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小林虎三郎

米百俵(こめひゃっぴょう)といえば、2001年の流行語として覚えておいでの方も多いのではと思います。
当時、小泉内閣発足時の総理の国会所信表明演説で、この言葉を引用して有名になりました。
もともとは幕末から明治初期にかけて活躍した越後・長岡藩(いまの新潟県長岡市東部)で大参事を務めた小林虎三郎(1828-1877)にまつわる故事から引用された言葉です。
越後・長岡藩藩主の牧野氏は、三河国でもともとは今川家の家臣でしたが、今川家が滅び、後に徳川家康の家臣となりました。
豪勇を持って知られ、徳川十七将に数えられた名門の家柄です。
この牧野氏が当時知行していた牛久保は、戦国時、常に今川、武田、織田、松平からの脅威に晒されていたところで、ここから家訓として「常在戦場」の四字が生まれています。
これは「常に戦場にあるの心を持って生きる」という意味です。
ちなみに山本五十六大将も、この「常在戦場」を座右の銘としていました。


米百俵の逸話に出てくる小林虎三郎も、「常在戦場」を座右の銘にしていました。
小林虎三郎は、幼いころ天然痘を患い、その後遺症が左顔面に残る人でした。
けれど一生懸命に努力して、長岡藩校で若くして助教を務めるほどの俊才となり、長じて佐久間象山の門下生になります。
佐久間象山は、多数の弟子を獲った人ですが、特に吉田松陰と、小林虎三郎を可愛がり「義卿(松陰)の胆略、炳文(虎三郎)の学識、稀世の才」と褒め称えました。
ちなみにこの頃、黒船が来航するのですが、このとき幕府の老中であった長岡藩主の牧野忠雅に横浜開港を建言したのが小林虎三郎です。
このことが原因で小林虎三郎は帰国謹慎を申しつかるのですが、結果として虎三郎のこの案は幕府の採用するところとなり、何もない砂浜だった横浜に、わずか三ヶ月という、おどろくべき短期間で建設されたのが、横浜の町並みで、これがいまの「横浜市」に至っています。
都内から横浜にクルマで行く時には、横浜ベイブリッジを通りますが、あの美しい橋も、もとをタドせば小林虎三郎の建議があったからこそのものであるわけです。
戊辰戦争のとき、小林虎三郎は、やってくる官軍に対し、幕府の正当性をしっかりと訴えながら、なおかつ戦わないという独自の非戦論を唱えました。
けれど藩内の意見は河井継之助の奥羽越列藩同盟による会戦論となります。
長岡藩は勇敢に戦うのですが、結果は敗北。
そのため、14万2700石あった藩の俸禄は、わずか6分の1の2万4000石に減じられてしまいます。
減封になったからといって、藩士たちの食べ物が6分の1で済むようになるわけではなく、藩士たちはたいへんな貧窮のどん底に追いやられてしまいます。
残念なことですが、一部の足軽などの下級藩士が、妻子に食べさせる食べるものを得るために商家に盗人に入ろうとして、護衛の浪人者に斬り殺されるという事件などもあったそうです。
あまりの藩内の貧窮ぶりに、藩主の親戚の三根山藩の牧野氏がみかねて、長岡藩に米を百俵送ってくれることになりました。
飢えに苦しむ藩士たちからしてみれば、ひさびさに米にありつけるありがたいことです。
けれど、百俵の米というのは、藩士とその家族の数で頭割りしたら、ひとりあたり、わずか2合程度にしかなりません。
そこで当時、藩の大参事となっていた小林虎三郎は、その百俵を元手に、藩に学校を造ろうと提案しました。
「皆、腹は減っている。
しかし百俵の米をいま、ただ食べてしまったら、それだけのもので終わる。
こうした苦しい状況に藩が追いやられたのも、もとをたどせば、官軍と自藩の戦力の違いを見誤り、ただ感情に走ったことにある。
結果、多くの命が失われ、生き残った者も、このように苦しい生活を余儀なくされている。
それもこれも、教育がしっかりしていれば、時勢を見誤ることなく、危機を乗り越えることができたはずである。
そういうことのできる人材が育っていなかったために、藩がこのような窮乏に立たされているのなら、二度と同じことが起こらないよう、しっかりとした人材を育てるべきである。
そのためにこそ、この百俵の米は使うべきである」
けれど、誰もが腹を減らしているのです。
藩士だけなら我慢もしましょう。
妻子が目の前で腹を減らしているのに、どうして、目の前にあるせっかくの米を「要らぬ」ということができましょうか。
藩士たちの言い分と、小林虎三郎の意見は真っ向から対立しました。
膝詰め談判となったとき、小林虎三郎の目の前には、藩士の刀が突き立てられたそうです。
