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尼港 1900年
尼港 1900年

今日は、尼港事件(にこうじけん)の際に、現場にいた日本人たちが軍人を中心に決起した日です。
尼港事件というのは、大正9(1920)年3月から5月にかけて、黒竜江(アムール川)の河口にあるニコラエフスクで、約4300人の共産主義パルチザンが引き起こした大規模な住民虐殺事件です。
殺された住民は、当時のニコラエフスクの人口の約半分にあたる6,000名で、日本人はほぼ皆殺し、街の建物もことごとく破壊されました。
犯人の共産主義パルチザンは、Russian約3000人、Korean1000人、Chinese300人の内訳でした。
もともとニコライエフスクは、ロシアやソ連ではなく、China女真族(満州族)の土地だったところです。
ここには、大正9(1920)年当時、日本人700名を含む1万7千人あまりが住んでいました。
内訳は次の通りです。
日本居留民 約   700名
白系ロシア人約1万5000名
中国人   約  1000名
朝鮮人   約   500名
日本人700名というのは、日本陸軍の2個歩兵中隊が約260名であり、その他440名は軍属と婦女子です。


ここに日本陸軍が駐屯していことには理由があります。
大正6(1917)年、帝政ロシアでは、レーニンに指揮された「ロシア革命」が起こりましたが、これによってロシア国内は混沌とした状態になっていたのです。
ロシア革命というと、ただちにソヴィエと連邦共和国が成立して、いきなりロシア全体が夢と希望に満ちた地上の楽園の共産主義国家になったかのように、いまどきの教科書などは記述していますが、事実に反します。
なるほどレーニンは、ロシア皇帝を引きずり降ろし、政権を奪いましたが、ロシア革命が行われた当時は、世界中どこの国の政府も、レーニンのこの新ソ連政府を国家として承認などしていなかったのです。
むしろテロによる過激派勢力として警戒していました。事実そのとおりだからです。
そしてロシア革命によって、ロシア国内は各地がいわゆる「無政府状態」となりました。
とりわけ多数の囚人が送られていたシベリアは、とんでもない状況になっていたのです。
シベリア送りになっていた凶悪犯罪者らが突然牢から出され、世間に放たれたのです。
彼らは、共産党から武器をもらい、共産パルチザンとなって、残虐な悪行の限りを尽くすようになっていました。
釈放され、武器を手にした彼らは、民家を襲い、食べ物や財物を奪いました。
キチガイに刃物とはよく言ったもので、もともと粗暴で凶悪な犯罪者だった彼らは、集団で徒党を組み、武器を手にし、組織化されたゲリラ集団となって、シベリア各地を荒し回ったのです。
そして彼らは、タテマエとして外国勢力追放を叫び、各地で同国人だけでなく、外国人に対して襲撃事件を起こしていました。
当初は、それでもまだシベリア方面には保守派のロシア極東総督のロザノフ中将や、コルチャック提督などがいて、彼ら正規軍がこうした共産パルチザン化した凶悪犯たちや、革命派勢力などと戦ってくれていました。
こうした正規軍の支援のため、日英米の三国がシベリアに共同出兵したのが大正7(1918)年8月のことです。
ところが翌年になると、シベリア・オムスクにあったロシアの穏健派総督府が、武装共産パルチザンの攻撃を受けて崩壊してしまいます。
ロシアの総督府あればこその、シベリア出兵です。身の危険を感じた米英両国はシベリアから撤兵してしまう。
ところが日本にとっては、これは深刻な事態です。
日本にしたら、友好で穏健な総督府があればこそ、極東の平和と日本居留民の安全が図られ、ひいては日本の安全を守れていたのです。
パルチザンが勢力を増し、海をわたって樺太、北海道にやってくれば、その被害は想像を絶するものになります。満州にも、多数の日本人が入植しているのです。
やむなく日本は、シベリアに兵を留めました。
けれど、英米は撤退してしまったのです。
極度の戦力不足に陥った日本は、やむなく第12師団(約1万5000名)を、シベリア各地に派遣しました。
けれどシベリアは広大です。
1万5000名は、諸所に分散し、その結果、ニコラエフスクには、2個中隊260名が駐屯していた、というのが、当時の情況だったわけです。
事件が始まったのは、大正9(1920)年1月29日のことです。
それまで雪深いこのニコライエフス(日本名「尼港」、以降尼港と書きます)は、共産パルチザンも鳴りをひそめ、比較的静かな状態だったのですが、この日、突然ロシアのトリビーチンを首領とする約4000人の共産パルチザンが、尼港市街を包囲したのです。
守備していたのは、石川少佐率いる2個中隊(約260名)と、無線電信隊の40名、それと保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ばれていたロシア兵)の合計約350名たらずです。
守備部隊の10倍以上もの暴徒が、街を取り囲んだのです。
共産パルチザンたちは、街を包囲した後、自分たちには敵意はない、食料の補給に協力をしてほしいだけだ、と称しました。
それを真に受けたニコラエフスク市は、パルチザンを市内に入れました。
すると市内に入るやいなや、パルチザンたちは、ロシア白衛軍の将兵を捕らえて、これを全員虐殺してしまったのです。
さらに彼らは、一般市民(ロシア人、ユダヤ人)を虐殺し、家内の家財、財宝を奪い、婦女子にいたるまで、その全員を虐殺してしまったのです。
この日、共産パルチザンたちは、次々と白衛兵と白系市民を銃剣で突き刺し、黒龍江の結氷を破ってつくった穴から、凍る流れに人々を放り込みました。
たった一晩で、尼港では、ロシア人とユダヤ人約2500人が、こうして惨殺されてしまったのです。
