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『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第二巻: 「和」と「結い」の心と対等意識』
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富士山0111

日本の歴史のターニングポイントというのは、大きく2つあります。
それが「7世紀」と「19世紀」です。
7世紀に何があったかというと、Chinaという外圧によって、国内が統一され、大化の改新が行われて日本が天皇のもとに統一されたという出来事です。
19世紀に何があったかというと、欧米列強という外圧があって、日本が再び天皇のもとに統一されたという出来事です。
そして19世紀に行われた明治維新にはじまる日本の統一は、実は7世紀の大和朝廷の仕組みを、形を変えて日本の体制に復元した、というものです。
そこで7世紀に行われたこと、つまり、天皇のもとに日本が統一されたというできごとを考えることは、同時に19世紀の維新を知ることにもつながるということができます。
なぜなら、日本の歴史はずっとつながっているからです。


その7世紀に起きたこと。それが天皇を政治的権力者ではなく、政治的権力者(いまで言ったら内閣総理大臣以下の閣僚、少し前なら武家政治の中心者である将軍など)に、その権力者に「権力の認証」を与える「権威」としたことです。
たとえば、Chinaの皇帝というのは、権力者であり、人民に対する絶対の支配者です。
そしてその支配者としての権力は、天の神から与えられます。天の神が、「おまえはもう統治者として不適格だ」とお怒りになると、そこで革命が起こって、別な家系にその権力者を移します。これが易姓革命です。
こうした統治形態は、Chinaに限らず、世界中で行われていたことです。
たとえばフランスのルイ王朝など、まさに絶対王政といわれる統治形態、これなども、ルイ家の政治権力は、神によって認証され権威付けられるという形をとっています。
似たようなことは、いまでも行われていて、たとえば米国大統領も、もちろん民意によって選挙で選ばれますが、その選ばれた「人」が、大統領という「権力者」になる前には、神による「認証」が行われます。
「認証」があって、はじめて統治者として認められる。
ところが日本における天皇の存在は、7世紀においても、19世紀においても、またそれ以外のどの時代においても、天皇が権力者であった時代はありません。
天皇は、政治を行う者に「認証」を与える「権威」としての存在です。
つまり、日本では、大陸や西欧でいう「神」の位置に、天皇がおわす、という形をとり、その形が完全にわが国に定着したのが、7世紀であった、ということです。
ではなぜ天皇が、諸外国でいう天の神の位置におわすかというと、その原点が神話にあります。
アマテラスオオミカミからの血の血脈が皇統です。
つまり神の血をひく直系の子孫が天皇であるわけです。
そして血統をもつ天皇が、神のもとに政務を司る者に権威を授ける。
そういう仕組みが7世紀に完全にわが国に定着したわけです。
そして、ここから大事なポイントなのですが、このときに、実はもうひとつ、ものすごく大きな出来事、しかもそれは世界にも類例のない、ものすごいことがわが国で起こっています。
それが何かというと、一般の民衆が「公民(おおみたから)」とされたことです。
みなさんは「公地公民制」という言葉を聞いた頃があろうかと思います。そこで使われてる「公民」です。
その「公民」とは何かというと、実は、天皇の民ということです。
そして将軍とか、大政大臣とか、関白とか、内閣総理大臣とか、様々な権力者の形はありましたが、それら施政者としての権力者は、その「天皇の民」を預かる立場となった、ということです。
つまり、日本における統治者、つまり、大名や将軍や関白や、身近なところでは、部長さんや課長さんや社長さんにいたるまで、人の上に立つ者は、絶対的権力者や支配者ではなく、「天皇の民」すなわち「公民」のたちの生活を守るために、「公民」たちを預かっている立場、と規定されたわけです。
そして預かっている政治権力者も、同じ「天皇の民」つまり、「公民のひとり」だと規定されたのです。
そしてこれこそが、わが国の精神文化の源流となっています。
つまり、一寸の虫にも五分の魂という気概が、一般庶民の精神の根底に常に存在し続けているということです。
大陸や西欧では、そうはいきません。
君主はまさに絶対権力者であって、言うことを聞かないものに対しては、まさに生殺与奪の権力を持っています。
王が命令して、言うことを聞かなければ、一族郎党皆殺しなんてことも、普通に行われるわけです。
最近でも「王様ゲーム」なんてのがあるのだそうです。
ジャンケンで王様になった人は、それ以外の人に対して、なんでも好きな命令ができる。命令された側は、絶対にそれを聞かなくちゃ行けない。
けれど、ゲームであっても、日本人なら「そんなのヤダヨ」と平気で断ったりしてしまう。というか何か違和感がある。
日本においては、支配者は、絶対君主と異なり、公民を預かる人です。自分もみなと同じ公民のひとりです。
ですから、みんなの意見を聞いて、みんなの意思をとりまとめて、みんなの協力を得てことを前に進めようとする。
主君が「俺はエラいんだ」などと思い込んで、横暴な働きをすれば、家臣たちが集まって相談し、「主君押込め」といって、主君そのものを廃絶してしまう。
江戸時代の伊達騒動や、上杉鷹山の押し込めなどが有名です。
なぜそんなことが起こるかといえば、主君は、絶対権力者ではなく、常に公民を預かる立場の人だからです。
日本で、「えらい人」というのは、絶対的権力者を意味しません。「えらい人」は「偉い」のではなく、「エライ人」つまり、みんなのために汗をかく、しんどい責任を与えられた人という意味を持ちます。
これを大陸的「偉い人」と混同すると、日本の歴史は見えて来ません。
日本は、あくまで庶民が全部天皇の民であって、施政者から商店主にいたるまで、その天皇の民を責任をもって預かっている立場だからです。
このことは、いいかえると、日本はすでに7世紀の昔に究極の民主主義を実現していた、ということです。
人が人を支配するのではなく、みんなのために働くことが施政者の役割、と規定され、それが日本人の精神として定着しているからです。
こんな制度を築き上げた民族は、7世紀という時代を考えれば、世界中どこを探してもありません。
このことは、ある意味、人類史の奇跡といえるかもしれない。
さて、このことがいまの政治の話とどう繋がるのか、この続きは明日の記事に書きます。
※この記事は2013年1月の記事の再掲です。
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