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『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第二巻: 「和」と「結い」の心と対等意識』
■ねずさんの百人一首本は2015年3月発売予定です。
■【CGS ねずさん】第6話 植民地支配に反対した日本

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日本を取り戻す。
それはただ、経済を取り戻し、教育を取り戻す、憲法を取り戻すということだけではなくて、わたしたちの国の歴史伝統文化から生じる普遍的価値観を取り戻すことにこそ、その本義があります。
年末に行われた日本史検定講座で倉山満先生がおもしろいことをおっしゃっていました。
「西欧やシナでは18世紀でさえ、貴族が自分の家の召使を殺してもどこからも抗議などされませんでした。召使を殺すことは、ニワトリを殺すようなものでしかなかったからです。」
要するに支配層にとって、被支配層の人々は、対等な人間ではないのです。
ニワトリと同じです。
倉山先生は、もうひとつ面白いお話をされていました。女性のことです。
「ヨーロッパは、もともと土地も領主の持ち物、家畜も領主の持ち物、人民も領主の持ち物でした。
女性は生れたときは両親の持ち物で、結婚したあとは夫の持ち物です。
けれどその夫は特権領主の持ち物ですから、特権領主が人妻や娘さんをさらっても、どこからも抗議は来ません。彼らは日本とはまったく違った歴史を持っているのです。」
ところが日本には、
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも
よに逢坂の関は許さじ
なんていう千年前の女性の歌があるわけです。
この歌を詠んだのは清少納言です。
歌は百人一首にも所蔵されていますので、ご存知の方も多いかと思います。
歌には詞書が付されていて、そこには、
「ある日のこと、大納言の藤原行成さまが私の家にお越しになって、いろいろ楽しく雑談していたのですが、大納言様が、『宮中に弔事があって急いで仕事に戻らないといけない』とおっしゃって、帰って行かれたのです。翌朝、彼から
「鶏の声に促されまして(朝になったので)ご連絡をいたしました。昨日はありがとう。お元気ですか?」みたいな手紙が届いたので、私は、
「夜中にニワトリが鳴いたとおっしゃるのは、孟嘗君がニワトリの鳴き真似をして函谷関の門を開けさせて、まんまと窮地を脱出したという故事のことでしょうか」とお返事をかえしましたところ、彼が、
「函谷関ではなく、逢坂の関ですよ(あなたと逢いたいという意味ですよ)」と返事を書いてきましたので、この歌を詠みました」とあります。
実はこのとき藤原行成は、別な女性と交際中だったのですが、ある日たまたま清少納言と愉快に話し込んでいたわけです。
清少納言は、とっても知的で明るい女性です。
話に花が咲き、藤原行成は時間を忘れてすっかり話し込んでしまいました。
気がつけば、もう夜も遅い時間です。
彼は、宮中で用事があるので、と夜半に清少納言のもとを辞去したわけです。
翌朝、藤原行成から清少納言のもとに手紙が届けられました。
ところがそこには「朝、ニワトリの鳴き声とともに立ち去ってしまったが」と書いてある。
行成が前の日の晩に清少納言のもとを立ち去ったのは、夜遅い時間です。
ニワトリが鳴くのは早朝です。
このひとことで、行成が清少納言のもとを立ち去ったあと、別な彼女のもとで朝まですごしていたことがバレてしまったわけです。
これに対して清少納言が、「ニワトリの鳴き真似で私を騙そうとしても、貴方には会ってあげませんわよ」と、ものの見事に、行成をフっているのが、実は、この歌なのです。
そのフり方が、孟嘗君の故事などをひいて、あまりにも知的で見事だから、さしもの藤原行成も、「ワハハ、これは一本取られましたな」と笑って済ますしかない。
その藤原行成は、正二位・権大納言という高官になる人です。
書は、三蹟(さんせき)といって、平安時代を代表する見事な書家でもあります。要するに当時の時代を代表する大物政治家であり、教養人だったのです。
一方清少納言は、行成からみれば格下の女官にすぎません。
けれども、そうした身分の上下を超えて、まさに男女が人として対等に接してきたのが、わたしたちの国の歴史です。
こう書くと、武家では女たちは政略結婚を親に強要されたりしたではないか、などと反論されそうです。
それが戦後教育のドグマに染まってしまっているということなのです。
親の身になってください。
愛する我が子にとって一番の不幸は何でしょうか。
命が失われることです。
戦国の世です。いつ隣国に城が責められ、殺されてしまうかわからないのです。
ならば、娘がその隣国に嫁入りすれば、自分の家と隣国の家の両方の血をひく子が誕生します。
ということは、いまの世代には隣国と自国は敵同士ですが、次の世代には、城主は親戚になるのです。
この世に子や孫ほど可愛いものはありません。
そして隣国との間には、共通の孫が誕生するのです。
そして両国は親戚になる。一体化する。
そうすれば戦いで血を流すこともなくなる。
しかも娘は、両家の戦いによって殺されてしまうのではなくて、隣国の殿様の正妻として身分と立場を保障された人生を送ることができる。
冷静に、メリット、デメリットを秤にかけて考えていただきたいのです。
戦えば、多くの命が失われるのです。
しかも嫁に行く隣国の若殿様は、優秀な家臣たちに囲まれた立派で優秀な若殿様です。
なぜそういえるかといえば、そうでないなら、つまり暗愚な馬鹿殿だったなら、その若殿が城主になったとき、その隣国を踏みつぶせば良いだけのことだからです。
我が娘を、女性だからと、モノとして扱ったのではないのです。
人として対等な存在として、娘にとって、またこれから生まれてくる新しい命にとって、もっとも幸せな選択は、争いのない世の中であり、両家が一体化して、より強大な国になっていくことです。
そのための選択なのです。
恋愛結婚ばかりが幸せとは限らないということは、世の中の多くの離婚が証明しています。
お見合い結婚であるがゆえに、夫婦が互いに互いを理解し合おうと努力し、幸せな夫婦となれるケースも、現実の世の中の数多くの事例が証明しています。
いまのような飽食の時代ではなく、誰もが食べるために、生きるために、生き残るために必死だった時代の、命がけの選択でもあったということを、私達は思い出す必要があると思います。
領主にとって、土地も家畜も人民も領主の持ち物であり、妻が夫の持ち物であり、その夫が領主の持ち物なのだから、領主が妻をさらっても、どこからも抗議が来ないというヨーロッパの社会と、男女が人として対等な存在となり、ただひたすらに妻や娘の幸せな未来を願った日本の社会と、どちらが人権を尊重した社会や歴史を持っているといえるのでしょうか。
天皇という権威によって、民衆のひとりひとりが権力者に私有されるのではなく、人としての尊厳を認められ、民衆が人として対等な存在とされてきたのが、日本です。
そういう本当の歴史を、わたしたちは、いまあらためて学んでいく必要があるのではないか。
安物の色眼鏡は、1日1時間以上かけたりすると、鏡面の歪みから視力が極端に低下するのだそうです。
私達日本人は、戦後70年かけてきた色眼鏡は、かなりの安物だったのかもしれません。

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