
『小桜姫物語(こざくらひめものがたり)』というものがあります。
昭和12年のものです。
一種の霊媒能力をもった女性に、小桜姫という城主の息子の嫁さんが降りてきて、霊界の様子を生々しく語り、これを浅野和三郎が「書き取った」というのが、そのあらましです。
内容は、様々なエピソードが書かれており、そのひとつひとつが本当であるのかどうか、そういうことは私にはわかりません。
けれど、その中に、とても重要なことなのでは、と思わせられたものがありました。
小桜姫は、霊界で修行中に様々な人に出会うのですが、ある日、たいそう美しい立派な娘さんに出会うのです。
その娘さんは、実は6歳のときに亡くなって霊界に来て修行を積んでいる方でした。
そして小桜姫は、ある日その娘さんの母親に、霊界で会うのです。
小桜姫は母に
「あなた様は御生前にたいそう厚い仏教の信者だったそうでございますね」と問いかけました。
母は、次のように答えます。
「私は別に厚い仏教の信者というのでもなかったのですが、可愛い小供を失った悲しみのあまり、阿弥陀様におすがりして、あの娘がはやく極楽浄土に行ゆけるようにと、一心不乱にお経をあげました。
あの頃の私たち夫婦は、まるきり迷いの闇に閉ざされ、お経を唱えていさえすれば娘が救われると思い込んでいたのでした。
こちらの世界の事情がすこしわかってみると、それがいかにあさはかで勝手な考えであるかがよく判わかりました。」
母親は、愛娘が亡くなった悲しみと、娘の冥福を祈りたい気持ちから、一心に御仏にすがりついたのです。
もう毎日毎日、念仏を唱え続ける。
他のことは一切しない。
朝から晩まで、念仏を唱え続けたのです。
これはいまでいったら、おかしな宗教活動にはまり、朝から晩までお題目を唱え続けたり、宗教活動にばかり専念して、社会性を失ってしまう人、あるいはそういう宗教団体に共通する信者たちの姿に似ています。
母が、亡くなった子のために、一心に祈る気持ちはよくわかるのです。
けれど、武家の妻であるこの母には、妻としてやらなけばならない日常のことが、多々あるのです。
そういう日常のことをまったくやらないで、この母は、ただひたすらに仏にすがります。
周囲の人は心配してくれて、この母に何かと声をかけてくれました。
けれど、子を思う母の気持ちは、ただひたすらに御仏にすがるばかりで、人の言葉など、まるで耳に入りません。
仏様を信じて自分がひたすらに念仏を唱えさえすれば、娘が生きて帰ってくることはないにせよ、娘のあの世での冥福がきっと守られる。そう信じていたのです。
結局、その母も、衰弱して死んでしまいます。
そしてあの世(霊界)に行く。
霊界では、ひとりにひと柱の神様が付いて、心の修行をさせてくれるわけです。
母は、同じ霊界にいる娘に会いたいと神様に申しました。
けれど、神様は「あなたの修行次第じゃ」と答えて、なかなか会わせてくれません。
母は、霊界で娘に会いたい一心で、霊界での修行に取り組みました。
修行は何年も何年もかかりました。
そして母は、ようやく気づくのです。
自分は、娘のことを思うあまり、我儘(わがまま)になってしまっていたと。
仏様にお縋りすること自体が良いとか悪いとかではなかったのです。
祈って縋っていさえすれば「自分の」願いが叶うと思っていた。
そのために、他のことを何もしないで、周囲の人達に迷惑をかけていたことにさえ、まるで気づこうとしなかった。
ただ自分の満足のいく答え(娘の冥福)だけを祈り続けていた。
そんな自分の勝手我儘(かってわがまま)で、周囲の人たちをどれほどまでに困らせていたのか。自分勝手だったのか。
そのことに気づくわけです。
母の思いは、純粋な娘への愛です。
けれど、それが度を越した信心になり、他のことを何もしない。周囲に心配をかける。そうなってしまえば、それは愛ではなく、我欲になってしまう。
生前の母には、それがわからなかったのです。
自分さえ良ければ、自分さえ納得できればということですから、これは我儘(わがまま)です。
そして、誰もが我欲に走れば、世の中は混乱し、人は争い、上下関係や支配と隷属の世となり、結果として、それはウシハク国を招く因となります。
誰しも幸せになりたいと思うし、誰にも欲望はあります。
欲望があるから生きていけるのです。
時間になったら腹がへるのが人間です。
だからといって、自分だけが腹をふくらませることができれば、周囲の人はどうなったって構わないというのでは、それは我儘であり我欲になります。
