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明暦の大火
明暦の大火

むかしむかしの物語です。
江戸の麻布に、質屋の娘さんで梅乃(うめの)さんというたいそう美しい娘さんがいました。
その梅乃さんが、ある日、本妙寺の墓参りに行きました。
用事を済ませて帰ろうとしたとき、たまたま出会ったお寺のお小姓(こしょう)さんに一目惚れしてしまいます。
女性から告白なんて、考えられない時代です。
しかも相手はお坊さんです。
そこで梅乃さんは、その小姓が着ていた服と同じ模様の振袖を作らせ、これを愛用しました。
ところが梅乃さんは、なぜかふとしたことで、わずか17歳で亡くなってしまったのです。
ご両親の悲しみはいかばかりだったことでしょう。
梅乃さんの棺に、ご両親はその振袖を着せてあげました。


その頃、こうして棺に掛けられた服や、仏が身につけているカンザシなどは、棺が持ち込まれたお寺の湯灌場で働く者たちが、もらっていいことになっていました。
この振袖もそういう男たちの手に渡りました。
振袖は売却され、回り回って紀乃(きの)さんという、これまた17歳の娘さんの手に渡りました。
ところがなんとこの紀乃さんも、あくる年の同じ日に亡くなってしまったのです。
振袖は、再び墓守たちの手を経て、今度は、幾乃(いくの)さんという娘さんのもとに渡りました。
その幾乃さんも、翌年、17歳で同じ日に亡くなってしまったのです。
三度、棺にかけられて寺に持ち込まれた振袖を見て、寺の湯灌場の男たちは、びっくりしてしまいました。
そして寺の住職に相談しました。
住職は、亡くなった娘さんたちの親御さんを呼び出しました。
みんなで相談の結果、この振袖にはなにかあるかも知れないということで、お寺でご供養をすることになりました。
それが明暦3(1657)年1月18日午前10時頃のことです。
住職は、読経しながら火中に振袖を投じました。
そのとき、突然、強い風が吹きました。
火がついたままの振袖が、空に舞い上がりました。
まるで何者かが振袖を着ているかのようでした。
舞い上がった振袖は、寺の本堂に飛び込みました。
そして本堂の内部のあちこちに火をつけたのです。
おりしも江戸の町は、80日も雨が降っていませんでした。
本堂に燃え移った火は、消し止めるまもなく次々と延焼しました。
そして火は、まる三日間燃え続け、湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり、日本橋・伝馬町まで焼き尽くし、さらに翌日には北の丸の大名屋敷を焼きました。
江戸城の天守閣まで焼失しました。
これが明暦3年(1657)に起きた「明暦の大火」です。
火事で亡くなった人は10万人以上にのぼりました。
火災としては、東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大の大火災となりました。
ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数える人もいます。
また、この大火災で焼失した江戸城天守閣は、今日になっても、まだ再建されていません。
さて、この話には後日談があります。
事件の発端になったお寺の小姓は、天正18(1590)年、徳川に攻め落とされた土岐氏の子孫だというのです。
そして実は、滅ぼされた土岐氏の恨みを、振袖に託して復讐を遂げたというのです。
燃え上がる梅乃の慕情と、土岐氏の恨みが重なったとき、まさにそれが紅蓮の炎となって江戸の町を焼いた・・・となるのですが、この手の因縁話というのは、すこし前までは、ほんとうにごく普通に、一般的に、テレビドラマや映画などでも、よく語られたものです。
横溝正史の「八つ墓村」は、映画が3本、テレビドラマが6本、漫画が5作品、舞台が1作品あるのだそうですが、そのなかの映画ひとつとっても、昭和26年の松田定次監督で片岡千恵蔵が金田一耕助を演じた映画、昭和51年に野村芳太郎監督が渥美清、萩原健一で撮った映画までは、田治見家の因縁話が、話の主題となっていました。
ところが平成18年に豊川悦司、高橋和也主演の八つ墓村は、監督が市川崑でありながら、因縁話がなりをひそめて、事件の残酷性や事件当時者たちの愛憎が主題へと変化しました。