このとき虎三郎は、静かに「常在戦場」の額を示したそうです。
「長岡藩の家訓は「常在戦場」にある。
戦場にあれば、腹が減っても勝つためには、たとえ餓死してでも我慢をしなければならぬ。
貴公らは、その家訓を忘れたか。」
「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」
そして、米は売却され、その資金によって藩内に学校が建てられました。
この学校には、士族だけでなく、一般の庶民の入学も許可されました。
藩士たちが納得して虎三郎に協力してくれたから、これが実現したのです。
藩士たちも、その家族も偉いです。
そして明治政府によって学制が敷かれたとき、この学校は現在の長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校となって、現在に至っています。
本当に苦しいときに、道義や道徳観を失い非行に走るか、あるいは辛いからといって逃げ出すか。
知恵は、常に今を生き、未来を切り開くためにあります。
知恵の源は、教育です。
教育から徳義を取り上げ、ただの丸暗記や受験勉強のためだけのテクニックにすり替えたものは、本来の教育の名に値しません。
教育は米百俵の「人をつくるもの」だからです。
小林虎三郎は、
「こうした苦しい状況に藩が追いやられたのも、もとをたどせば、官軍と自藩の戦力の違いを見誤り、ただ感情に走ったことにある」と厳しく指摘しました。
要するに、冷静に時勢を見極めて、藩が二度と決して戦乱に巻き込まれることがないようにしていく。
そのためにこそ、米百俵は、使うべきであると、自らも、藩の武士たちも、みんなが飢えている中で主張し、これを鉄の意志で実現しました。
実は小林虎三郎は、藩の大参事に就任した頃に、妻に離婚してくれと申し入れています。
収入が減って厳しくなっている藩政に責任を持つというときに、妻に迷惑をかけたくなかったからのことです。
妻は離婚し、実家に帰りました。
けれど妻は、その後も小林虎三郎を気遣って、毎日のように虎三郎のもとを訪れて内助の功を尽くしていました。
そんな中で、虎三郎の米百俵を学校建設に、という話が持ち上がるわけです。
藩論は、猛反対です。
当然のことです。みんな飢えに苦しんでいたからです。
このとき、妻はなんとかして夫の主張を、藩の武士たちに納得してもらおうと、藩士の女性たちに集まってもらい、妻たちから夫を説得してくれるように、夫の虎三郎に内緒で行動を起こしています。
結果は、「とんでもない」と、追い返されるというものでした。
そしてその帰り道、虎三郎の妻は下手人不明で、路上で斬殺されています。
いま腹が減っている原因は何なのか。
それは、戦いに敗れたということが原因なのではありません。
先を読んだ外交によって、戦いを未然に回避して、皆が飢えることがないようにしていくことができなかったことが原因です。
このことは、よくよく考えてみれば、大東亜戦争と戦後の日本に、そのままあてはめることができます。
大東亜戦争で、日本人は実によく戦いました。
それは世界史上に燦然と輝く、まさに至高の皇軍の戦いであったというこもできようかと思います。
日本軍は、まさに天使の軍であったし、その天使の血が流れることで、世界中から植民地がなくなっています。
けれど、その大東亜戦争の戦いが、あそこまで苦しいものになったのは、日米が戦争になったためであることは、異論がないと思います。
そして、その開戦が、実は外交によって事前に十分避けることができたはずのものであったこと、また、戦いがあそこまで凄惨なものとなり、原爆まで投下されるという、とんでもない事態にまで至ってしまった背景には、真珠湾攻撃が「騙し討である」とされるに至った日本外交の失敗があることは確実です。(詳細は拙ブログ「外務省の間違い」参照
私は、二度と日本は、戦争を繰り返してはならないと思います。
みなさまも同じだと思います。
おそらくいまどきの日本人で、戦争をしたいと思っているような人など、皆無なのではないかとさえ思います。
日米開戦の頃の米国民も同じでした。
日米戦争では、米軍にも多くの死傷者を出していますが、日米開戦当時、日米開戦を望む米国民など、大統領府の一部を除いては、誰もいなかったのです。
それでも戦争は起りました。
なぜなら戦争は、相手があるから起きるものだからです。
そうであれば、戦争を回避し続けていくためには、何よりも外交力の強化、戦争を起こさない、戦争に巻き込まれないための国をあげた努力が必要です。
