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天皇誕生日一般参賀

今日は、天長節です。
天皇のお誕生日のお祝いの日です。
ちなみに旧暦では、人は全員1月1日にひとつ歳をとるとして計算していましたから、たとえば大晦日に生れた赤ん坊は、生れたときが1歳で、翌朝には、たった二日目にして2歳とカウントしていました。
そうしたなかにあって、在位中の今上天皇については、そのご生誕が祝われるようになったのですが、その歴史は古くて、775年の第49代光仁天皇の御世にまでさかのぼります。1200年以上の歴史があるのです。
戦前においても、明治6(1873)年に太陽暦が採用されたその年に、太政官布告によって国家の祝日と規定されました。
この国家の祝日は、終戦後の占領憲法施行のときに、あらためて祝日法として生まれ変わるのですが(昭和23年)、これに先立って行われた「希望する祝日」の政府の世論調査では、「新年」に次いで「天皇陛下のお生まれになった日」が、ほぼ1位と同票で第2位となっていました。
当時の日本はGHQの占領下にありましたが、それでも当時の日本人の民意は、天皇の存在によって私達が隷民にならなくて済んでいること、私達が言論の自由その他、人として生かさせていただいていれるのは、天皇という国家の最高権威によって、民衆が「たから」とされているということを、よほど共産主義等に「かぶれ」たごく一部の人を除いては、普通の日本人なら、誰しもが常識としてわきまえていたのです。


