人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

国井善弥

国井善弥師範といえば、鹿島神流の使い手で昭和の宮本武蔵とまで言われた人です。
他流試合は数知れず。
しかも生涯一度も負けなし、というのですからすごいです。
実はこの国井善弥師範が「日本武道を救った」人です。
戦後日本にはいってきたGHQは、日本人が強いのは、日本人が武道をしているからだとして、日本武道を全面的に禁止にしたのです。
終戦の年の昭和20(1945)年11月6日には、学校の剣道が全面禁止。
翌昭和21年には一般社会人向けの社会体育の剣道も禁止となり、さらに剣道関係者1300余名も公職追放されています。
当然、町道場も営業できない。
なにせ剣道を教えているとGHQにひっぱられるのです。
しかたがないから、再び道場が復活できる日のためにと、日課の素振りをしていると、それだけでもGHQに逮捕され、道具類も全部没収されました。
剣道協会は、なんとか生き残りを図ろうと、「剣道はマーシャル・アーツ(格闘技)ではない。ジャパニーズ・カルチャーだ」とGHQに訴えましたが、通じません。


そこで当時、剣道の防具をフェンシングのそっくりの頭からスッポリかぶるものに改良(?)し、ルールもフェンシングのルールに変えて、面、胴、小手を加えて、しない競技(撓競技)というスポーツを考案したりもしています。生き残りのために、まさに涙ぐましい努力をしたのです。
当時、竹刀も普通は竹を縦に4つに割ったものが使われるのですが、これも8つに割ったものを用いました。
そうすると、竹刀がすぐにバラバラになってしまいます。
そこで竹刀の剣の部分に柔らかい白い布を巻きました。
するとどうなるかというと、防具なしで当たってもぜんぜん痛くない。
試合も、いまのような「打ち込みの鋭さ」などはいっさい問題にされませんでした。
制限時間内に、小手や面に、竹刀が何回当たったかの回数で、勝負が決まるようにしたのです。
ほんとうに、苦肉の生き残り策でした。
そこまでして、ようやく撓競技として許可を得るのですが、それさえも、練習や試合で、打ちこみするときに声を出すのは禁止とされました。
声を出すのは日本兵の突撃をイメージするからダメ、なのだそうです。
だから稽古も試合も、無言でした。
「こんなことではいけない。なんとかして本来の剣道を復活させよう」
そう思って動いてくださったのが、当時国会議員だった笹森順造氏です。
笹森順造氏は、青森県弘前藩士の出身で、キリスト教徒で、青山学院大学の学長もつとめた人です。
戦後の片山内閣では、復員庁総裁、賠償庁長官などを歴任し、ソ連抑留者の早期返還に努力しています。
そしてご自身が、小野派一刀流の剣の使い手でした。
彼は、何度もGHQに掛け合いました。
なんとしても剣道を復活させようとしたのです。
笹森氏は、GHQの係官に言いました。
「剣道は相手に怪我をさせるとか殺すための武道ではない。一瞬にして相手に最小限のダメージを与え、しかも自分が悪かったと悟らせるものです。」
「そんなことはありえない。あらゆる格闘技は闘いに勝つためのものだ。 だから剣道は Martial Arts(軍隊格闘技)だ。危険なものだ。」とGHQはとりあいません。
笹森氏は、何度も繰り返し、「それは違う! 断じて違う」と彼らに食い下がりました。
そしてようやく「では、どこがどう違うのか実際に証明して見せろ!」というところまで漕ぎ着けるのです。
「ミスター笹森は、単に勝つだけではない。相手を懲らしめ、悔い改めさせるものだというが、そんな神の教えみたいなことが現実にできるのか、実際に戦って証明してみせろ」というわけです。
相手は米海兵隊の銃剣術の教官がしてくれることになりました。
かつてその教官に誰も勝てた人はいない。素手の勝負でも必ず勝つし、銃剣を持たせたらまさに向かうところ敵なしという、海兵隊一の猛者です。喧嘩でも試合でも、これまで一度も負け知らずです。
相手をしてあげるから、誰でも好きな日本人を連れて来なさい、というわけです。
ただし条件があります。
