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杉坂峠0320

石黒小右衛門(いしぐろこえもん)は、江戸時代、大洪水で流出した地元の復興のためにと、幕府の命令より住民の意思を重んじて、自らの命を犠牲にして力を尽くした人です。
地元では、この物語が地域住民の間で脈々と語り継がれ、鹿田踊りの一節にも歌い継がれています。
石黒小右衛門は、元禄二年(1689)年、美濃国(現・岐阜県)に生まれた人です。
長じて京都町奉行所で与力を勤めました。
町奉行所には、奉行、与力、同心の職があります。
奉行がトップで、
与力は、禄高二百石、拝領屋敷が200~300坪です。
同心は、与力の配下で、30俵二人扶持で、拝領屋敷は100坪です。
必殺仕掛人シリーズに登場する中村主水(藤田まこと)は、同心です。
与力の石黒小右衛門のほうが、身分がひとつ上になります。
石黒小右衛門は、非常にまじめで有能な人でした。
京都所司代・土岐丹後守頼稔(ときたんごのかみよりとし)は、特に石黒小右衛門を可愛がり、彼を勘定吟味方に出世させました。
与力中の最重要職です。
これが延享元(1744)年のことです。


小名木善行 次世代の党を応援する大集会
憲政記念会館於 平成27年3月18日

寛政2(1749)年、60歳になった石黒小右衛門は、美作国(みまさかのくに)鹿田(現・岡山県真庭市落合町鹿田)の四代目代官に赴任しました。
代官に赴任して七年目の宝暦5(1755)年9月のことです。
大雨で、中国山地を源に瀬戸内海に流れる旭川が増水し、堤防が決壊しました。
各地に被害が出たのですが、とくに向津矢村(むかつやむら)は、37戸のうち2戸を残しただけで、その他の家は全壊、さらに収穫間近の田畑が全滅してしまいました。
村人だけでなく家畜も、多くの命が奪われてしまいました。
代官の石黒小右衛門は、各所の被災地を見回りました。
村を指揮して復旧に努めたのですが、壊滅的な打撃を被った向津矢村だけは、すでに自立不能で、もはや幕府の救いを求める以外に方法がない状況でした。
彼は、村人たちの救済のためにと、使いを江戸に送りました。
向津矢村の住民救済ための指示を請い願い出たのです。
ところが一日千秋の思いで待った幕府の返事は、向津矢村の復興あきらめて、村民全員は、遠く離れた日本原へ移住せよ、というものでした。
村民たちは、先祖が眠り、長い間耕し守り続けてきたこの土地を捨てるのはあんまりだと、口々に向津矢村の復興を石黒小右衛門に訴えました。
しかしこの時点で、近隣の村々から集まった救援物資も底をつきかけています。
わずかな余裕すらないのです。
「それでも」と迫る村民の並々ならぬ決意に、石黒小右衛門は向津矢村の復興の決断をしました。
彼は、向津矢村の結神社(むすびじんじゃ)に、村民を集め、
「代官所が全責任を負って向津矢村の復興を何としても成しとげる。
復興のめどが付くまで租税は半分免除する」といい渡しました。
さらに、
「働くことは一村一家を、もう一度立て直すための原動力である。
真に家業に精を出せば神は必ず守ってくださる」と訓示し、
 心だに誠の道に叶ひなば
 祈らずとても神や守らん
という歌を村民に渡しました。
「心に誠の道があり、それが理にかなったことならば、たとえ祈らなくても必ず神仏のご加護があるであろう」というものです。
石黒小右衛門の指示に、向津矢村の村人たちは感激しました。
村人たちの心も定まりました。
彼らはみんなで一致団結して、昼夜を問わず復旧作業に取り組んだのです。
村人たちの努力は実り、およそ一年後には荒れ果てていた農地もほぼ被災前の姿を取り戻しました。
しかし石黒小右衛門の行動は、幕府の許可なしに行ったものです。
彼は、事情を直接、幕府に報告し、改めて許可を受けようと江戸に向かいました。
ところが幕府の下した裁定は、
「命令違背、越権行為」でした。
失意の石黒小右衛門を乗せた駕籠(かご)が、杉坂峠に差し掛かったときです。
一台のかごが追い抜こうと近づいてきました。
当時、武家の乗った駕籠は、みだりに追い越してはならないとされていました。
「急ぎの駕籠(かご)かもしれぬ」
石黒小右衛門は、追いついてきた駕籠を停め、行き先と用件をたずました。
それは代官罷免の幕府の命を伝える早駕籠でした。
どんなに善い行いであっても、幕府の命令に背いたとあれば、それは処罪にあたります。
良くて更迭(こうてつ)、悪ければお家断絶、最悪なら打首です。
しかしたとえ更迭であったとしても、自分をとりたててくれた京都所司代土岐丹後守には迷惑をかけることになります。
推薦者の責任になるからです。
事態はそれだけにとどまりません。
もし後任の代官が、幕府の命令を重視するなら、せっかく復興を遂げた向津矢村の村人たちは、当初の幕府の指示に従って、村人たちの希望しない日本原への移住命令になるかもしれない。
そうなれば、せっかく自分を信じて村の復興のために必死に働いてくれた村人たちの努力を水泡に帰させてしまうことになります。
「かくなるうえは、自分の一死をもって全責任を負う他はない。」
石黒小右衛門は、揺れる駕籠の中で腹を斬りました。
人間、腹を斬っても、そう易々とは死にません。
