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『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第二巻: 「和」と「結い」の心と対等意識』

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我國の為をつくせる人々の
名もむさし野にとむる玉かき
この歌は、明治7(1874)1月27日に、明治天皇が初めて靖国神社に参拝された折にお詠みになられた御製です。
「玉かき」というのは、玉垣(たまがき)のことで、これは神社の神域の周囲にめぐらされる垣のことです。
「玉」は、神聖なという意味を持ち、これに囲いの「垣」が組み合わさって「神聖なすばらしい神の為の囲い」を意味します。
上の句にある「我國」は君民一体のシラス国という意味ですから、「國のためを尽くせる」は、私達ひとりひとりの日本人のために尽くすこと。
「つくせる人々」は、そのために「命を尽くした」、つまり尊い命を捧げて、いまは神となった人々を指しています。
その神となった人々の名前を、武蔵野、つまり関東の宮城にしっかりととどめ、そこを玉垣で囲って、神域とするということを、明治天皇が、はっきりとお示しになられたのが、この御製の持つ意味なのですが、実はこの歌には、もっと深い意味があります。
靖国神社の由緒には、次のように書かれています。
「靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、日華事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉(ひと)しくお祀りされています。」
「斉(ひと)しく」という表現は、最近ではあまり見かけませんが、旧字は「齋」で、穀物の穂が伸びて生え揃っている象形です。
つまり立派に成長し人々のお役に立った御神霊としてお祀りしているのです、といった語感を持つ語を用いているわけです。
明治天皇の御製には、さらに大切なポイントがあります。
それは「名をとむる」と詠まれていることです。
ここでいう「名」とは、亡くなられたおひとりおひとりの御霊のお名前のことです。
いまの日本人には、あたりまえのように「名前」がありますが、いまのような名字と名前の制度になったのは、実は明治になってからのことです。
それも、ちょうど明治4年から明治8年、つまり明治天皇が冒頭の御製を詠まれた頃のことです。
それだけに、この歌にある「名をとむる」には、実は深い意味があります。
現代日本では「氏(うじ)」も「姓(かばね)」も、同じ名字(苗字)としか扱われません。
これに変更が加えられたのが、明治4年の「姓尸不称令(せいしふしょうれい)」(明治四年太政官布告第五三四号)で、このときはじめて、公文書に「姓氏」を書かずに苗字実名だけを使用することが布告されました。
その後、苗字(名字)の書き方については、様々な布告が続く、つまり二転三転していくのですが、最終的に固まったのが明治8年の「平民苗字必称義務令」(明治八年太政官布告第二二号)です。
この義務令によって、すべての日本人が「苗字と名前だけ」を標記するようになりました。
ではそれまではどうだったのかというと、「姓(かばね)」と「氏(うじ)」は別なものとして扱われていたのです。
「氏」は、「同じ人を祖先に持つ集団」のことでした。
ですから、たとえば織田とか松平、あるいは榊原、井伊、酒井などの「氏」を持つ者は、みんなご先祖が同じ人だったわけです。
この「氏」については、8世紀に編纂された『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』というに詳しく記載されていて、この本にはもともと日本にいた人たちがどういう姓なのか、渡来人はどういう姓なのかが全部記録されています。
8世紀の時点でそのようなことができた国は、世界広しといえども日本だけのことなのですが、これができたのも、「氏」が同じ血族集団に与えられたものであったことによります。
農家などでは、土地ごとに集落が営まれましたから、もともとは村の名前=血族集団であったわけです。
この歴史は古くて、日本ではおよそ8千年前から稲作が行われたりしていましたから、血族集団が血族集落となり、その集落ごとに神社が営まれ、その全国的な神社がネットワーク化されて、その上に大和朝廷が成立しています。
いまでも「氏神さま」といいますが、氏神さまは、同じ村の、つまり同じ血族集団の御祖先が神様として祀られたことに発祥しています。
ところが江戸時代になると、全国の大名たちがネットワーク化され、国替えのようなことも度々行われるようになりました。
すると、藩の武士たちの知行地も場所が変化します。
つまり、もともとは武士たちは「氏」の血族集団の長だったのですが、それが別な氏の村を知行するようになるわけです。
たとえば大利根村であれば、もともとそこには大利根という氏を持つ人達の血族集団であり、大利根氏というお侍さんは、その大利根村の領主の一族であり、本家筋であったわけです。
ところがその領主の大利根のお殿様が、別な知行地をいただいて、別な土地に引っ越してしまう。
