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硫黄島(向こうに見えるのが擂鉢山)
硫黄島の摺鉢山

3月17日は、硫黄島の戦いで栗林忠道兵団長が、決別電報を打電した日です。
硫黄島の戦い(昭和20(1945)年2月16日~同年3月26日)は、大東亜戦争末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間に生じた戦闘で、日本は、2万933名の守備兵力のうち、2万129名までが戦死した壮絶な戦いでした。
そしてこの戦いは、大東亜戦争後期の島嶼(とうしょ)での戦いで、米軍地上部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)数が、日本軍を上回った壮絶な戦いでもあります。
第二次世界大戦中にアメリカ海兵隊に与えられた名誉勲章の、実に4分の1以上が、硫黄島侵攻部隊のために与えられてもいます。
そして米海軍は、いくつかの艦船に「イオー・ジマ」と命名しています。
大戦後に制定された米海兵隊記念日は、硫黄島の戦いにおいて、同島の擂鉢山に星条旗を立てた日です。
そして戦没者を弔う米国立アーリントン墓地の米海兵隊戦争記念碑は、硫黄島の戦いで掲げられた星条旗をかたどったものとなっています。


硫黄島の星条旗と日章旗
当時、全米で新聞紙上を飾った硫黄島の戦いを象徴する一枚の写真

この戦いについては、クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」という映画にも描かれましたし、戦いの詳細についてはWikipediaの“硫黄島の戦い”でも、詳しく知ることができます。
■硫黄島の戦い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
今日書くのは、この写真にまつわるお話です。
写真をみると、太いパイプのようなものに、星条旗が結び付けられています。
硫黄島は、その字のごとく、島全体に硫黄が噴き出す島です。
地下壕内の温度は、摂氏50度に達します。
地下壕内に水はありません。
壕内にこもる日本の将兵の水は、外からパイプで、壕内に引きこんでいました。
ですからこのパイプは、この写真が撮られたとき、まだ壕内にいる日本の将兵たちの命を支えるためのパイプだったのです。
写真の星条旗は、最初に掲げられたものではありません。
いったん掲揚されたあと、あらためて写真撮影のためにと、大型の星条旗を掲げたときのものです。
AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールが写したこの写真は、同年のピューリッツァー賞(写真部門)を受賞し、実は創立以来常にその存在意義が問われ続けていた米海兵隊は、この写真によって水陸両用作戦のプロとしての存在を広く世界へ向けて示したとされています。
この光景を目撃したフォレスタル海軍長官は「これで海兵隊も500年は安泰だな」と語ったというのも、米国では有名な話です。
この戦いの頃、米国政府は歳費を使い果たし、ほとんど破産に瀕していました。
戦争を維持するだけのお金が不足していたのです。
そこで米国政府は、戦争を継続するための資金を、民間から寄付によって調達しようとしていました。
この写真に写っている米兵は、そのためにこの戦いのあと米本国に呼び戻され、写真とともに全米各地を周り、米国政府の戦費調達の寄付金集めに使われています。
そして、その寄付金集めのことを描いたのが、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島の星条旗」という映画でした。
ところがこの旗について、映画に出てこなかった実話があります。
実は、米軍が擂鉢山に星条旗を掲げた翌日、摺鉢山守備隊の日本兵がこれを奪還して、日章旗を掲げていたのです。
米軍は、この日章旗を引きずり下ろし、火炎放射器で焼きました。
そして再び星条旗を掲げました。
ところがこの二度目の星条旗も、日本側の守備隊は奪い取り、今度は、やや赤茶けた色の日の丸を掲げました。
そうです。日輪のところを血で染めて作った急造の日の丸です。