そしてそのためには、日本人自身に、単に戦争を望まないというだけではなく、戦争を回避できるだけの知識と情報発信力、外交力が何よりも必要です。
要するに、戦争を回避し、二度と日本が戦争に巻き込まれないための叡智が必要です。
「戦争はしません」という空手形や念仏だけでは、戦争を避ける事ができないことは、現に私達日本人が実際に経験してきていることです。
長岡藩と同じです。
避ける事ができた戦争を、避けようとせず、戦争をすることになり、結果、日本中が焼け野原となり、戦後70年経って、物質的経済的には復興を遂げたけれど、精神性という面では、日本は戦国時代さながらに、価値観も、気高い精神性も失われたままの状態にあります。
戦後の復興を果たしたのは、戦前戦中の高いレベルの教育を受けた社会のリーダーが、日本全国のあらゆるところで、真剣に働いてきてくれたことが原因です。
トヨタもソニーも松下も、その延長線上に存在し、成功した企業であるといえます。
けれど、そうした社会のリーダーたちが高齢化したいま、では、次代を担い、戦争を回避し、日本を再生し、日本文化を再生していく国想う世代が、日本社会の隅々にまでちゃんと育っているのかといえば、それは疑問です。
今の日本なら、ただ外国に蹂躙されるままになるか、時勢に流されて他国の戦争に易々として参戦するようになるか、ただただ戦争反対9条厳守とお題目を唱えるだけかくらいしか選択がありません。
自ら主体的に戦争を回避し、争いに終止符を打ち、他国の戦争に巻き込まれないための国作りをしていく、米百俵を実現しようとする動きが、どうして日本の世論にならないか。
いまの日本には、米をよこせと言うか、虎三郎の妻を闇討ちするか程度の人材しかいないというのでは困るのです。
だからこそ教育があります。
昔、サラリーマン時代、私がいた会社は本社があって、全国に175の支店・営業所がありました。
お恥ずかしい話ですが、本社の人の中には、自分たちがある種の特権階級のように勘違いしている人がいて、現場の人を「馬鹿ばかり」といって見下す者も、中にはいました。
一方、支店は、本社が馬鹿だからと、そういう本社をどこかで見放しているような節もありました。
そんな対立では、まったく何の解決もしないのです。
本社の最大の役割は、支店の人たちが最小の努力で最大の成果をあげることができるようにしていくこと。
それによって、会社が成長し、かつ社員全員が、豊かな暮らしができるようにしていくことにあるはずです。
対立ではなく、力を合わせて(繰り返しますが)最小の努力で最大の成果を得られるように努力し続ける。
国も同じだと思うのです。
いま、貧しいとされている国でも、お金持ちとされている国でも、世界中どこでも、誰もが豊かに暮らしたいと願っているわけです。
ところが国のカタチの違いによって、貧国は貧国のままだし、お金持ちの国はお金持ちです。
どこまで行っても貧乏な会社もあれば、どんどん成長する会社もある。
どこまで行っても貧乏な国もあれば、どんどん成長する国もある。
その違いはどこにあるかといえば、やはり「人」だと思うのです。
とりわけ資源のない日本においては、「人」が資源です。
そのために人材を育てる。
それが日本の教育であるはずです。
ところがその教育が、単に「お受験」のためだけのテクニックを磨くだけの教育になる。
道徳が失われ、徳育教育がまるでなされない。
護るべき日本への愛を育てない。
これでは学校は、教育をするところではなく、ただの託児所であり、人としての道徳心を失わせる洗脳の場でしかありません。
古来、人々から教育を奪うのは、ウシハク支配者が専制を敷きたいという陰謀からです。
なぜなら専制にとって、被支配層が高いレベルの学問を収めていたら迷惑だからです。
黙って言うことだけ聞いてくれるロボットにしてしまう。
あるいは歪んだ歴史を教えこんで、歪んだカルト人間を国家規模でつくる。
「いいじゃないか。しあわせならば」というけれど、早い話が、日本人が贅沢な暮らしをして寿命が伸びた分、日本は世界中から食料を輸入していますから、どこかの国が飢えているのです。
ほんとうの意味で、みんなが幸せになれる道を考え、実現していくためには、ほんとうの意味でのしっかりした教育を受けた、しっかりした人材に、育ってもらわなければならないのです。
米百俵の長岡藩の逸話は、日本の国政だけでなく、日本の企業や、日本の学校や家庭についても、大きな反省を求める逸話であろうと思います。
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