翌朝、事実を知った石田副領事が、この暴虐行為に対して「厳重抗議」を行ないました。
けれど、共産パルチザンは、国家ではありません。暴徒です。聞く耳など持ちません。
当たり前のことです。抗議を受け入れるくらいなら最初から虐殺などしていない。
そしてパルチザンたちは、逆に日本側に武装解除を要求してきたのです。
日本兵が武装解除したら、そのあと何をされるかは火を見るよりも明らかです。
現地の日本軍部隊は、日本に急を知らせる電文を打ちました。
日本からの救援隊は、小樽から発進するのだけれど、真冬の寒い時期です。海面が凍結していてすぐには動きようがありません。
満州方面にいる他の部隊も、移動は徒歩です。
いちばん近い部隊でさえ、到着するのに40日かかる。
ニコラエフスクから日本人、ならびに日本軍駐屯隊が脱出しようにも、周囲は凍土です。
しかも街自体が、共産パルチザンによって、蟻の這い出る隙もないほど包囲されていました。
つまりニコラエフスクの駐留部隊は、極寒のシベリアで、完全に孤立していたのです。
座して死を待つくらいなら、勇敢に戦って死のう。
白人たちの惨殺を目の当たりにしていた日本人部隊は、義勇隊を募りました。
そして3月11日、日本軍110名で武装パルチザンの本拠を急襲したのです。
けれど敵は、武装した4000人の大部隊です。
衆寡敵せず。駐留部隊指揮官石川少佐以下多数がまたたくまに戦死してしまいます。
義勇隊に参加しなかった軍人、軍属と女子供達600名は、義勇隊の奮戦の最中に、日本領事館に退避しました。
けれど、領事館に集まることができたのは、わずか250名でした。
逃げ遅れた人達は、武装した共産パルチザンの手にかかってしまたのです。
何が起こったのでしょうか。
事後の調査記録によると、共産パルチザンたちは、この日、日本人の子供を見つけると2人で手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女と見れば老若問わず強姦し、おもしろ半分に、両足を2頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺していました。
こうしてまたたく間に、義勇隊110名、逃遅れた日本人約240名が犠牲となりました。
日本領事館では、襲ってくる共産パルチザンたちと、激しい戦闘が繰り広げられました。
戦闘はまる一昼夜続きました。
実際に傭兵として世界の戦場を点々とした経験を持つ方から聞いた話ですが、一般に、銃撃戦というのは、ほんの数分で決着がつくものなのだそうです。
銃撃戦が10分も続いたら、「今日の戦闘はむちゃくちゃ激しかったねえ」などと、後々まで話題になるくらいで、それだけ銃撃戦というのは、両軍の戦闘員たちにものすごい集中力と緊張を強いるものです。
それが、尼港の日本領事館では、まる一昼夜、銃撃戦が続いたのです。
立てこもる日本人兵士たちの緊張感、後方で震えていた日本人婦女子たちの恐怖は、想像するにあまりあります。
一昼夜が経ち、朝日が射す頃、領事館内の生存者は、わずか28名になっていました。
弾薬も底をつきてしまいました。
残った一同は、まず子供を殺し、石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決しました。
こうして一夜が明けたとき、尼港に残る日本人は、河本中尉率いる別働隊と領事館に避難しないで、かつ生き残っていた民間人121名だけになりました。
抵抗を続ける日本軍強しとみた共産パルチザンは、策を弄しました。
「山田旅団長の停戦命令」を偽造したのです。
河本中尉は、これは「怪しい」思いました。
けれどもし、停戦命令に従わなかったことが、後日、国際上の問題となったら取り返しがつきません。
軍は、あくまでも上官の命令によって動くものです。
河本中尉は、命令を受け入れました。
河本中尉以下の121名は、全員、武装解除のうえ投獄されました。
そして、食事もろくに与えてもらえないまま、日本の救援軍に対する防御陣地構築のための土方仕事に駆り出されました。
零下30度の極寒の中で、凍てついた大地に土嚢を積み上げ、陣地の構築をしたのです。
そして、陣地構築が終わると、手のひらに太い針金を突き通して、後ろ手に縛られ、凍ったアドミラル河の氷の穴から、生きたまま共産軍によって次々と川に放り込まれ殺されました。
春になって、ようやく旭川第7師団の多門支隊が現地の救援にやってきました。
そこで彼らは、地獄絵図を見ました。
そこは焼け野原と化した尼港には死臭が漂い、
「いったん撤退するが再び来て日本人を征服し尽くす。覚悟せよ」
と記した共産パルチザンの声明書が残されていました。
日本の救援部隊来着近しの報を受けた共産パルチザンは、5月14日に、Chineseの妻妾となっていた14名の女性以外の生き残った日本人全員を殺害していたのです。
Chineseの妻妾となっていた女性たちの証言から、1月29日から5月14日までの106日間の尼港の模様が明らかになりました。
日本人たちは、生きたまま両目を抉り取られ、
5本の指をバラバラに切り落とされ、
死ぬまで何度も刺されていました。
そして金歯があるものは、生きたまま、あごから顔面を切り裂かれて、金歯を抜き取られました。
女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されました。
獄舎の壁には、血痕、毛のついた皮膚などがこびりついていたそうです。
そして、その獄舎の中で発見されたのが、獄舎の壁に書かれた下の写真です。
被害者の手によると思われる鉛筆書きで「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」と書かれています。

尼港事件

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