この旗も、三度、星条旗に変わりました。
そして戦争が終わり、硫黄島は米国施政権のもとにおかれました。
米国は硫黄島を空軍基地として核兵器保管などに用いました。
そして硫黄島に再び日の丸が掲げられたのは、戦いの23年後、昭和43(1968)年の硫黄島返還の日でした。
硫黄島の戦いのときのこの日章旗の模様を、当時17歳の通信兵だった秋草鶴次さんが『17歳の硫黄島』という本に記しています。
概略次のように綴られています。
米軍は、上陸5日目に、硫黄島南端の摺鉢山に星条旗を掲揚した。
秋草通信兵はそのとき、島の周囲に展開する米側の艦船群から汽笛が鳴らされ、上陸していた多数の米将兵から一斉に歓声が上がり、口笛が吹かれるのを聞きました。
歓声はたいそう賑やかなものでした。
ところが翌日、秋草通信兵は、摺鉢山の頂上に今度は日章旗がへんぽんと翻っているのを見たのです。
「守備隊は頑張ってるな」と、思わず感涙にむせんだと記しています。
このとき日本兵が立てこもる地下壕の中は、凄惨を極めていました。
水も食料もありません。
蚤や虱は、追っ払うのでなく、捕まえ、つぶして食べていました。
傷口が化膿してウジ虫がわいてきますが、それも口に入れました。
噛んで汁を吸いました。
ウジ虫の皮は、意外と硬くて噛み砕けなかったからです。
また、実家で豚の餌に、炭を混ぜていたことを思い出し、炭も口にしていました。
壕の中は、息苦しく、ありとあらゆる不快な臭いに充ちていました。
天然の硫黄臭、排泄物や死臭はもとより、流れ出た血の腐臭などです。
耐え難いものであったことでしょう。
死体からは燐が流出します。
燐は、浮遊しながら、あちこちで燃えて火の玉となりました。「ひとだま」です。
大怪我をしていた秋草通信兵は、まどろみ、もうろうとなり、三途の川らしき光景に身を置くところまで見ました。
敗色濃厚となった頃、米軍から投降の呼びかけがあったそうです。
既に捕虜となっていた日本兵が「戦争は終わった。米軍は安全を保証する。心配ない。みんな安心して出てきてくれ。」と放送しました。
けれど応じた日本兵は誰もいなかったと書き残しています。
なぜでしょうか。
どうしてそんなに苦しくて辛い戦いだったのに、誰も投降しようとしなかったのでしょうか。
硫黄島の戦いのあった前年(昭和19(1944)年)夏、米軍はサイパン島を攻略し、11月からB-29で日本本土への長距離爆撃を開始しました。
硫黄島は、サイパンと日本本土のちょうど中間地点にあります。
ですから日本にとって硫黄島は、日本本土へ向かうB-29を見張り、無線で報告する早期警戒システムの索敵拠点でもあったのです。
硫黄島を拠点として、日本軍は戦闘機をB-29の迎撃に向かわせることもできたのです。
実際、日本軍の爆撃機飛龍や銀河・一式陸攻が硫黄島を経由してマリアナ諸島にあるB-29の基地を急襲し、地上のB-29に損害を与えています。
12月には、硫黄島を飛び立った零戦隊「第一御楯特別攻撃隊」は、サイパンのイスレイフィールド・アスリート両飛行場を機銃掃射し、11機のB-29破壊し、8機に大きな損害を与えています。
これが米軍にとって脅威となることは、容易におわかりいただけることと思います。
日本軍の硫黄島守備隊の存在によって、米軍は、グアム、サイパンからの出撃に際して、B-29に護衛の戦闘機部隊を随伴させることができません。
なぜなら距離の関係上、小柄な戦闘機はガソリンが持たないのです。
また日本上空で損傷を受けたり故障したB-29が、小笠原諸島で不時着することも多かったのです。
ちなみに、不時着して拿捕されたB-29から日本軍は航空燃料やオイルを抜き取り、これをゼロ戦や紫電改に用いました。
当時の日本軍は、オクタン価の低い粗悪なガソリンで飛行機を飛ばしていたのですが、米軍のガソリンやオイルを使って戦闘機を飛ばすと、機体の性能が「眼の球が飛び出るくらい」向上したそうです。
さて、日本からしてみれば本土防衛の拠点、米軍からみれば日本への攻撃のための拠点である硫黄島を、米軍は占領することを決定します。
占領の目的は、次の通りです。
1 日本軍航空機の攻撃基地の撃滅
2 日本軍の早期警報システムの破壊
3 硫黄島を避けることによる爆撃機の航法上のロスの解消
