそうですが。
原因が「日本のせいだ」と、簡単に特定できてしまうのです。
いずれにしても、他者から強制されたものならば、それは(どう受け止めるかは別として)理由も原因も明らかなものです。
ところが、新渡戸博士にしても、あるいは尾崎行雄にしても、明快な即答ができなかったということは、それだけ当時の日本人にとっては、道徳的であること自体が空気のようにあたりまえのものであったということです。
もっというならば、宗教的戒律として、毎週の日曜学校で教えこまなくても、まともで道徳的であることが、ごくあたりまえの日常になっている。
世界の常識からしたら、それはまるで天国社会そのものです。
新渡戸博士は、そんな日本人の道徳規範を、いったいどこからきたのだろうかと真剣に考え、その答えを武士道に求めました。
当時、武士道というものは、世間で広く認知はされていましたけれど、これを体系化してまとめたものはありませんでした。
ですから、これまたたいへん逆説的なのですが、新渡戸博士が英文で『武士道』を上辞したことから、あらためて日本人が『武士道』の存在を知ることになったのです。
明治時代のことですから、この時代、すでに武士はいません。
いなくなって30年も経ってから、武士道が体系化されて上辞されたわけです。
これもまたおもしろいことです。
そういう次第ですから、もともとは『武士道』は、英文のものしかなかったのです。
英語で、日本文化を知らない海外の人向けに書かれた本が世界的なベストセラーとなり、世界で評判だからと日本でも邦訳されたものが売りだされ、そこではじめて日本人が武士道をあらためて認知したのです。
私は、日本的道徳心の根源は、武士道にあるというよりも、天皇の存在を中心にした「おおみたから」と「シラス(知らす、Shirasu)」に由来し、さらに縄文文化によって形成された和の精神が、日本人のDNAとなって定着していると考えています。
武士道は、その延長線上にある統治官僚としての道として形成されたものという見方です。
ただ、新渡戸博士の『武士道』は、もともとが外国人向けに書かれたものだけに、逆にこの本は、武士道を知らない現代日本人にもわかりやすく、あらためて今これを学ぶことには、大きな意義があると思います。
ちなみに、新渡戸博士は、昭和59(1984)年から平成19(2007)年まで、5千円札に登場していました。
このときにお札に描かれた新渡戸博士は、養女の結婚式に出た時の礼服姿に正装したお写真がもとになっています。
養女であっても、まさに我が子同然に可愛がり、その娘が嫁ぐ姿に、幸せをいっぱいに感じている博士の、とてもあたたかな表情のものでした。

新渡戸稲造5千円

さて、では新渡戸博士が描いた『武士道』の要約版を以下にご紹介してみたいと思います。
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1 武士道とは何か
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武士道とは、「騎士道の規律」であり、高貴な身分に付随する義務として武士が守るべきものとされた。
成文法はなく、長い時を経て、武士達が口伝で作り出し、長い年月の間に自然と規律として熟成されてできあがったものである。
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2 武士道の源
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武士道の源は、神道と仏教にある。
神道は主君に対する忠誠、先祖への崇敬、孝心などをもたらし、
仏教は、運命に対する信頼、不可避なものへの静かな服従、禁欲的な平静さ、生への侮蔑と死に対する親近感を与えた。
孟子の人民主権的な理論や王陽明の知行合一も思いやりのある武士たちに好まれた。
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3 義
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「義」は武士道において最も厳しい規律である。
裏取引や不正行為は、武士道が最も忌み嫌う。
幕末に蛤御門の変に敗れて自刃した尊攘派の武士真木和泉守は次のように説いている。
 士の重んずることは節義なり
 節義はたとへていはば人の体に骨ある如し
 されば人は才能ありても学問ありても
 節義なければ世に立つことを得ず
 節義あれば不骨不調法にても
 士たるだけのことには事かかぬなり
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4 勇
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孔子は「義を見てせざるは勇なきなり」と言った。
「勇」は「義」によって発動される。
水戸光圀は、次のように述べた。
 一命を軽んずるは士の職分。
 なれば、
 その場所を退いて忠節に成る事もあり
 その場所で討死して忠節に成る事もあり
 これを死すべき時に死し、生くべき時に生くといふなり
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5 仁
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「仁」とは、思いやりの心、憐憫の心。愛、寛容、同情である。
伊達政宗は、
 義に過ぐれば固くなる
 仁に過ぐれば弱くなる
と言い、慈愛の感情に流されすぎることを戒めている。
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6 礼
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長い苦難に耐え、親切で、人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。
