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嘉永6年(1853)年といえば6月に黒船来航があった年です。
ペリー率いる4隻の黒船が三浦半島の浦賀に入港し、幕府に米大統領の親書を手渡したということは、いまでは日本人なら誰もが知っていることです。
けれど日本はこのときすぐに米国と通商条約を交わしたわけではありません。
幕府が通商条約を交わしたのは翌、嘉永7年(1854)2月で、8ヶ月後のことです。
では1回目のとき、ペリーが何をしたのかというと、日本側の慌てふためきを尻目に、東京湾の測量をしていました。
地図で見たらわかりますが、東京湾は入り口を三浦半島と房総半島が塞いでいます。
艦隊が侵入してきたときに、浦賀と富津岬から砲撃を加えられたら、少数の艦隊ではひとたまりもないのです。
ですから攻めこむためには、それなりの準備が必要です。
戦いは、突発的な喧嘩とは違います。
だからペリーは最初は東京湾の正確な測量を行ったのです。
その頃、幕府の側も慌てふためきました。
それにはちゃんとした理由があります。
最大の問題は江戸市民の安全と食料、経済の保持です。
幕府は江戸260年の泰平の世にありました。
幕府は、陸戦を防ぐために、全国の街道を狭くし、大きな川には橋を架けなかったりと防衛体制を築いていました。けれど鎖国をしていた安心から、海防には無関心でした。
そして海路は、もっぱら江戸の物流の中心を担っていたのです。
江戸は当時、世界最大の人口を擁する大都市です。
昔も今も一大消費都市ですので、食料の自給能力がありません。
ですから食料調達は地方から河川や海路を使って仕入れていました。
これは実に合理的な仕組みです。
なぜなら馬車や大八車でモノを運ぶより、水路を船で運んだほうが、安く早く合理的だからです。
東海道、中山道、日光街道、東北道、関越道は、五街道と呼ばれる大規模街道ですけれど、当時の道幅は1間(1.8メートル)しかありません。
幕末から明治の写真を見ても、街道に車輪の跡もありません。
物流をすべて水路に頼っていたからです。
ですから、ベリーの艦隊と戦争になれば、民家が戦火による被害を受けるというだけでなく、物流が停滞し、江戸200万の市民が、たちまちのうちに飢えてしまうのです。
幕府は、天皇の民を庇護し、守るのが最大の役割です。それこそが幕府の存在理由です。
にもかかわらず、その幕府が外国との争いのために江戸市民を飢えさせたとあっては、幕府はその存在理由を失います。
こう書くと、「それは後講釈じゃないの?」という方がおいでになるかもしれませんが、違います。
同じ時期に他の国々も開港を求めて日本にやってきていますが、幕府は、けんもほろろにこれを追い返しています。なぜなら彼らがやってきたところは、物流に影響がなかったからです。
東京湾の測量を終えたペリーは、いったん琉球に引き上げまし。
その琉球で、ペリーは何をしていたのでしょうか。
当時沖縄にあったのは、1429年に成立したとされる琉球王朝です。
1429年といえば、日本では室町幕府が成立して間もない頃です。
その琉球王朝は、関ヶ原の戦いのあと、薩摩の島津氏の支配下に入りましたが、実質的には自治領で、琉球の王朝は存続させられていました。
このことを「島津侵寇」などといい加減な名前で呼んでいる学者さんもいるようですが、全然違います。
なぜなら島津氏が琉球を征服し、支配下に置いたというのなら、琉球の王朝は滅んでいなければならないからです。
ところが琉球王朝は存続しています。
なぜ存続しているのかといえば、薩摩藩がこれを認めていたからです。
島津の兵力をもってすれば、当時の琉球王朝など、完全征服し、王族を殺し、沖縄を完全に支配下におくくらいのことは十分にできました。
ところが、島津氏には、それだけの意欲がまるでみられないのです。
なるほど島津氏は1609年3月末に3千の兵を琉球に派遣しています。
琉球王朝は、これに対し、4千の兵力でこれに対抗しようとしたのですが、4月1日には首里城が薩摩兵に囲まれ、4月5日は琉球王は薩摩に降伏しています。
初戦でのあまりの薩摩強さに、ほとんど琉球王はなすすべもないままに、薩摩に降伏したのです。
この結果、琉球は薩摩冊封国(薩摩藩の庇護下に置かれた国)となったのですが、薩摩島津氏は、琉球から戦争をしないために庶民が武器を持つことは禁じた(これにより琉球空手が発達しました)ものの、琉球王を対等な「国」として処遇し、明治になって廃藩置県が置かれるまで、平和な関係を続けていました。