いわゆる新興宗教と呼ばれるものの中には、そうした我欲を、むしろ煽(あお)り、信仰すれば願いが叶うと言い、願いを叶えたい、我欲を通したいと思う人間の心の弱さに付け込んで、教団勢力を伸ばして、いわゆる大手宗教団体と呼ばれるようになった団体もあります。
けれど、よく考えてみれば、すべての人の、すべての我儘な願いが全部叶うなんてことは、ありえないことです。
今日はどうしても晴れてほしいと願う人もあれば、今日こそ雨が降ってくれなければ困るという人もいるからです。
物語に出てくる母は、領主の妻なのですけれど、領主はみんなのために、おおみたからを預かる存在です。
その妻が、自分や亡くなった自分の娘のことしか考えず、念仏をあげる以外、一切他のことに気を配らなくなってしまっては、困るのは領主である夫であり、領民です。
とりわけ夫は、領民にたいして示しがつかない。
信仰を持つことは素晴らしいことですが、さりとて信仰に縋って現実を見失えば、それは人として失格です。
そしてそういう失格者が政治を担えば、最終的にはウシハク統治に陥ってしまう。
信仰する心、信仰のための行動は、とっても貴重なものであると思います。
願いを叶えたいと思う心も、そのためにこそ様々な努力が生まれることを考えれば、それはとても良いことだと思います。
けれど、それも度を越してしまえば、我欲になる。
そして我欲は、周囲に迷惑をかけ、和を乱し、結いを崩壊させ、絆を断ち切ってしまう。

人は蓮(ハス)の花だと言った人がいました。
蓮は、水面に美しい花を咲かせます。
けれど、根っこは水中のドロドロした泥の中にあります。その根っこがレンコンです。
そして、水面の美しい花と、地中のレンコンは、一本の細い茎でつながっています。
昔の人は、人間をそんな蓮の姿に例えたそうです。
レンコンは、肉体です。その肉体は世間という泥の中にあります。
けれど、精神は蓮の花です。水面にあって美しい花を咲かせることができます。
その肉体と精神は、一本の細い糸(茎)でつながっています。
精神は、どんどん浄化させていくことができます。
けれどそのためには、泥の中にあって、その泥から栄養分をどんどん吸収しなければなりません。
泥の中だけで一生を終えるか、心の花を咲かせるか。
それは、その人自身の選択です。
根がなければ、花は咲きません。
けれど根が、泥の中で我欲に走れば、根腐れを起こします。
そうなれば花は咲きません。
生きるって、とってもむつかしいことですけれど、でも生きているから花を咲かせることができます。
『小桜姫物語』を書いた浅野和三郎は、大正から昭和初期にかけて活躍した心霊運動家です。
茨城県の代々続く医者の家系に生まれ、東京帝国大学を卒業後、海軍の機関学校の英語教師をし、後に心霊研究に勤(いそ)しみました。
と、こういう説明より、映画や小説で有名になった恐怖映画(小説)の「リング」の主人公の貞子を発見し、彼女の持つ超能力を研究した学者の先生、と言ったほうがわかりやすいかもしれません。
「リング」は小説ですが、現実ににおいても浅野和三郎は、各方面からインチキ呼ばわりされ、世間から非難中傷を浴びました。
たいへん辛い人生を送った人でもあったわけです。
いまも、浅野和三郎という名を出しますと、ある程度詳しい方は「ああ、あのインチキ学者ね」とおっしゃいます。
私には霊能力もないし、心霊現象も見たことがないので、超能力のようなものや霊力なるものが実際にこの世に存在するのかどうかは、正直なところよくわかりません。
ただ世間の評判がどうであれ、その人が書いたものに「学ぶべきもの」があれば、それは素直に受け入れるし、わからないことは「わからないまま」頭の中にとどめておいて、いつかわかる日が来る時まで、頭のなかに大事にとっておくことにしています。
とっておいて損になるわけじゃなし、その人がたとえどんな変人であろうと、そこから学べるものがあるなら、謙虚に学んで吸収する。
学ぶということは、頭ごなしに否定することではなくて、自分が成長していく糧(かて)を得ることだからです。
そういう意味では、99素晴らしい論説を述べていても、1のおかしな部分があったら、その人の全てを全人格的に否定してしまう人というのは、もったいない人生を歩いているように思います。

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