自己自身の利益を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事をたくらまない。
これが「礼」であり、「礼」は、相手を敬う気持ちを目に見える形で表現する。
それは社会的地位を尊重することを含む。
ただし、伊達政宗は、「度を越えた礼は、もはやまやかしである。」と言い、仰々しいだけで心のこもっていない「礼」を軽視した。
「礼」には、必要な条件というものがあって、泣いている人と共に泣き、喜びにある人とともに喜ぶ。
「礼」は慈愛と謙遜から生じ、他人に対する優しい気持ちにから発する。
単なる「形式」は、もはや「礼」ではない。
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7 誠
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「誠」とは「言」と「成」という表意文字の組み合わせによる。
武士にとって、嘘をつくことやごまかしは「臆病」である。
商人や農民よりも社会的身分が高い武士には、より高い水準の「誠」が求められていた。
だから武士に二言はなく、武士同士の約束にも証文はとらない。
言葉に嘘がない以上、改めて証文をとる必要もない。
むしろ、証文を書かされることは武士の体面に関わることであるとされた。
武士にとって嘘をつくことは、罪悪というよりも「弱さ」の表れであると考えられていた。
そして「弱い」ということは、それ自体が武士にとっての不名誉であった。
つまり、「誠」がない武士は不名誉な武士であり、もはや武士ですらなく、「誠」がある武士こそが名誉ある武士、と考えられた。
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8 名誉
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武士の子供は、
 人に笑われるぞ
 体面を汚すな
 恥ずかしくないのか
という言葉で、その振る舞いを矯正された。
新井白石は、
 不名誉は樹の切り傷の如く、
 時はこれを消さず
 かえってそれを大ならしむるのみ
と説いた。
西郷隆盛は、
 道は天地自然の物にして、
 人はこれを行なふものなれば、
 天を敬するを目的とす。
 天は人も我も同一に愛し給ふゆえ、
 我を愛する心を以て人を愛する也
と、教訓を残した。
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9 忠義
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武士は、個人より公を優先する。
だから武士は、主君のために生き、そして死ぬ。
しかし、無節操に主君に媚を売ってへつらい、主君の機嫌をとろうとする者は「佞臣」とされた。
奴隷のように追従するばかりで、主君に従うだけの者は「寵臣」と評された。
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10 武士とお金
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現代では、頭脳訓練は主に数学の勉強で行っているが、当時は文学の解釈や道義的な議論がその役割を担っていた。
教育の目的はあくまで品性を高めることにある。
教師には、できた人格を求められ、聖職者であった。
武士の本性は、算術では計算できない名誉を重んじることに特質がある。
品性を育むという精神的な価値に関わる仕事の報酬は、金銭で酬いられるべきことではない。
それは無価値だからではなく、尊すぎて価値がはかれないからである。
武士は、無償・無報酬の仕事を実践した。
ただし弟子たちが師匠にある程度の金銭や品物を持参するという慣習は認められていた。
清貧な教師たちは貧乏であったので、この贈り物を喜んで受け取った。
彼らは自ら働くには威厳があり過ぎ、物乞いをするには自尊心が高すぎた。
貧しい生活にも高貴な精神で耐え抜く彼らの姿は、鍛錬を重ねる自制心を持った生きた手本であり、その自制心は侍に必要とされたものであった。
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11 武士の感情
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武士にとって、自分の感情を顔に表すことは、男らしくないことだと考えられた。
武士が、自分の苦しみや辛さを表情に出せば、他人の平穏をかき乱すからである。
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12 切腹
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切腹は、自分の罪を償って過去を謝罪するためであったり、友や一族を救うためであったり、武士が忌み嫌う不名誉の烙印を押されることから免れるためであったり、自分の誠実さを証明するためであったりと、様々な目的で実施された。
なぜ「腹」を切るのかといえば、魂が腹に宿るからである。
切腹は武士にとって栄光ある死であった。
同時にいたずらに死に急ぐことは卑怯とされた。
戦国時代の中国地方に山中鹿之助幸盛という武将がいた。
彼の主家は戦に敗れて滅んだが、彼は主家の再興を志してたいへんな苦境を戦い抜いてきた。
その彼は、下記の歌を詠んだ。
 憂き事の なほこの上に 積れかし
 限りある身の 力ためさん
ありとあらゆる困難と苦境に、忍耐と高潔な心を以って立ち向かうのが武士道である。
真の名誉は、天から自分に与えられた使命をまっとうすることである。
そのために死すことは不名誉なことではないが、天が与えようとするものから逃げようとすることは卑怯なことである。
17世紀、ある高名な僧侶は以下のように言っている。
 平生何程口巧者に言うとも、
 死にたることのなき侍は、
 まさかの時に逃げ隠れするものなり