米海兵隊の教官は、本物の銃に本物の剣を装着した銃剣を使います。
もちろん対戦相手の日本人は、殺しても構わない。
日本側は、上にご紹介した撓競技用の柔らかな竹に、やさしく布を巻いた、当たっても痛くない竹刀を用います。
しかも防具は着けさせない。
「それでも良いか?」というGHQに、笹森氏は「もちろんOK」だと答えました。
常識で考えたら、無茶苦茶な話です。
しかも日本側が負けたら、もはや剣道復活の見込みはありません。
試合には日本武道の誇りと名誉がかかっています。
絶対に勝たなければならない。
このとき、笹森氏の頭のなかには、すでにひとりの武人が浮かんでいました。
國井善弥氏です。
國井善弥氏は、鹿島神流(かしましんりゅう)の使い手です。
鹿島神流とは、茨城県鹿嶋市にある鹿島神社に古くから伝わる「鹿島の太刀」を元とした古武術流派で、剣術と柔術を中心に、抜刀術、薙刀術、棒術、杖術、槍術、手裏剣術を扱います。
防御と攻撃は常に同時に行なわれ、剣は振りかぶらず一挙動に打つという特徴があります。
國井善弥氏は、その18代目の宗家です。
これまでに、たくさんの腕に覚えのある武道家から他流試合を求められ、一度も負けたことがない。
武器を持たない柔道家や空手家、鎖鎌、大薙刀、棒術等の達人から試合を求められると、相手が望む通りの条件で試合を受け、全部勝っています。
世間は、その圧倒的な実力から「今武蔵」(昭和の宮本武蔵という意味)と呼んでいました。
笹森は、すぐに國井善弥氏にGHQ海兵隊教官との試合を依頼しました。
負ければ日本武道は完全に前途を絶たれることでしょう。
そして同時に國井善弥氏は、その場で命を失うことになるでしょう。
けれど、國井善弥氏を知る笹森氏は、絶対に國井善弥氏がこの試合を受けてくれるし、また勝ってくれるという自信がありました。
そして依頼を受けた國井善弥氏は、これまた二つ返事でこの試合を請けてくれました。
いよいよ試合当日です。
國井善弥氏が試合場にやってきます。
いつも通りの、白の練習着で、片手に例のやわらか竹刀を持っています。
なんの緊張感もありません。
まるっきり普段通りです。
米国の教官も試合場に入ってきました。
その手には本物の銃剣が握られています。
二人は、中央に歩み出ました。
両者は約3mの間合いをとって、相対しました。
試合場に緊張が走ります。
そして國井善弥氏が礼をして、竹刀を中段に構えようとした、そのとき、米教官は、銃剣を國井善弥氏ののど元に向かって鋭く突きだしてきました。
剣道の試合なら「はじめ!」の号令の前、ボクシングならゴングが鳴る前のことです。
あわや銃剣が刺さると思ったその瞬間、國井善弥氏は半歩さがってこの攻撃をかわしました。
米教官は突進を続けながら、銃剣を回転させて、國井の即頭部めがけて銃底を打ちつけようとしました。
カタイ銃底による即頭部殴打です。当たれば即死です。
國井善弥氏は、米教官のこの動きをあらかじめ読んでいました。
銃剣での突きがきたすぐあとに、銃底を使った殴打がくる。
そして國井善弥氏は、逆に相手の前に半歩前進すると、その銃底をかわしながら、米教官の後頭部にやわらかく竹刀を当て、そのまま教官の突進する力を利用して、教官を床に引き倒しました。
教官が四つん這いになって床に手をつきます。
國井は、そのまま教官の後頭部を、竹刀でグィと押さえました。
人間の体は、頭がいちばん重たいものです。
ですからこの頭を後頭部から抑えられると、身動きができなくなります。
しかも四つん這いになった状態で、頭部をグィと胸の方に押し込まれると、呼吸も苦しくなります。
米教官は、おもわず「参った」をしました。
「勝負あった!」
すべてが一瞬の出来事でした。
米教官は、素直に負けを認め、國井善弥氏は、いっさい相手と剣先を合わすことなく、敵を見事に制したのです。
圧倒的な実力差でした。
そして剣道は、相手に怪我をさせたり殺害したりするものでなく、相手を制するものであるということも、立派に証明して見せた試合でした。
しかも國井善弥氏は、相手と一太刀も合わせていない。
怪我さえもさせていないのです。

