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定家葛(ていかかずら)
定家葛

先日Facebookで友人の方向けに「四文字熟語で十七条憲法を紹介する」というのをやりました。
思いのほか好評だっただったので、こちらでもご紹介してみたいと思います。
【聖徳太子十七条憲法】
第一条「以和為貴」和を持って貴しとなす
第二条「篤敬三寳」あつく三宝(仏法僧)を敬え
第三条「承詔必謹」みことのりを受けては必ずつつしめ
第四条「以禮為本」うやまうことを根本とせよ
第五条「絶餮棄欲」むさぼりを絶ち欲を棄てよ
第六条「懲悪勧善」悪をこらしめ善を勧めよ
第七条「人各有任」人各々任あり
第八条「早朝晏退」朝早く出仕し遅くに退せよ
第九条「信是義本」まことはことわりのもとなり
第十条「絶忿棄瞋」心の怒りを絶ち表の怒りを棄てよ
第十一条「明察功過」功過を明らかに察せよ
第十二条「国非二君」国に二君なし
第十三条「同知職掌」職掌を知れ
第十四条「無有嫉妬」嫉妬あるなかれ
第十五条「背私向公」私に背き公に向え
第十六条「古之良典」古の良典を用いよ
第十七条「不可独断」独断不可
おそらく、たったこれだけを見ても、多くの日本人の方々には、いちいち納得のことであろうと思います。
こんなすごいことが、いまから1,400年も前の西暦604年(推古天皇12年)に文書にされ、それも「ただ書かれた」だけでなく、日本人の骨髄として、これをずっと守り通してきたのです。
これはすごいことです。