ではなぜその薩摩が琉球を制圧したのかといえば、これには理由があります。
当時の世界にあっては、スペイン、ポルトガルの世界征服のあと、第二波として、英国やフランスなどが、東亜に進出しようとしてきていた時代背景下にありました。
そして、それらの外国の脅威は海路を使ってやってきます。
琉球を情報拠点にすることは、植民地支配から身を守ることだったのです。
ここは大切なポイントです。
薩摩が琉球を武力制圧し、支配したという先生などがいますが、では、その薩摩藩は、琉球にどれだけの兵を派遣し、常駐させていたのでしょうか。
答えは、ほぼゼロです。
まるで支配などしていないのです。
では、何のために薩摩が琉球に手を伸ばしたかといえば、諸外国の動勢をいち早く知るための情報拠点として、琉球を支配下においたのです。
支配下においたと聞くと、すぐに植民地だの、収奪だのと思い込みたい人も多いようですけれど、薩摩にとっての琉球支配の目的は、琉球の民衆や王朝からの収奪ではありません。
あくまでも諸外国の動勢を探るための情報拠点としての確実性を担保するために、琉球支配をしています。
ですから、その目的以外の部分、つまり琉球王朝からの朝貢も、あるいは琉球庶民に対する税の徴収も、薩摩はしていません。必要がないからです。
そして一般には、税の徴収も朝貢も不要な状態を「植民地」とか「支配」とは呼びません。
さらに島津氏は、琉球王が当時の明国(のちには清国)と交易し、明王朝や清王朝の冊封を受けることについて、まったく問題にしていません。
あたりまえです。海軍力を持たない明や清は、海上防衛の見地からすれば、まったく問題にならなかったからです。
昨今の沖縄では、沖縄教組あたりが「琉球は薩摩によって暴力的に支配されたが、明国や清国に冊封を受けて平和に暮らしていた」などと、おバカな解説をしています。
もし薩摩が琉球を庇護しなければ、明が崩壊して清が起こった時、清はChinaで最大版図を持った軍事大国です。
その清が、もし琉球に攻め込んだらどうなるか。
元寇のときの壱岐、対馬を見れば明白です。Chinaの軍事行動の兵站は人肉なのです。
こうして薩摩によって庇護され、薩摩とも、明国(のちには清)とも交易をしながら、ゆっくりとした時の流れの中に沖縄も244年の平和を築いてきた琉球でしたが、そこに嘉永6年、突然、ペリーの黒船艦隊が現れました。
ペリーは、沖縄にやってくると、いきなり艦隊の全砲門を首里城に向けたまま、重武装した500人の兵を上陸させました。
そして速射のできる大砲を前面に押し立てて、そのまま首里城まで進軍し、琉球王に食料と艦船の燃料である石炭の提供を「命じ」ました。
これは、要求とか交渉とかではありません。いきなり「命じ」たのです。
ところが沖縄は石炭を産出しません。
そう言うとペリーは、「ならば琉球諸島全部から石炭を探して掘ってでも持ってこい」という。
言うことをきかなければ、大砲を打ち込み、全員皆殺しにするというのです。
大汗を書きながら、とにかく石炭はないのだと答えると、では「上陸した乗組員たちの自由な行動を認めろ」という。
「その程度ならば」と安心して応じたのが、とんでもない間違いでした。
琉球の市内に上陸したペリー艦隊の乗組員たちは、街を歩く若い琉球の女性の乳房を触るだけでなく、昼間から市中で強姦を始めたのです。
あるいは勝手に民家に上がりこんで、仏壇にお供えしてある酒や食べ物のみならず、先祖の「位牌」まで持って行ってしまう。
さらには強姦に抵抗しようとした住民に向けて銃を発砲し、12歳の少年を含む3人の村人を負傷させたほか、ナイフを突きつけて民家に押し入り、強姦、暴行、傷害をほしいままにしたのです。
琉球の住民たちは怒りました。
ついに米国人水兵たちに投石をはじめまたのです。
その結果、ウイリアム・ボードという水兵ひとりが、石のあたりどころが悪くて死亡しました。
するとペリーは、石を投げつけた住民たちを、逮捕し、死罪にせよと琉球王に要求しました。
琉球王は、投石した住民を逮捕し、ぺリー同席のもとで裁判を行い、彼を八重山に流刑にしました。
流刑になった犯人は、妻を犯され、息子を殺された被害者だったのです。
そして加害者である米国人水兵の狼藉は、一切問題にされることはありませんでした。
ペリーが沖縄にいたのは、わずか7ヶ月のことです。
けれどその7ヶ月間、沖縄の人々は、まさにこの世の地獄を味わったのです。
