
「仁徳天皇御陵」は、仁徳天皇の陵墓であり、日本の誇る前方後円墳です。
ところがこの御陵をめぐって、二つの動きがあります。
ひとつはその呼び方の問題、もうひとつは文化遺産登録に関する問題です。
いずれも、日本という国が持つ、古くて長い歴史を否定しようとする動きに端を発するものです。
1 仁徳天皇陵
「仁徳天皇陵」は、正式名称を「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」といいます。
この陵墓には、記紀に記載があります。
まず『古事記』では、大雀命(おほささぎのみこと=仁徳天皇)が83歳で崩御され、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があると記述されています。
『日本書紀』ですと、仁徳天皇は仁徳天皇87年(399)正月に崩御され、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとの記述があります。
「百舌鳥耳原中陵」という言葉は、平安時代の法令集である『延喜式』に登場する言葉で、そこには仁徳天皇の御陵としてその名前と、場所と大きさが記述されています。
「百舌鳥耳原中」という名前は、この場所で、「ある日、突然鹿が飛び出してきて急に倒れて死んでしまったので、見に行くと、鹿の耳から百舌鳥(もず)が飛び出した、その耳を調べてみると頭の中身が百舌鳥に食い荒らされていた」という伝承からきています。
実際にモズには、そのような習慣はありませんので、この故事の持つ意味は「御陵を不可侵にせよ」という意味であろうと思います。
2 呼称の問題
すくなくとも、昭和40年代くらいまでは、この御陵は通称「仁徳天皇陵」、正式名称「百舌鳥耳原中陵」で、誰も何も疑問にさえ思っていませんでした。
ところが、最近の若い人が「仁徳天皇陵」を知らない。
聞かれても何のことだかわからない。
要するに学校の教科書では、いまではこの古墳について「大仙古墳(だいせんこふん)」とか「大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)と書いてあり、子供たちはそのようにしか教わっていないのです。
なぜ「大仙陵」なのかというと、ここが仁徳天皇陵であるという「証拠がない」からなのだそうで、だから地名をとって「大仙陵」としているのだそうです。
馬鹿をいっちゃぁいけない。『記紀』にも『延喜式』にもちゃんとそのように書いてあります。
だいたいいまだに歴史教科書に「世界四大文明」などという「まやかし」を平然と書いているような教科書が、古来、日本の伝承としてちゃんと伝わっている仁徳天皇陵について、その名を勝手に変えるなど、許されることではありません。
【参考】「世界四大革命のウソ」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-791.html
そもそも、仁徳天皇といえば、我が国の施政の根本を教えてくださった偉大な天皇です。
「民のかまどは賑いにけり」の物語です。
仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられました。そして、
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と、向こう三年の租税を免じたというのです。
このお話には、さらに後日談があって、三年がたって、天皇が三国峠の高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申された。
「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」
「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
「よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
天皇は、ニッコリされて、こう申されましたといいます。
ここまでは、よく知られた話です。
ですが、実はこの話には、さらに後日談があります。
このお話を聞いた諸侯が、
「皇宮が破れているのに、民は富み、いまでは、道にモノを置き忘れても、拾っていく者すらないくらいです。それでもなお税を納め、宮殿を修理させていただかないならば、かえって、わたしたちが天罰をうけてしまいます!」と、申し出たというのです。
それでも仁徳天皇は、引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けにならなかった。そして六年の歳月がすぎたとき、やっと天皇は税を課し、宮殿の修理をお許しになったというのです。
その時の民の有様を「日本書紀」は、次のように生き生きと伝えています。
「民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、