ちなみに第17条の「不可独断」には、その続きがあって、そこには「逮論大事 若疑有失」と書かれています。
これは、「大事な論におよぶときは、あやまち(失)あることを疑え」というものです。
会社などで大切な会議を行うとき、いやになるくらい細かい点や、思いもかけない異なる見解が出されて、議題を提出した側が大汗をかくことがしばしばあります。
けれど、そこが大事だ、と十七条憲法にはあるのです。
なぜなら、論は、決まれば会議室から外に出て、世間の風にさらされるのです。
意思決定は、会議室に集った人達の数十倍どころか、ときに数千万倍の人々の生活に影響をあたえるのです。
だからこそ、細かな点までしっかりと議論することが大事だと書いてあります。
そしてこのことは、ウシハク世にあっては、実は不可能なことです。
全員が大将の顔色だけを見て会議をし、大将に逆らえば即、死が待っているような環境では、しっかりとした議論や会議など望むべくもありません。
またそのようなウシハク感覚の持ち主が、ひとりでもその会議室にいて、自分の利得のためだけの発言を、まるで幼児にみられる固執性のように「言い張る」のなら、これまた会議は会議になりません。
ことほとさように17条憲法は、そのすべてが「シラス(知らす、Shirasu)」という我が国独自の統治の基本をベースに出来上がっています。
その「シラス(知らす、Shirasu)」が、ではいったいいつ頃から日本の統治の根本とされたのかというと、これは古事記に、大国主大神の時代には、すでに高天原の天照大御神様の統治の基本理念として確立されいた統治理念であるということが書かれているわけです。
ではその大国主大神が、いったいつ頃の時代の神様だったのかというと、これがわからりません。
大国主大神が存在したことで、出雲大社が創建されたことは、間違いのない事実なのです。
でも、その出雲大社でさえ、いったいいつの時代に御創建された大社なのか、これがわからない。
つまり、日本では、そんな「わからないくらい遠い昔」から、ずっと「シラス(知らす、Shirasu)」を統治の基本として国の運営がなされてきたということです。
ですから「いつ考案されたかわからないからダメだ」ではなくて、「いつ考案されたかわからない」くらい遠い昔からある」ということが、日本の凄みなのです。
「シラス(知らす、Shirasu)」というのは、概略すれば、天子様が民衆を「おおみたから」とするという統治のことを指します。
そのことを、全ての民に知らしめるから「シラス(知らす、Shirasu)」です。
天子様がちょくせつ地上の民衆を統治するのではなく、天子様が民衆を「最も大切な宝」と規定する。
ここが大事なポイントです。
そのようにしてくださることによって、民衆が権力者の隷民となりえなくなるからです。
逆にいえば、民衆が権力者の私的支配から自由であることは、天皇という存在があるからなのです。
つまりこれこそが究極の民主主義、民主主義の理想型です。
人類が何千年もの間希求しながら、どの国も民族も、まったく手が届かなかった究極の民衆をこそ宝とする理想型なのです。
こんなすごいことが、日本では、はるか神話の時代に理念も統治も確立されていたのです。
そしてそれが、時代を下って聖徳太子の十七条憲法として成文化され、近代では大日本帝国憲法の第一条になっています。
大日本帝国憲法の第一条は「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」です。
ここにある「統治」は、いまの人は「とおち」と読みますが、戦前戦中は訓読みで「すめらひ、しらす」と読みました。
これこそが日本の日本たる所以であり、まさに「シラス(知らす、Shirasu)」こそが人類の至宝の財産であり世界遺産ともいえるものだと思います。
さて、そこでみなさまに質問です。
この17個並んだ四文字熟語のなかで、高いレベルの「能力」を必要とする熟語がひとつあります。
それはいったい何条の言葉でしょうか。
答えは第十一条の「明察功過」です。
「功過(こうか)を明らかに察せよ」と読みます。
十七条憲法には漢文で次のように書かれています。
「十一曰 明察功過 罰賞必當 日者 賞不在功 罰不在罪 執事群卿 宜明賞罰」
読み下すと次のようになります。
「十一にいわく。
 功過(こうか)を明らかに察して、賞罰を必ず当てよ。
 このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず。
 事(こと)を執(と)る群卿、よろしく賞罰を明らかにすべし」
ここでは、論功行賞について、その結果に対して賞罰せよと言っているのではなく、「察して賞罰せよ」と述べています。
つまり人の上に立つ者は、事件や事故、あるいは良いことも悪いことも、それが起きてから賞罰を明らかにするのではなく、事前に「察して」賞罰をしなさい、と説かれています。
とかく昨今では、結果のみにスポットライトが当てられがちですが、たとえば川崎の中一児童殺害事件のような事件や事故が起きてからでは遅い。
起きる前に手を打ちなさいというのが、この「明察功過」の考え方です。
そのためには、人の上に立つものには、「察する力」が必要になります。
そしてその能力を高めるために、昔の人は、さかんに和歌を詠み、また読みました。
和歌は、上の句と下の句がありますが、そこに描かれていることが言いたいことではありません。
本当に言いたいことは伏せ、その手がかりを上下の句で詠みます。
そして読む側は、その手がかりから、詠み手の真意を「察する」のです。
「察する」という行為は、思いやりの心がなければ、できることではありません。
そして、相手を「思うこと」、それを昔の人は「愛」という漢字で示しました。
ですから「愛」という漢字の訓読みは、「おもふ」です。
日本に言語がなく、漢字を輸入することで言語ができたというのなら、日本語の漢字に訓読みはできません。
現に、朝鮮語には、漢字の朝鮮読み(訓読み)はありません。
自国にもともとあった文化を一切合切否定し、外来モノだけを尊んだから、訓読みがないのです。
これに対し日本語には訓読みがあります。
なぜあるのかといえば、日本では、もとからある大和言葉の表記の手段として、あとから漢字を取り入れたからです。
つまり言葉を返せば、日本人は外来文化を喜んで取り入れましたけれど、あくまで日本的思考、日本的理念の中でそれらを取り入れたにすぎない、ということです。
そしてその日本的思考、日本的文化の根底にあって、日本の歴史を通底しているのが、シラス(知らす、Shirasu)なのです。
<ご参考>
■いまあらためて十七条憲法を読む
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2377.html
■ウシハク例として「入唐求法巡礼行記」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2568.html
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【CGS ねずさん】第11話 日本人とキムチのルーツ

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