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実は先日、神谷宗幣さんのYoutube番組の「CGS」の収録をさせていただいたきたのですが、その中で、議員と政治家は異なるのではないか、というお話をさせていただきました。
政治家は、会社にたとえれば経営者です。
ときに民意の反対を押し切ってでも、国家国民のために、地方政治ならその地域のために働くのが政治家です。
単に利権者の走狗となって利益調整や再配分をするだけなら、それは議員であるかもしれないけれど、政治家とは言いません。
ということは、いま日本には議員はいるけれど、政治家がいないか極端に少ないということです。
これは会社でいうなら、社員はいるけれど経営者がいない状態と同じです。
ましてや、特定部門のことしかわからないような人では大企業の重役も社長も勤まらないのと同様、特定団体の利益にしか興味も関心もない人に大事な国政や地方行政など勤まるはずもありません。これではお寒い限りです。
先般の衆院選では、国想う次世代の議員が大量落選しました。
今回の統一地方選も同じです。
そこで、どうしてだろう。神々は何をお考えなのだろうと、真剣に考えてみたのです。


統一地方選挙の開票結果は、公明が1017,共産が760議席です。(下図)

201504統一地方選結果

この結果に危機感を持った人も多いかと思いますが、こうなった理由は単純です。
「低投票率」が最大の原因です。
では、「選挙に行かなければ罰則を課す」と法律で定めれば、日本は理想的な政治が可能な国になるのでしょうか。
あるいは地方政治は、本当に市民や県民のための政治になるのでしょうか。
そのようなことを、実は有権者はーつまりそれは民意ですがーすでによく知っているのではないかと思うのです。
早い話、ネットで政治に関心のある若者層がいます。
ものすごく政治に関心の高い層です。
けれど、そんな彼ら自身が、選挙に行かなかったりしています。
なぜなのでしょうか。
つまり、低投票率であること、若者の選挙離れ、その原因を辿って行くと、すでに民意は、完全に政治を見切っている。もっというなら見捨てている。
いまの政治の枠組みで、どの議員に投票しても、実は日本は何も変わらない。
そのことを有権者が、すでに知っているということなのかもしれません。
真実の民意というのは、これは百人一首の中にも出てきますが、要するにこれが御神意というものです。
つまり日本の八百万の神々、いいかえれば民意は、すでに議会などというものの存在を完全に見限っている、ということなのかもしれません。
考えてみますと、確かにそうなのです。
日清戦争が始まる前、時の総理の山県有朋は、清國や欧米列強の脅威に対し、国家予算の7割を軍事費に回す予算を組み、議会に提示しました。
議会は猛反発しました。
「そんなカネがあるなら、民生に回すべき!」
それが国会の答えでした。
その結果何が起こったのか。
日本は清國に見くびられ、徴発され、結果日本は、日清戦争を戦わざるをえない羽目になりました。
そしてこの戦争で、多くの若くて優秀な国民の命が失われたのです。
大東亜戦争も同じです。
陛下も、当時の陸軍省も海軍省も、何が何でも戦争は回避すべきと、そのために必死の努力を積み重ねているときに、当時の国会はどうであったか。
これは全記録に残っているので明白なことでありながら、戦後はまったく伏せられっぱなしになっていることだけれど、与野党のほぼ全部の議員は、当時メディアと一緒になって、無責任に、
「鬼畜米英断固打つべし!」
「進め一億火の玉だ!」とやっていたのです。
冗談じゃないです。
国民の生命と財産の安全を守り、やすらけき世を保持し育むのが政治の役割です。
その政治を担うはずの議員が、欲にかまけ、率先して平和を蝕み、日本を戦争へと導き、多くの国民の命を失わせているのです。
そのどこがどう政治家なのでしょうか。
つまり彼らは議員であっても、政治家ではない。
振り返ってみますと日本人は、飛鳥、奈良、平安の500年、江戸時代の270年、それどころか縄文期に至っては、なんと1万7000年の長きに渡って、戦乱のない平和で安定した世の中を築いてきたのです。
そしてそのいずれの時代においても、議会などという存在はありませんでした。
つまり、議会がなくても政治は可能なのです。
天皇という権威のもとに、すべての領土領民が、天皇の大御宝とされる。
政治を行う者は、常にその天皇の領土領民を「預かる」立場にある。
「氏名」といいますが、その「氏」、つまり苗字は、7世紀の公地公民制のときに、すべての民に与えられたものです。
だから「百姓」と言います。
「百」というのは、文武百官という言葉があるように、「たくさんの」という意味です。
ですから、江戸時代などにおいても、よく百姓一揆がありましたが、このときの一揆側の言い分というのは、
「俺達は天子様(天皇)から姓を授かった天下の皇民である。木っ端役人何するものぞ!」
というものです。
最近では、「百姓」は差別用語だとか馬鹿なことを言い出すバカ丸出しの在日系のアホ学者がおかしな捏造日本史を書いていますが、実にとんでもないことで、そもそも階級闘争などという概念自体、19世紀の共産主義思想からきているものです。
それ以前の時代である江戸時代に、そもそも階級闘争などという観念自体が日本には存在しません。
いやむしろ、「オラたちは天下の百姓だ」という気概と誇りを持っていたのが日本人です。
そういう日本の歴史伝統文化に即してみれば、欧米で生まれ、絶対的王権による領土領民の私有化に対して民衆が権利を主張することでできあがった議会制民主主義などというものさえも、きわめて前近代的で過渡期的な下田面の概念でしかないのです。
何よりも民の暮らしの安寧を願うなら、国政においても、地方政治においても、その要諦は、民衆こそが天下の宝物であるとすること以外にはありえません。
そしてそういう社会を、きわめて誠実に築いてきたのが、実は日本という国の、本来のカタチです。
そしてこういう視点から、現下の低投票率や、議員という存在の体たらくをみたとき、まさに御神意は、すでに議会という仕組みそのものに対して、明確にNOを叩きつけているといえるのではないかと思えてくるのです。
せっかく投票日に誠実に投票に行ってくださった皆様の前で、こんなことを言い出しますと、気を悪くされる方もおいでになるかもしれません。
けれど、私達の子や孫達が、本当に素晴らしい国、日本の民として、安心して安全に暮らしていけるようにすることが、私達大人の使命だとするならば、私達はいま、議会という存在が果たして必要なのか、政治とは、政治家とは、そもそも何なのか、もう一度考えなおしてみる必要があるのではないでしょうか。
こんなことを言い出すのは、たぶん、今は、私一人かもしれません。
けれど、あと4〜5年したら、そう言い出す人はもっとずっと増えてくると思います。
いま、私達は新しい歴史のはじまりにいます。
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