國井善弥氏の戦いの再現

この事実はGHQに衝撃を与えました。
見事に笹森氏の主張が証明されたのです。
しかし、GHQの答えは、「日本人に武道を認めない」というものでした。
日本武道の圧倒的底力を見せつけられたGHQの担当官は、まさにその強さに恐怖したのです。
ところが事態は意外なところから変化しはじめました。
國井善弥氏の圧倒的な勝利を目の当たりにした海兵隊の敗れた米教官をはじめ、米軍の兵士たちが、こぞって日本武道を学びたいと言い出したのです。
ただでさえ、腕自慢の若者たちなのです。
誰しももっと強くなりたい。
そしてこのことは、GHQ内部にも、「日本の武道は失うにはあまりにももったいない」という機運をもたらします。
そしてこれが日本武道の復活となって、いまの剣道や柔道、空手、合気道、古武術などの武道の復活につながっています。
この國井善弥氏の戦いは、相手の動きをしっかりと読んで勝利したことから、「昭和の巌流島決戦」と呼ばれました。
それはちょうど、宮本武蔵が佐々木小次郎との果合いにおいて、小次郎の動きを先に読んで、長刀の木刀で真剣の小次郎を倒した、その戦いになぞらえれる戦いであったからです。
ルールが決まっているスポーツの試合では、ただやみくもに技をかけたり、相手に打ち込んだりということが行われたりします。
けれど、刃物を使った実戦では、斬られたり刺されたりしたら、それはそのまま重症に至るし、場合によっては死んでしまいます。
昔の剣術の稽古では、防具なしで、木刀を持って試合や練習が行われたりなどしましたが、木刀だって、当たれば痛いし、怪我をします。
ですから、私などには到底、真似できないことですが、昔の武道の達人は、相手の動きを先に読み、相手の動きを流して斬る、あるいは打つ、ということが行われました。
当たったら怪我をするのですから、怪我をしないために、当たらないように相手の動きを先に読んでしまうわけです。
國井善弥氏は、道場に入門したての頃、先生からよく
「ナニを持って来い、ナニもついでに」と指示されたそうです。
「ナニ」と言われても、それが何かはわかりません。
しかしこれは「相手の思っているところを察知する心眼獲得のための修業」だったのだそうです。
先生の指示は、次第に「ナニをナニして、ナニをナニナニ」と、まさに暗号のようなものになっていったそうですが、國井氏は、かなりの確率で師の意思をつかむことができるようになったといいます。
そしてこの修業が、立会いで相手の動きを事前に読みきる能力に活かされたのです。
この試合でも、國井は、相手の銃剣の先生の動きを事前に読んで、体の動きを捌き、相手を制しています。
國井善弥氏のこの試合は、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦いになぞらえて、昭和の巌流島と呼ばれました。
これも、忘れてはならない日本の歴史のヒトコマだと思います。
同時にもうひとつ、日本文化は、和歌においても武道においても政治においても商売においても、普通の人間関係においても、常に「察する」ということがその根底に流れているということを、申し上げたいと思います。
現象が起きてから対処するのではなく、國井氏が相手が銃底で側頭部を打ちに来ると読んで、これを交わして倒したように、事前に読んでコトが大きくならないうちに、怪我ひとつさせずに、相手を抑えこんでいます。
政治も治安も同じです。
殺人や強盗強姦窃盗傷害などの事件が起きてからでは遅いのです。
足立区綾瀬の女子高生コンクリート詰殺人事件や、福岡一家惨殺事件など、そういう事件が起きてから捜査をするのでは、もうその時点で、政治が手遅れになっているのです。
スポーツも同じです。
フィギアをはじめ、さまざまなスポーツで、明らかに八百長と思しき審判が過日のどこぞの国のアジア大会では非常に目立ちました。
そういう八百長が起きてから対処するどころか、実際に目の前であきらかな不正が起きていてさえも、何の対処もできない。そんな政治を、そんなスポーツをいったいどこの誰がどのように望んでいるのでしょうか。
「明察功過」
これは聖徳太子の十七条憲法第11条にある言葉です。
明察功過というのは「いいことも悪いことも前もって察しなさい」という意味の言葉です。
わたしたちは、いまいちど、日本文化の根底にあるこの言葉を、あらゆる場面において、しっかりと見なおしていかなければならない時期にきていると私は思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。
人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
國井善弥、鹿島神流

コメントは受け付けていません。