天長節は、8世紀の唐に倣(なら)ったものです。
唐の玄宗皇帝の誕生日を天長節と祝ったのが由来です。
なぜ玄宗皇帝が「誕生日のお祝い」をするようになったかというと、ちょうどこの頃、西洋からシルクロードを通って景教が唐にもたらされたのです。
景教というのは、古代キリスト教の教派のネストリウス派のことです。
このネストリウス派は5世紀に西洋では異端とされ、要するに西洋を追い出されて西アジア、中央アジアへと流れ、そして7世紀に阿羅本(あらほん)によってChinaにもたらされました。
そして様々な紆余曲折はあるものの玄宗皇帝の時代に皇帝の保護を得て、唐全土で大流行し、その勢いがそのまま日本にも飛び火して、日本国内でも教会が建てられたり、あるいは光明皇后によって無償の福祉医療センターが築かれたりしています。(京都の祇園祭も景教伝来とのつながりを指摘する人もいるようです)
誕生日を祝うという天長節は、こうして景教、つまりキリスト教の渡来とともに日本にもたらされ、そして8世紀以降ずっと毎年、今上天皇のお誕生日を祝賀の日としてお祝いがなされ続けているのです。
ですからそういう意味においては、天長節(いまは天皇誕生日)というのは、今上陛下のご生誕の日のお祝いというだけでなく、実は「東西文化融合の象徴の日」でもあるわけです。
ちなみに「唐」の話が出てきましたので、すこし脱線します。
Chinaにおける唐の時代は、西暦618年から907年まで289年続きました。
そしてこの時代のChina大陸には、「中国人」はいません。
どういうことかというと、居たのは「唐人」です。
このことを戦後の私達はものすごく誤解しているのですが、同様に唐のあとに起こった「宋」の時代なら、そこにいたのは「宋人」であって中国人ではありません。
「宋」のあとの「元」の時代なら、モンゴル人です。
ですから元寇のとき、福建省あたりの兵力(元の南宋の兵たち)が、日本に攻めてきていますが(弘安の役)、その人たちは、中国兵ではなくて、モンゴル兵です。
元のあとには「明」、明のあとには「清」が王朝を形成していますが、同様にそれぞれ「明人、清人」であって、中国人ではありません。
では、中国人というのは、いつ誕生したのかというと、中国という言葉が、いま台湾にある中華民国を略したものであるならば、誕生したのは昭和20(1945)年10月、それが中華人民共和国のことならば誕生したのは昭和24(1949)年です。
「いやそんなことはない。中国語を話し、漢字を使う漢民族がいるではないか」と思われる人がおいでと思いますが、まず現代中共においても、言語はさまざまです。紙幣さえも5ヶ国語で金額が書かれています。
私達日本人は、日本が古くて長い歴史を持ち、共通の言語でひとつの日本文化を形成してきているから、それがあたりまえのことくらいに思っていますが、世界は全然違うのです。
早い話、日本が中共に征服され、日本語が禁止となり、公文書がすべてChina語になり、役人も全部Chineseになる。
2〜300年のうちに混血が進み、気がつけば純血種の日本人などいなくなってしまう。そして日本人は存在しなくなって、日本は中共国民になる。
想像もしたくない野蛮で酔狂な話ですが、これが現実になっていたのが、実は大陸の王朝の興亡史なのです。
要するに「中国人という民族自体が20世紀まで存在しない」。
実はこのことは、宮脇淳子先生から、日本史検定講座で先日教えて頂き、私も頭をガツンと殴られたような衝撃を受けました。
けれど、実際そうなのです。
「中国人」というもの自体が、戦後にできあがったフィクションなのです。
なぜかというと、日本人がいたから彼らはそれに対抗して「中国人」と自分たちを呼び始めた。
そして中国4千年とか5千年とか言って、日本人よりも前から中国人がいたことにした。
それ自体が、「古いほうが正統性があるという競争意識」によるものでしかないのです。
もちろん戦前にも大陸には人がいました。
彼らは、王朝が交代するたびに、風俗も言語も習慣も変わってきている人たちです。
ですからそういう人たちを呼ぶ適切な言葉がないので、古代の「秦の始皇帝」の時代の「秦」を「China」と呼び、あるいは「シナ」と「世界中が」呼んでいたのです。
さて、日本に対抗意識を持ったのは、中共ばかりではありません。
これはアメリカも同じです。
GHQは、なんとかして日本を破壊しようとしました。
そこでGHQが行ったことが、昭和23(1948)年のA級戦犯とされた7名の烈士の処刑です。
彼らはこれを、当時の皇太子殿下(いまの今上陛下)のご生誕の日、つまり次の天皇の誕生日である12月23日に、意図して行っています。
またまた脱線しますが、この処刑は、ただの報復虐殺です。
このとき処刑された方々のその罪状は以下の通りです。
■東條英機(陸軍、第四〇代内閣総理大臣)
罪状:ハワイの軍港・真珠湾を攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪。
判決:死刑
(それなら原爆投下や都市部への無差別空襲は戦犯ではないのか?)
■板垣征四郎(陸軍、陸相(第一次近衛内閣・平沼内閣、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長)
罪状:中国侵略・米国に対する平和の罪
判決:死刑
(平和政権である汪兆銘政権をないがしろにし、毛沢東の八路軍と結託した蒋介石に武器弾薬を裏から与え、Chinaを戦乱の渦に叩き込んだ米国には罪はない?)
■木村兵太郎(陸軍、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣))
罪状:英国に対する戦争開始の罪
判決:死刑
(戦場になったのは、英国ではなくビルマなど東亜諸国です。そこを侵略し支配下に置いていた英国を追い出したのは日本です)
■土肥原賢二(陸軍、奉天特務機関長、第一二方面軍司令官)
罪状:中国侵略の罪
判決:死刑
(Chinaへの日本軍の駐屯は、各国と足並みを揃えたいまでいうなら国連PKOのような形での駐屯です。それが侵略というなら、当時Chinaに派兵していたすべての国が罪となるはず)
■武藤章(陸軍、第一四方面軍参謀長(フィリピン))
罪状:一部捕虜虐待の罪
判決:死刑
(日本自体がたいへんな食糧不足な中で、ゴボウを糧食に出したことが、木の根のような粗末な食い物を出したという裁判は、誰がどう見ても異常なのでは?)
■松井石根(陸軍、中China方面軍司令官)
罪状:捕虜及び一般人に対する国際法違反
判決:死刑
(実際の戦記を調べて見ると、松井大将ほどハーグ陸戦条約を遵守した大将は、世界に類例がないのでは?)
■広田弘毅(第三二代内閣総理大臣)
罪状:近衛内閣外相としてChinaでの残虐行為を止めなかった不作為の責任
判決:死刑
(それなら日本人に対して戦前戦後になされた不条理は誰がどう裁くのか?)
つまり判決は報復のための茶番でしかないのです。
戦後、米国は大東亜戦争を太平洋戦争と読み替え、「自由と民主主義の勝利」と宣伝してきましたけれど、大東亜戦争を結果からみれば、戦後にスターリン・ソ連の大進出を許し、彼らに億とも呼ばれる人々の虐殺を許してしまっています。そういう眼で見ると、必ずしもこの戦争の勝利者は米国を中心とした連合国にあるとはいえません。
いまにして思えば、この戦争のはじまる前に、もし、米国が蒋介石を支援せず、す早く仲裁に入っていたらどうなっていたか。
日蒋が戦えば、得をするのは共産陣営だということは、当時共和党のフーバー元大統領などは明確に指摘していたことです。
にもかかわらず、ルーズベルトは共産主義の危険性が判らず、日本を憎み、ソ連のスターリンと仲良くしました。
結果、ルーズベルトは、資本主義国家同士の闘争を狙ったスターリン戦略にまんまとしてやられ、115億ドルもの巨額な戦費を騙し取られたあげく、多くの米国人の生命の犠牲をもたらしています。
そして大東亜戦争のあと、共産主義陣営は大躍進し、周辺国への大侵略を開始しています。
結果からみれば、米国は何のために戦争したのか、わからないのです。
東亜における植民地はぜんぶ失ってしまった。
共産主義との冷戦を招いた。
さらには共産主義国内での大量虐殺を放置した。
さらに昨今では、米国国土をChineseたちに蹂躙され始めてさえもいます。
米国はまる7年間、日本を占領しました。
この占領行為も、国際法上の違法行為のオンパレードです。
そもそも占領統治にあたっては、軍はその国の法律、習慣、宗教等を尊重しなければならないのに、こともあろうに憲法を押しつけ、東京裁判をひらき、なんとありえない事後法によって被告人を裁くという暴挙をしています。
これは米国が、正義ではなく、ご都合主義の力に頼る国であるということを、世界に晒した結果になります。
さらにいえば、日本が戦前アジアにおいて果たした役割を、戦後、米国は丸抱えにしましたが、それによって米国が支払ったコストが、どれだけ高いものについているか、もし、日本を支援していれば、そのコストは、すべて日本が負担していたことを考えれば、米国は、結果としてみれば、大損をしているわけです。
それもそのはずです。
結果として彼らは、自分たちがキリスト教国でありながら、大統領さえも神に誓をたてることで、大統領としての権力を発揮できるという国でありながら、東西文化融合の象徴である天長節を、東西文化融合の破壊の日として報復的処刑の実行の日としたのです。
彼らのその後の失敗は、ご神意というべきものであったかもしれません。
いづれにせよ、東京裁判というものが、戦勝国によってなされた壮大な茶番であったとことは、もういい加減、日本人の常識として定着すべきことです。
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東京裁判~世紀の茶番劇

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