4 損傷爆撃機の中間着陸場の確保
5 長距離護衛戦闘機の基地の確保
このことは、日本からすると、硫黄島を死守することは、上記の目的の裏返しです。
すなわち、
1 米航空隊を本土に来襲する前に撃滅する
2 米軍の空襲を早期に発見する
3 米軍の爆撃機に戦闘機の保護をつけさせず、まる裸にする。
前にも書きましたが、爆撃機というのは、大型であって荷物(爆弾)をいっぱ積んでいます。
当然機体は重いし、派手な宙返りなどできません。
ですから戦闘機にとって、重たい爆撃機は、容易に撃墜できる「ネタ」です。
だから大型の爆撃機は、機体の四方八方に機銃を並べて防御力を強化しているのですが、それは、そうしなければならない事情があったからです。
昭和20年になると、日本は、すでに制空権、制海権を奪われていました。
その中で、硫黄島への補給は困難を極めたし、何もない島しょにおいて、補給困難というのは、島が長く持ちこたえられないということでもあります。
つまり、硫黄島守備隊は、はじめから玉砕を覚悟して守備を行う部隊だったのです。
島に駐屯している2万人全員が死を覚悟しての駐屯なのです。
死ぬとわかっていて戦うことを不思議に思う人もいるかもしれません。
けれども答えは、すぐ近くにあります。
硫黄島を米軍に奪われれば、米軍は硫黄島に航空基地を作ります。
そうするとB-29が、戦闘機の護衛を受けながら、なにはばかることなく日本本土上空に飛来し、爆弾の雨を降らせます。
そうすると、爆撃を受けた町で、大勢の日本人が死ぬのです。
戦士であれば、自分が戦って死ぬのはある意味、本望です。
しかし、銃後を守る婦女子や非戦闘員、爺ちゃんや婆ちゃんや、オヤジやお袋、愛する子供たちが、みすみす犠牲になるとわかっていたら。手の届かない上空から、無差別に爆弾を落とされて、真っ赤に焼けて死んで行くのだとしたら。そんなのを指をくわえて見ているなんて、人間のすることじゃありません。
だから戦う。
米軍に、硫黄島を絶対に渡さない。
島にこもる全員が玉砕することになったとしても、その戦いを長引かせることで、ひとりでも多くの同胞が疎開し、助かるようにすることができるのなら、命を捨ててでも戦う。
それが、硫黄島守備隊のひとりひとりの覚悟であり任務であったのです。
だから硫黄島守備隊は、上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をしていたのです。
いちにちでも多く硫黄島を守り抜けば、それだけ日本本土にいる多くの人々が、疎開できるのです。
いちにち多くの日を稼げば、いちにち多くの日本人が、ひつつでも多くの防空壕を作ることができる。すこしでも深く防空壕を掘ることができる。
そうすれば、本土にいる同胞の命が、ひとりでも多く救われるのです。
そのための石杖となろう。
そのために死のう。
その決意と覚悟で、2万人の硫黄島守備隊は決死の戦いに臨んだのです。
もうひとつ申し上げると、いまも多くの日本人がそうであるように、昔の人はとりわけ「先を読む」ことを大切にしました。
こうすればこうなる。ああすればあのようになる。
そのように先を読んで、もっとも良い行動をとることを良しとしていました。
日本古来の明察功過の文化です。
察して、先を読んで、命をかけて戦う。
ペリリューの戦いでは、日本軍は地下陣地を活用して長期の抵抗に成功しています。
栗林中将率いる硫黄島守備隊は、この戦術をさらに発展させ、地下陣地による持久抵抗によって、いちにでも長く敵を硫黄島に踏みとどまらせ、上陸部隊をすり減らすという作戦を選択します。
客観的な数字を申し上げたいと思います。
硫黄島を奪われたあとのことです。
米軍は、日本本土にB-29で空爆を行いました。
東京だけでも、死者8万3793名、負傷者4万0918名の被害が出ています。
ただ、このときの被災者は、1,008,005名です。
被災家屋は268,358戸にのぼるものですが、死傷者はあわせて12万4711名です。
都心部の空爆である割には、被害者数が少ないことがおわかりいただけるでしょうか。
米軍は、1平方メートルあたり(わずか1メートル四方です)に、3発の焼夷弾を、東京という木造家屋が密集した町に落とし、東京中を焼いたのです。