だから普通は、介錯人がいて、途中で首を刎ねます。
けれど石黒小右衛門は、揺れる駕籠の中で、ひとり切腹を遂げたのです。
石黒小右衛門の亡きがらは、遺言どおり鹿田村の太平寺に手厚く葬られました。
知らせを聞いた向津矢村の村民たちは、石黒小右衛門の厚い恩に報いるべく結神社の境内に末社(神社に付属する小さい神社)を建て、そこを石黒神社としました。
それから三百年。
村人たちが参拝を欠かさなかった結神社は、明治42(1909)年に垂水神社統合されたけれど、いまでも鹿田踊りの一節にも歌われ、人々は石黒小右衛門の遺徳を讃えています。
このお話のなかで、ひとつ見落としがちな大切なポイントを書いておきたいと思います。
それは、「石黒小右衛門への咎(とが)が、石黒小右衛門を取り立てた土岐丹後守にも類が及ぶ」という点です。
昔の日本社会は、犯罪や非道な行いがないように、あらゆる方向からあらかじめ「歯止めをかける」ということが行われていました。
犯罪や非道な行為は、
「起きてから犯人を探し出して処罰する」のでは、すでに遅く、
「そもそも犯罪が起きないように予防する」ということが徹底的に重視された社会を築いてきたのです。
ですから、たとえば会社で部下が不始末をすれば、その責任は当然、その上司の責任となるだけでなく、その社員をそのポストに推薦した者も、処罰の対象となりました。
人を推薦するということには、それなりの覚悟が必要だったし、また推薦された者も、世話になった恩人に迷惑をかけないよう、一生懸命に誠実に業務をこなすことが大事とされたのです。
身内に不始末を行う者が出れば、親族一同に、その咎が及び、下手をすればお家断絶、お取り潰し、知行地没収で、親族一同が露頭に迷うことになりかねません。
商店であれば、店の手代(てだい)が、外で暴行障害強姦殺人のような悪事を働く者が出れば、その責任は「監督不行届」として、それはお店の責任になったし、店主は、当然にその責任を負いました。
これは、人間関係の面においては、わずらわしさを伴うことです。
個人主義に慣れ親しんだ現代人からしますと、面倒くさい人間関係に縛り付けられることになり、自由を失うと感じられてしまうかもしれません。
あるいは未成年者でもないのに、いつまでも親に責任を取らせるというのは異常と思われるかもしれないし、まして会社や上司、あるいはその会社に入社するにあたって紹介をしてくれた紹介者のメンツまでまる潰しにするというのは、納得出来ないことであるかもしれません。
けれど、川崎の中1児童殺害事件を考えてみてください。
あのような事件を未然に防ごうとすれば、平素からの相互監視システムが社会の中に定着している必要があるとはいえないでしょうか。
子が犯罪を犯せば、親の責任になる。雇い主の責任になる。親や雇い主、紹介者までが処罰の対象となる。
事件を起こした本人だけでなく、その咎が、その犯人の周囲にまで及ぶ。
八代将軍・吉宗の治世である江戸の享保年間は20年続きましたけれど、その20年間に江戸の小伝馬町の牢屋に収監された囚人の数は、ゼロ人です。
それはお役人がさぼっていたからではありません。
人々の民度が高かったからという人もいますが、何時の時代にも悪い奴はいます。あたりまえのことです。
その悪いやつに、いかに悪さを「させないようにするか」が大事なのです。
そのためにこそ、役所はあります。
なぜなら、役所や奉行所、ひいては幕府も大名も武士も、その全ては天皇の民である民衆の安全で安心な暮らしを守るためにこそ存在するものだからです。
だからこそ、昔の日本では、役人たちは犯罪を予防するために、あらゆる算段を試みたのだし、それによって成る程、狭い世間のしがらみに人々は縛られたけれど、その分、安心で安全な世の中を実現し、そこで安心して生活することができたわけです。
石黒小右衛門の行動は、民の安全や安心、あるいは民の気持ちを汲み取った素晴らしい行為です。
けれどその行動が、単なる代官の暴走で片付けられないためには、たとえ後付であったとしても、幕府による追認が必要なものでした。
けれど、それが許されないとなったとき、彼の行動は、彼のみでなく、彼を世に送り出してくれた親兄弟、妻子、親戚一同、そして彼の世話になった上司にさえも、結果として迷惑をかけるものとなります。
だからこそ彼は、一死をもってその迷惑を詫び、またその咎が、世話になったすべての人、そしてまた村人たちに及ばないようにしたものでした。
今の時代なら、これを馬鹿な行為だと嗤う人もいるかもしれません。
なるほど個人主義の世ならば、絶対に起こりえない事件だったであろうと思います。
けれど、石黒小右衛門の勇気と行動は、事件後400年経っても色褪せることなく、私たちの心に、たいせつな何かを伝えてくれています。
私は、そういう日本を大切にしたいし、取り戻したいと思っています。
(参考)真庭市落合地域デジタルミュージアム

http://www.city.maniwa.lg.jp/html/ochiai/museum/minzoku_den_01.htm

※この記事は2010年4月の記事をリニューアルして再掲したものです。



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