ひとつの大きな事件に際して、因縁が、ほんとうにその事件のきっかけだったかどうかは別として、そうした因縁が多くの人々の共感や納得を得たということは、人々の間に「共有する歴史があった」ということを意味します。
逆にいえば、因縁話が理解できない社会は、「歴史が共有されていない」ということになります。
重要なのは、「因縁を信じないのは科学的な社会」などでは全然なくて、実は「自分たちの存在を歴史の流れの中に感じることができない社会」に、日本が変化しているという恐ろしさです。
このことは、明暦の大火よりもおそろしい出来事であるように感じます。
縄文・弥生時代の集落跡は、全国にたくさん発見されていますが、その特徴は、集落の真ん中に先祖の墓地があることです。つまり死者と生者が、ひとつの村落の中で共存してるのです。
これはつまり、人々が歴史と一体となって生きていたことを表します。
これが太古からある日本文化の原点です。
このことはたいへん重要なことで、昔といまが共存しているということは、いまと未来も共存しているということです。
過去現在未来という時間軸の中に人々が生きていることを表します。
一生懸命学んで大人になって、
大人になったら、一生懸命働いて、
子や、孫の未来を築く。
それが日本人の、1万7000年続いた縄文時代以来の、DNAに蓄積された姿です。
だからこそ日本人は、歴史を大事にしてきたし、だからこそ因縁話なども生まれてきたわけです。
因縁というのは、歴史的原因と経過のことを意味します。
ですから歴史的原因と経過が受け入れられない、あるいは理解されない社会というのは、その民族が「民族としての歴史を失っている」、もしくは「失わせたい力が働いている」ことをあらわします。
戦後の日本は、戦前に逮捕されていた共産主義者、卑怯な手段で徴兵を拒否した「醤油組」、戦時中日本人の若者が兵役について外地に向かったことで代替労働力として日本本土の工場などに出稼ぎに来ていた朝鮮人、朝鮮戦争のときに祖国を捨てて逃げてきた韓国人、済州島人(済州島は李氏朝鮮の時代には自分たちはモンゴルの直系だと主張して李氏朝鮮に帰順していなかった)などの、いわゆる「敗戦利得者」が、牛耳る社会です。
こうした人達は、人口の上からはごく一部でしかありませんが、少数であるがゆえに、結束が固い。
そして少数であるがゆえに、経済を牛耳り、大金を得ています。
けれど日本はシラス国です。
天皇という存在のありがたさによって、民衆がそうした一部の人たちが民衆を支配することをないようにしてきた国です。
いかなる権力者があらわれようが、民衆はわが国の頂点におわす天皇の民なのです。
どのように見積もっても、敗戦利得者たちに支配され続けるような、ヤワな民ではないのです。
徳川幕府は、明暦の大火で焼失したわが国最大にして最高の江戸城天守閣の再建をあきらめました。
天守閣を再建して虚勢をはることよりも、焼け出された人々の民生の安定を第一にしたからです。
これが西洋やChinaの王朝であれば、おそらく逆ではないかと思います。
城が先、民生は後回しです。
なぜ徳川幕府が天守閣を後回しにし、さらには以後200年以上も天守閣を再建しなかったか。
ここに、当時の武士たちの立ち位置が明確に現れています。
武士はもともと新田の開墾百姓たちです。
そして武士は、平安の昔も、鎌倉時代も、戦国の昔も江戸時代も、領主として、地域を私的に統轄しましたが、民はあくまで「天子様の大御宝」と認識されたのです。
西洋やChinaでは、領主は領土と領民を支配します。
けれど日本では、領主は領土を支配しましたが、領民は支配していません。
いまの会社内で、部長や課長が部下を「支配」しているのではなく、部下はどこまでも「会社」の社員であり、「役席者が私的に支配しているのではないことと同じです。
そしてそういうことがなぜ実現できたかといえば、因縁と呼ばれる歴史的原因と経過を大切にしてきたからなのです。
※この記事は2013年6月の記事をリニューアルしたものです。
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