日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。
いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。
故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。
みかど崩御ののちは、
和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る。」
民は、仁徳天皇に深く感謝し、誰に強制されるわけでもなく、誰に促されるわけでもなく、自ら進んで、材料を運び、荷物を背負って荒れた皇宮を修理したというのです。
それも、昼夜をいとわず、力を尽くし、競い合って皇宮の修理にあたったのです。
ですから、いくばくも経たずに、皇宮は、きれいに治ったというのです。
仁徳天皇は「聖のミカド」と呼ばれるようになり、お亡くなりになると、人々は、和泉国の百舌鳥野の陵に、仁徳天皇の御陵を作ったと日本書紀に書かれています。
仁徳天皇の御徳は、かまどの煙だけではありません。
1 難波の堀江の開削
2 茨田堤(まんだのつつみ:大阪府寝屋川市付近)の築造(日本最初の大規模土木事業)
3 山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水。
4 茨田屯倉(まむたのみやけ)設立。
5 和珥池(わにのいけ、奈良市)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造。
6 灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し広大な田地を開拓。
7 紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録。
などなど、たいへんな土木工事の貢献をされています。
みんなが飢えないように、みんなが腹一杯飯が食えて、元気に生きれるようにするためには、それだけの食べ物を作らなければなりません。
そしてそのためには、土地を開墾し、農地を造らなければなりません。
そしてその農地の中心になるのは、いうまでもなく「田んぼ」です。
その「田んぼ」は、いうまでもなく水田ですから水をひきます。
つまり、すべての田んぼが水平でなければなりません。
地面というのは、平野部であっても、詳しく見ればデコボコです。木も生えていれば雑草もある。岩もある。
それらをどかしたり、均したりして田んぼをつくります。
さらに、田んぼには、水路が必要です。
ところが水を引くだけですと、洪水の危険がありますから、当然、堤防工事も必要になります。
常識で考えたらわかることですが、大規模な開墾工事というのは、ひらたくいえば、壮大で大規模な土木工事です。
そして大規模土木工事を行えば、かならず大量の土砂が出ます。
出てきた土砂は、今ならダンプカーに乗せて港湾の埋め立て工事に使ったりしますが、大昔にはダンプカーなどありませんから、計画的にどこかに盛り土することになります。
こうしてできたのが古墳です。
だからこそ古墳は平野部にしかありません。
土木工事の結果できる盛り土だからです。
昔の人にとっては、そんなことは常識でした。
特に仁徳天皇陵がある堺市を、上空からみた写真をみたらわかります。
堺のあたりは、広大な平地です。
いまでは、家だらけになっていますが、ほんの数十年前までは、そこは広大な田んぼだったところです。
そしてその真ん中に、仁徳天皇の御陵があります。
以前、大林組が仁徳天皇陵を造るのに、どれだけの労力がかかったかを計算しているのですが、このときの計算では、完成までに15年8ヶ月、必要人員が延べ796万人かかるという計算になりました。
仁徳天皇のご治世の頃の日本列島の人口は全国でも4〜500万人程度です。
そんな時代にどうやって800万人も動員したのか。しかも工期が16年です。
その間、民衆は老若男女全員が、アホな無駄な土盛り作業だけに狩り出されていたとでもいうのでしょうか。
そんなことをしたら、民だけでなく、施政者たちまで飢えて全員死んでしまいます。
要するに、仁徳天皇は、人々とともに大規模な土木工事を行って水田を開かれたのです。
誰のためでもない。みんなのため、人々のため、民衆のためにです。
そしてその結果、つまり土木工事の規模がものすごく大きかった結果、堺に巨大な盛り土地が生まれたのです。
そして民は、そうした仁徳天皇に感謝したからこそ、仁徳天皇をその盛り土(御陵)に埋葬し、「和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る」と書き残したのです。
ちなみに、「陵」と書いて「みささぎ」と読みますが、「み」は敬称です。
「ささぎ」というのは、古語でサヤインゲンや大豆などが成るときに袋にはいっていますが(大豆の莢、下の写真参照)、その袋のことを言います。

