■オーディオブック■
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第二巻: 「和」と「結い」の心と対等意識』
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先日、修験道(しゅげんどう)のことを、「しゅうげん道」と読んでいる人がいてびっくりしました。
「祝言(しゅうげん)」といえば、結婚式のことですが、音だけを聞くと、まるで「修験道」が「結婚道」みたいになってしまいます。
素読などでは、ご高齢の80代、90代の方は結構スラスラと活字を読むのに、世代が若くなるに連れ、だんだん読めない漢字が増えてくる。
普通なら逆です。実におかしな現象です。
沖縄のある私立大学の調査に、小学校2年生の計算を小学校2年生と同じ速さと正確さでできる大学生が2〜3割しかいなかったという報告があるそうです。
早慶レベルでも5人に一人は分数の計算ができないのだそうで、新聞を読む生徒となると1割もいないのだそうです。
考えてみると、戦前戦中の教育では、まず初等教育では、「読み書きソロバン+修身」が教育の基本でした。
文字を読むこと、文字が書けること(これがなくては教育さえできない)に加えて、ソロバンでは劇的に暗算能力が高まりました。
日本では掛け算九九は、9×9までしか教えませんが、現代インドなどでは、掛け算は99×99までを暗記します。これはけっこうたいへんなことだと思うのですが、日本では、九九までしか習わなかったことには理由があって、代わりにソロバンを習ったのです。
ソロバンは実にとてつもない道具で、これをマスターすると億単位の掛け算割り算でもたちどころに暗算できてしまうし、帳簿などでもページの上の行から下の行まで、眺めただけで合計金額の計算が暗算でできてしまう。
こうした言語能力に計算能力を鍛え、さらに修身では、人間としての道徳心を教えてくれていました。
これが初等教育だったわけです。
そして中等教育では、それらの能力を用いての具体的な技術(いまでいう商業高校、工業高校のようなカタチ)が教えられ、さらに高等教育では、社会のリーダーとしての師範となれる人材の育成が図られていました。
つまり、初等、中等、高等教育に、それぞれ明確な目的性があったわけです。
ところが戦後、この日本の教育体制は破壊されました。
教育は「高潔な志を持った立派な社会人をつくる」という目的を失い、かろうじて初等教育としての読み書きや計算問題は残ったものの、戦後教育は、ただテストという名前の「クイズ」に早く答えるためだけの教育となり、「志」は「夢」と置き換えられ、「立派」は、「ただ楽をして高給を得る人」へと置き換えられました。
さらにおかしなことに、国語や社会などの文系科目は、小学校で習ったことを、また中学校でも高校でも繰り返しているだけのものになりました。
これでは生徒たちが飽きるのは当然で、理系は技術だけにそうでもないのだけれど、文系では、知能指数が高くて感受性の豊かな生徒ほど、早い段階で学校教育に飽きてしまう。
逆にいえば、それでも飽きずに高校、大学まで進む生徒というのは、ある意味、感受性に乏しい鈍感な生徒(ごめんなさい)でなければならず、結果として、大学まで出ていながら、字も読めず、掛け算九九さえもあやしい日本人が、若年労働力としてもっとも社会人として鍛えられるはずの年代を、意味もなく大学ですごし、社会人となる頃には、使い物にならない状態にまで成り下がっている。
なんだかとっても可愛そうで申し訳ない言い方をしてしまっていますが、すこし冷たい言い方をすれば、就職難は単に「景気だけの問題」ではなくて、企業として是非とも採用したいと思える人材が、残念ながら大卒であっても、なかなかみつからない、というのが採用する側の本音でもあるのです。
昔は、板前さんでも、大工さんでも、あるいは工場の職人さんでも、「使えるようになるには最低でも10年はかかる」といわれたものです。
日本刀の鍔(つば)は、彫金によって造られますけれど、その技術は12歳くらいから丁稚の修行をはじめて、親方の手伝いをしながら最低でも20年間、毎日修行を続けてようやく一人前の職人となれた。
あるいは最近でも、厚さ数ミクロンの正確さを競うような最先端技術を持っている職人さんは、大卒ではなくて、昔、中学を出てすぐに就職し、人生をまさに技術一筋に捧げてきて、いまなお、世界の最先端にある。そんな人たちは、いま、みんなご高齢です。
先日、ある先生からお手紙をいただいたのですが、そこに、
「扨(さて)、さてはそのときの気分に応じて偖(さて)と使い分けているのですが・・・」という一文がありました。
戦後教育を受けたわたしたちは、文章の書き出し、もしくは文をあらためるときの書き出しとして使う「さて」は、ひらがなの「さて、」だけしかもっていません。