薩摩は、この後に、薩英戦争などを起こしていますが、こうした琉球で現実にあった事件を目の当たりにすることで、銃砲によって武装する近代軍隊の必要を、切実に感じ、これを藩論にまで高めていったのです。
嘉永7年、再び江戸湾を目指したペリーは、そこで異様な光景を目にしました。
東京湾に、8ヶ月前にはなかったはずの、砲台が、ズラリと並んでいるのを見つけたのです。
お台場砲台です。
この砲台は、伊豆韮山代官であった江川英龍(えがわひでたつ)のお殿様が、幕府に献言して、わずか半年で築いた海上砲台でした。
海の中に、人工島を、たった半年の間に3つも築いてしまったのです。
このお台場の砲台は、高輪のお山を崩して、築きました。
おかげでいまでは、高輪の山は、半分しか残っていません。
その半分になったお山の上に、いまは、東京タワーが建っています。
こうして築かれた砲台に、なんと、大砲がズラリと並びました。
揺れる海上からの砲撃と異なり、陸上砲台からの砲撃は正確です。
3つのお台場から繰り出される砲弾は、十字砲火となり、もし戦いとなれば、わずか数十分でペリーの艦隊を沈めてしまいます。
驚いたペリーは、今度は幕府に命じられるままに、横浜に上陸しましたが、そこでは一切の乱暴を働くことはできませんでした。
日本側の防衛力が圧倒的だったからです。
ただ、そうは言っても、戦争となれば、江戸に住む多くの民衆に被害が出ます。
また、ペリーの持つ圧倒的な黒船の海軍力は、まさに泰平の眠りを覚ます蒸気船でした。
幕府は、日米和親条約を締結し、時代は幕末の動乱の時代へと入っていきます。
ちなみにこの日米和親条約の締結のとき、ペリーが幕府側の使節に対して、長細い箱をプレゼントしたのは、有名な話です。
ペリーは言いました。
「もし戦いになり、あなたがたが降参するときは、いつでもその箱の中身を取り出して、私達に見せなさい」
箱の中身は、「白旗」でした。
仮にも一国の代表に向かって、この上から目線は、米国の古来変わらぬ力の外交の精神です。
いまでは、第二次世界大戦後の世界秩序のなかにおいて、世界人権宣言などが出されたため、あまりおおっぴらにこうした外交ができないというだけのことで、その中身はまるで変わっていません。
一方、日本では、もともと白旗は源氏の旗印です。
けれどこの日を境に、白旗は日本でも降参の印となりました。
それほどまでに、このときのペリーの外交姿勢は強硬だったのです。
けれど「力による支配」は、その究極の姿は、もっとも力のある個人が、世界を制覇し、世界の富を独り占めするというものです。
力の正義に、民衆の善意と幸福はありません。
力による圧政は、支配者にとって都合が良いだけで、それは圧倒的大多数の民衆の幸せを犠牲にすることで、ごく限られた一部の人の贅沢を保証するものでしかないのです。
日本はそうではありません。
日本は、民衆を天皇の「おおみたから」とし、その天皇は政治支配権を持たず、政治支配をする人を親任するというのが国の形です。これが国体の意味するものです。
その結果、民衆は、国の最高権威にとって、もっとも大切な宝とされるわけです。
そしてすべての政治は、民衆のため、おおみたからのために行われる。
これこそ、世界が何千年ものあいだ求め続けたていた究極の民主主義です。
これが「シラス」国です。
そして私達の先輩たちは、その国の形を守るために教育を受け、勇敢に戦い、散って行きました。
戦後、なにやら、そうして散っていかれた英霊を貶めるような発言をすることが、まるで正義であるような論調が目立ちましたが、結局のところ、そうした人たちは、究極の民主主義である「シラス」国を否定し、なんのことはない、自分が支配層、支配者となって、富を独占したいだけの「ウシハク」者たちに他ならなかったわけです。
インターネットが普及し、真実を誰もが簡単に閲覧できる時代になりました。
「シラス国」は、漢字で書いたら「知国」です。
「ウシハク国」なら、民衆はバカになります。
情報は支配層が独占し、民衆は教養そのものが奪われ、操作された情報しか与えられず、支配層に都合の良い情報しか流されなくなるからです。
さらに支配層にとって都合の悪い情報をもたらす者は、逮捕されます。
けれど日本のみならず、世界はネットの普及によって、いまや世界中が「シラス国」に変化しつつあります。
ということは、時代は変わる、ということです。

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