そして新たに、多摩川さんというお侍さんが、領主としてやってくる。
多摩川さんは、大利根村の村人たちと血縁関係はありませんが、両者は互いに協力して、いままで以上に村の発展のためにがんばっていかなければならないわけです。
けれど、だからといって、もともといた大利根の氏を持っていた人達が、古式の伝統にしたがって多摩川さんに名前を変えたり、あるいはあとから知行のためにやってきた多摩川さんが、大利根に氏を変えたりしたら、世の中が混乱します。
そこで江戸幕府は、農家が勝手に氏(うじ)名を変えることを禁じ、大利根村の熊さん、八っつぁんは、多摩川熊五郎、多摩川八兵衛と名乗ってはならない。そのまま大利根熊五郎、大利根八兵衛のままでいなさいとしていました。
これが解除されて「平民苗字必称義務」となったのが、明治8年だったわけです。
戦後、公職追放の後釜に座って日本人のような顔をした日本人でない学者さんが、しきりに「江戸時代の庶民には名字がなかった」などと宣伝しましたが、これはとんでもなく誤解を招きやすい表現で、我が国では天下万民、庶民であろうが武士であろうが、全員「氏」があったのです。
だからどんな人にも「氏神様」がちゃんとありました。
もうひとつ、「姓(かばね)」は、これは苗字(名字)とは全然異なります。
「姓(かばね)」というのは、もともと天皇に仕える特別な人たちを表すもので、朝臣(あそん)とか宿禰(すくね)、連(むらじ)などがこれにあたります。
大納言とか中納言は、いまでいったら、総理府の次官とか部課長のような役職名ですが、これとは別に、大きな功績があった人などに、その家系をたたえて「あなたの家系は立派な朝廷の家臣であることを認めましょう」と与えられたのが、朝臣とか宿禰のような「姓(かばね)」です。
ですから、たとえば在原業平朝臣、藤原敏行朝臣、大中臣能宣朝臣などといったように、「姓(かばね)」は、通常、氏名のあとや、真ん中に付けられました。
おもしろいことに、大久保利通は藤原朝臣利通、大隈重信は菅原朝臣重信、山縣有朋は源朝臣有朋と名乗っています。
こうした「氏姓(うじ・かばね)」の制度のことを、「氏姓(しせい)制度」といいます。
明治維新後、四民平等となり、旧来の職制が貴族も武士もすべて一律に廃止となったことから、名前の真ん中に姓を表記することがなくなり(つまり姓を用いることがなくなり)ました。
同時に氏(うじ)もまた、全国民があらためて陛下のおおみたからとして、君民一体となって、欧米列強の脅威から日本を守ろうということから、血族集団としての氏(うじ)にこだわることなく、日本全国、もとをたどせば、みんな同じ血族じゃないかということで、村の東側に住んでいれば東さん、西側の山の麓に家があれば西山さん、南側なら南さん、北の川のほとりなら北川さんなどと氏とは別に「苗字(名字)」を名前の前につけることとなったのです。
これが「平民苗字必称義務令」です。
つまり現在の名字と名前の二つからなる日本人の名前は、もともとが、すべての日本人が同じ血族であり、同じ「おおみたから」であり、陛下の子であることを本義としてできあがったものなのです。
だからこそ、歌には「名を」ではなく、「名も」とあるのです。
日本国民はすべて同族という意味をこめて、あらためて氏名が名乗られるようになったのです
そしてその名を持つ同族としての英霊を、明治天皇は我が子とし、「名を玉かき(=神域)」に「とむる」と詠まれているのです。
いまの日本人の名前は、苗字と名前でできています。
最近では自分の家系の氏神様(うじがみさま)がわからないという方が増えましたが、そうなったということは、すべての日本人が血族にかかわりなく、誰もが天皇の「おほみたから」であるということが明治期に再確認されたということなのです。
そして我々庶民が「おほみたから」であるということは、政治権力者も我々庶民も、等しく天皇の「おほみたから」です。
つまり我々は天皇の「おほみたから」であるという一点によって、権力からの自由を得ているし、権力者に私有される隷民とならずに済んでいるのです。
ですから「天皇は憲法上の制度だ、天皇制反対」と唱えるということは、わたしたちひとりひとりの人間としての尊厳を否定し、政治権力者の私有民となり、民衆を「奴隷のような隷民にしたい」と言っているのと、実は同じことなのです。
世界を見渡せば、民主主義を標榜しながらも、いまだに庶民が隷民として扱われている国が多数あります。
世界では、自由のために流血を伴う戦いが、国歌にまで歌われている国も多数あります。
しかし我が国の英霊は違います。
わたしたち臣民のひとりひとりが、人としての尊厳を持つことができる国家を守りぬくために尊い命を捧げてくださったのです。
その英霊が靖国に祀られています。
その数、246万6千余柱。
そして明治天皇の御製に明らかな通り、靖国神社では、御霊だけでなく、氏名も祀ってくださっています。
氏名があるということは、そこに祀られた全員は、もったいなくも、等しく天皇の子であり、おおみたからであり、全員が同じ日本家族の一員である、ということを意味しています。
私達は、その英霊の柱で建てられた日本という家に住み、そこで生きているのです。

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