けれど戦前の教育を受けられた方は、おなじ「さて」でも、「扨(さて)」と「偖(さて)」と使い分けます。
「扨(さて)」は、もともとの漢字は「扠(さて)」です。
「扨」は、真剣をもって言論の戦いを挑んでいる最中に、いったん手にした刀をおさめる様子を意味する漢字です。
つまり、抜刀して真剣勝負していたけれど、ここでいったん刀を鞘におさめ、姿勢をあらためて話し合いを続けよう、といった語感のときに、「扨(さて)」と書きます。
もうひとつの「偖」は、もともとは「扌」に豪奢の「奢」と書く「撦」が簡略化されたもので、「さてもさても豪奢なことに」といった語感があります。話がここからいよいよ発展して、ここから豪華な話になりますよ、といったときにつかうのが「偖(さて)」です。
同じ文章を書くのでも、ひらがなの「さて」しか知らない戦後の日本人と、「さて、扨、偖」を使い分けた戦前、戦中の日本人。
微妙な感性を豊かにもっていたかつての日本人と、いまの日本人では、なんだか知的レベルが違いそうです。
あるいは、5〜7桁の数字なら、足し算も引き算も掛け算も割り算も、頭のなかのソロバンで暗算できてしまっていた昔の日本人と、大卒でも九九がわからない現代の日本人。
厳しい道徳教育を受け、日本の国のなりたちや、日本人としてのアイデンティティをしっかりと身につけていたかつての日本人と、道徳教育を否定され、日本のなりたちも知らず、アイデンティティを持たないのみならず、集団行動で「前へならえ!」も知らない、教わっていないという現代日本人。
あらためて、「教育とは何か」と問いかけたく思います。
ただ、これは古くから続くものですが、日本人の漢字文化への傾斜、儒教漢学への傾斜は、日本文化におおいなる深みを与えた一方で、さまざまな日本文化への弊害をももたらしています。
ところが日本人には、もって生まれたDNAがあるわけです。
戦後教育が徹底し、大学を出ても分数や九九さえわからず、漢字も読めない、道徳教育もない、という授業を受けて育った若い世代の中に、逆に、大人になって、自ら積極的にアイデンティティを身につけようとし、現代教育にも真正面からNOを突きつける若者が増えてきました。
その意味で、逆に「日本を取り戻したい」と真剣に願いかつ考え、また行動するだけでなく、真実の歴史を知ろう、日本国民にとって最良の経済の選択とはなにか、あるいは取り戻すべき日本の文化とは何かなどについて、自分で調べて知識を得る、つまり「シラス」ことを始める人は、むしろいまの若い人たちに急激に増加しています。
これを世代間の対立と捉える人もいるようですけれど、そうではなくて、教育が左傾化し凋落することによって、逆に、若者たちが本来の日本人の姿に目覚めだしてきているのです。
日本人は、馬鹿ではない。
日本人は、与えられた教育とは別に、すでに勝手に目覚めだしているのです。
むしろ教育が、はるかに遅れている。
おそらくいまの若い世代の人たちが、20年経って社会の中核をなすようになったとき、日本はいまとはまったく別な、いまよりもさらに勁(つよ)い日本になっていようと思います。
なぜなら本来の日本の姿を、人から与えられたものではなく、自分の力で調べ、目覚めた人たちが社会の中核となっていくからです。
その意味では、左翼が戦後行った日本の教育崩壊のアプローチは、結果として真逆の結果をもたらしているといえます。
日本は、誕生して100年、200年の欧米型個人主義や共産主義のような薄っぺらな思想で壊せるようなヤワな国ではないのです。
日本人は、縄文以来2万年、神武天皇時代からなら2700年、有史時代からなら1300年という世界最古の歴史を刻む民族です。
昭和50年代というと、戦争が終わって30年経った頃だけれど、その頃には「わしゃあ尋常小学校しか出ていないよ」という社長さんがたくさんいました。
事業で大成功して社員もとても大切にしてくれているような会社がたくさんありました。
おやじの友人だった某製造工場の社長は、尋常小学校を出た後、丁稚奉公に出て、戦後は大八車を引きながら行商をして歩き、ホンダのスーパーカブが出た頃は、カブでリヤカーを引き、「冬のバイクは寒いので胸のところに古新聞を入れて走ったものだよ」と、昔、笑って話してくれました。
先日ご紹介した望月カズは、6歳で母親と死別し、以降まる11年間、Chinaで農奴として悲惨な待遇ですごしました。けれど彼女の生涯はまさに日本的精神そのものに生きたものです。
これらは、戦前の初等教育が素晴らしかったというばかりではなく、日本人に刻まれたDNAのなせる業といえるかもしれません。
ともあれ、日本はいま、急速に目覚めつつあります。
この流れは、どんなにメディアが総力をあげて情報操作をしようとしても、もはや止めることはできないものです。
日本は蘇る。
陽はまた昇ります。

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