にもかかわらず、死傷者の数が被災者数に対して意外とすくないのは、硫黄島守備隊が、およそ1か月半にわたる長く苦しい戦いを戦い抜いてくれたおかげなのです。
硫黄島守備隊が米軍を釘づけにしている間に、多くの人々が疎開したり、防空壕の強化をすることができたのです。
冷静に考えていただきたのです。
もし、疎開がまだ十分に進まない、防空壕など、空襲対策も十分でない状態で、本土空襲が行われたら。どれだけ多くの民間人が亡くなったか。
おそらく東京だけでも100万人以上の死者が出ています。
つまり、いま生きている私たち日本人、とりわけ戦前から東京に住む人々は、このとき命を犠牲にしてまで苦しい戦いを戦ってくださった硫黄島守備隊のおかげで、いまの命があるのです。
そういうことを、私たちは感謝しなければならないと思います。
それは、人として当然のことです。
秋草さんは、
「死んで行った戦友に、この六十年戦争が無かったんだから、その死は無意味ではない。そう言ってやりたい」
と結んでいます。
おそらく、この稿を読まれている方でも、戦争に賛成だとか、戦争を賛美するような人は、誰もいないと思います。
誰だって自分の体にわいたウジ虫など、食べたくないです。
しかし、そうまでして我々の祖先が守り抜いてくれたこの日本という国を受け継いだ私たちは、今度は私たちの子や孫、そして子孫のために、やはり住みよい素晴らしい国日本を残せるように、努力しなくちゃいけない。
そう、思うのです。
他国と仲良くすることは、大いに結構です。
外国人がたくさん日本列島にやってくることも、結構なことです。
しかし、日本を攻撃し、日本の文化を破壊し、日本の奴隷化を目論むような、とんでもない連中まで、ニコニコ笑顔で呼びこむ必要など、全くありません。
世界には、いまだに日本と戦争をしている気になっているおかしな国があります。
そしてそれらの国々は、日本だけでなく、平和を愛する周辺国、さらには自国民に対してまで、人命軽視の非道を公然とやってのけているのです。
実際、ウイグルやチベット、天安門で何が行われたか。
反日教育を受けた半島人が、現にいま日本で何をやっているか。
在日韓国人の魯漢圭は、在日韓国人のための民団の新聞にこう書いています。
「もはや裏社会は我々(在日韓国人)が制圧した。その暴力と経済力を背景に日本の政官財界を侵略する。60万在日の経済力は日本経済の2割に相当し、それは実に韓国の経済力の2倍という凄まじい物だ。
経済力に加え、地方参政権によって政治力も手に入れ、やがては軍事力も手にした日には完全に日本から独立した、世界で最も豊かな国家を手に入れることが出来る。
もはや完全に在日の奴隷状態の日本人には、在日国家の軍門に下って貰うことになる。
こうして、在日Koreanはアジアの頂点に立つことが可能となり、半島と日本を実質支配する」
わたしたちの国には、私たちを守るために、自分のからだにわいたウジ虫まで食べて戦い、玉砕し、散っていった人達がいたのです。
その英霊たちのおかげで、いま、私たちは生きています。
擂鉢山の頂上に、ぺんぽんとひるがえった日章旗。
米軍が建てた星条旗は、地下壕に立て篭もる日本の兵隊さんたちの貴重な水確保のためのパイプでした。
そのパイプを取り返し、星条旗を外して雨水導入管として利用すれば、彼らは今宵の一杯の水を確保できたのかもしれません。
しかし彼らは、気温50度に達する地下壕にいて、自分たちの水より、擂鉢山のてっぺんに高々と日の丸を掲揚することを選び、実際、それを実行してくれていました。
誰がそれをしたのか。いまはもうわかりません。
みんな死んでしまったのです。
赤黒い血で描いた日の丸は、誰の血だったのかもわかりません。
けれども、この日、米軍の掲げた星条旗を引きずりおろして、硫黄島に日章旗を高々と掲揚してくれた日本人がいたこと。
その事実を、私たちは決して忘れてはならないと私は思います。
※この記事は2009年6月の記事をリニューアルして再掲したものです。


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Battle of Iwo Jima 硫黄島の戦い

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