 一たび心の中にて死したる者には
 真田の槍も為朝の矢も透らず
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13 武士の魂「刀」
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刀は武士の魂である。
刀は、武士道の力と武勇の象徴である。
刀を作る刀匠は、仕事を始める前に必ず神に祈りを捧げ、身を清めた。
その作業場は神聖な領域とされた。
そのようにして作られた刀は、持ち主に深く愛され、さらには尊崇された。
それゆえ、刀をまたぐことは、武士に対する侮辱とさえいわれた。
不当な使用は非難され、やたらと刀を振り回すのは、虚勢をはる卑怯者として蔑まれた。
心が洗練されている武士は、自分の刀を使うべき時をしっかりと心得ていたし、そういう機会はめったに訪れない稀な場合であることも知っていた。
勝海舟は、多くの暗殺者に命を狙われたが。
彼は後年、回顧録にこう記している。
 俺は一人も斬ったことがねえよ。
 腕の立つ河上彦斎は何人も斬ってきたが、
 最後は人に斬られて殺された。
 俺が殺されなかったのは、
 一人の刺客も殺さなかったからだよ。
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14.武士道が求めた女性の理想像
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武士道は男性のために作られた。
その武士が求めた女性の理想像は、家庭的であると同時に、男性よりも勇敢で決して負けないという、英雄的なものであった。
武家の若い娘は、感情を抑制し、神経を鍛え、薙刀を操って自分を守るために武芸の鍛錬を積んでいた。
武家の少女達は成年に達すると「懐剣」を与えられた。
その短刀は、彼女達を襲う者に突き刺さるか、あるいは彼女達自身の胸に突き刺さるものであった。
そして多くの場合、懐剣は後者のために用いられた。
女性といえども、自害の方法を知らないことは恥とされていた。
死の苦しみがどんなに耐え難く苦しいものであっても、亡骸に乱れを見せないために両膝を帯紐でしっかりと結ぶことを知らなければならなかった。
男性が忠義を心に、主君と国のために身を捨てることと同様に、女性は夫、家、家族のために自らを犠牲にすることが名誉とされた。
武士階級の女性の地位が低かったわけではない。
女性が男性の奴隷でなかったことは、男性が封建君主の奴隷ではなかったことと同様である。
戦場など、社会的、政治的な存在としては、女性はまったく重んじられることはなかった。
しかし妻として、母としての家庭での存在は完全であったし、多くの場合、家庭内で夫は妻に頭があがらなかった。
父や夫が出陣して家を留守にしがちな時は、家の中のことはすべて女性がやりくりしていたし、時には、家の防備を取り仕切ることもあった。
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15.大和魂
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武士は一般庶民を超えた高い階級に置かれていた。かつてどの国でもそうであったように、日本にも厳然とした身分社会が存在していた。
その中で、武士は最上位に位置づけられていた。
江戸時代、日本人の総人口における武士階級の割合は決して多くはなかったけれど、武士道が生み出した道徳は、その他の階級に属する人間にも大きな影響を与えた。
農村であれ都会であれ、子供たちは源義経とその忠実な部下である武蔵坊弁慶の物語に傾聴し、勇敢な曾我兄弟の物語に感動し、戦国時代を駆け抜けた織田信長や豊臣秀吉の話に熱中した。
幼い女の子であっても、桃太郎の鬼が島征伐のおとぎ話などは夢中で聞いた。
このように、大衆向けの娯楽や教育に登場した題材の多くは武士の物語だった。
武士は自ら道徳の規範を定め、自らそれを守って模範を示すことで民衆を導いた。
花は桜木、人は武士
武士は日本民族全体の「美しい理想」であった。
「大和魂」は、武士道がもたらした。
武士道は大和魂そのものである。
日本民族固有の美的感覚に訴えるものの代表が「桜」である。
桜は、古来から日本人が好んだ花だった。
西洋人はバラを愛でるけれど、バラは美しさと甘美さの裏にトゲを隠している
バラは散ることなく茎についたまま枯れ果てる。
それはあたかも生に執着し、死を恐れるかのようである。
けれど桜は、裏にトゲを隠し持っているようなことはない。そして自然のおもむくままに、散る。
淡い色合は華美とは言えないけれど、そのほのかな香りには飽きることがない。
このように美しく、はかなげで、風で散ってしまう桜が育った土地で、武士道が育まれたのもごく自然なことである。
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16.武士道は甦るか
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上記のように、武士道は「武士」と呼ばれた階級に属した人々により形成され、その心は日本人全体に受け継がれてきた。
しかし、明治維新によって「武士」階級は姿を消し、武士道が育まれた土壌は消え去った。
では、武士道はこのまま消えてしまうのか?
答えは「否」である。
維新を進め、新たな近代国家「日本」を作り上げた原動力となった人々は、紛れもない「武士」たちであった。
武士道は、一個の独立した道徳として復活することはない。
しかし、武士道が残してきた徳目の数々は、決して消え去ることはない。
時代が流れ、武士道は城郭・武具と共に崩壊した。
既に、その役目を終えたかのようでもある。
しかし、不死鳥は自らの灰からのみ甦ることができる。
武士道の栄誉は再び息を吹き返し、散った桜の花のように風に運ばれ、その香りは人々を祝福し続けるであろう。
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