御陵は横から見たら、大豆の莢(さや)そっくりです。
その莢(さや)の中には、人々のたいせつな食物である大豆の実がはいっています。
ですから、お亡くなりになった貴人を、その袋に埋葬する。
大規模な土木工事をして、大規模な開墾がなされ、みんなが腹一杯飯を食えるようになったのです。
そのことへの感謝を思えば、これはごく自然な発想だと思います。
ということは、仁徳天皇陵は、単に仁徳天皇の遺徳を讃えたというだけでなく、君民一体の心が、そこに込められている、ということなのです。
だからこそ、最初は単なる工事のための盛り土であったにせよ、最後はお世話になった仁徳天皇への感謝をささげ、そして遺徳を讃えた大切な聖地として、「余人立ち入るべからず」の意味を込めて、鹿と百舌鳥(もず)の挿話が生まれ、そこへの人々の立ち入りを禁じたのです。
そんなことは、すこし前までは、地元の人たちにとって、あたりまえの常識でした。
ところが偉い学者の先生は、何やら調査とか言ってやってきて、「古墳は天皇や豪族がその権威権力を誇示するために民衆を強制的に使役して作らせた墳墓である」と決めつける。
まだ、戦前の教育を受け、道路つくりや木の伐採、農地の開墾などを、村のみんなで協力してやっていた頃の経験を持っていた昔のお年寄りたちは、当時、よく言ったものです。
「学者の先生というのは、勉強ばかりしているから、きっと頭がおかしくなるんじゃのお。あがいな盛り土は土地の開墾すりゃあ、あたりまえにできるもんじゃ・・・。」
地方に行きますと「◯◯広域農道」と名前のついた道路がよくあります。
それらは、昔、農作業と農産物の運搬のためにと、近隣の農家のみなさんが、村の会議で全会一致でみんなで協力して築いた道路です。
最近は、なんでもかんでも行政マターで、行政の予算で土木業者が道路を作っていますけれど、ひとむかし前までは、日本中にあるすべての道路も、その道路脇にある側溝も、全部、近隣の農家のおやじさんや、あんちゃんたちが、鍬(くわ)や鋤(すき)や”たこ”を使って、手作業で道路を作っていたのです。

そして道路にせよ、田んぼにせよ、土地を整地すれば必ず行われるのが、切土と盛土です。
デコボコした土地を削ったり盛ったりするから、田んぼや道路ができるのです。あたりまえのことです。
同時に、開墾した水田地帯に、必ず必要なのが「水屋」です。
水田地帯は、水を張りますけれど、水を張るということは、大水や鉄砲水による被害も発生するということなのです。
大水が出れば、人々は小高い丘に避難しなければなりません。
そのために、あらかじめ避難場所として、小高い丘を作り、その上に丈夫な仮小屋を作っておく。
普段は見晴らしの良い観光スポットですが、それが万一の場合の避難所になるのです。
中小規模の古墳は、学者の先生方は墳墓のはずだ、お墓のはずだというけれど、なるほど古墳のてっぺんに何かの建造物があったらしい痕跡はあるのだけれど、肝心のお墓が出てこない。
これはおかしい。きっと埋葬した骨が長い年月の間に溶けてしまったに違いないとか、いろいろなご高説を述べておいでのようだけれど、盛り土のてっぺんは、土地を開いてくれた人のお墓にしたケースもあるし、避難所にしていたケースもあるというだけのことです。
これが仁徳天皇陵のような大型の古墳になりますと、大型の盛り土だけに、今度は、大雨の時に盛った土砂が流れ出してしまう危険があります。
ですから、そうした事態を防ぐために、超大型の盛り土では、周囲にお堀を巡らせました。
これまたあたりまえのことです。
土砂が流れたら、周囲の田んぼが土に埋まってしまうのです。
その代わり、仁徳天皇の御陵の周囲には、小型の古墳がたくさんあります。
天皇陵となっているものもあれば、いまだに墳墓であることが証明されていない古墳もあります。
これまた、あたりまです。そこは避難所です。
昔の人にとっては、そんなものは常識だったのですけれど、最近は、偉い学者の先生の見解から、なぜか豪族の権力の証という。意味が違うのです。
そしてさらには、記紀を否定し、仁徳天皇の実在まで否定し、ついでに仁徳天皇陵の呼び方まで「大仙陵」などと、おかしな呼び名をつけたりする。
頭がおかしいのではないかと言いたくなります。
そこが仁徳天皇陵でないというのなら、逆に、なぜ堺のあたり一帯は、高低差のほとんどない平野になっているのですか?、どうしてその平野に洪水があまり起こらないのですか?と質問したくなります。
3 世界遺産登録に反対する
平成20年に、文化庁が仁徳天皇陵を世界遺産に推薦する構想を発表しました。
これは実は仁徳天皇陵だけではなくて、履中天皇陵・反正天皇陵・仲哀天皇陵・応神天皇陵・允恭天皇陵などのある「百舌鳥古墳群」なども含まれます。
文化庁のこの発表は、もともとはその前年に大阪府・堺市・羽曳野市・藤井寺市が、世界遺産の国内暫定リストへの追加を求める提案書を提出したことを受けたものです。
「我が国の誇る御陵が世界遺産になるというのなら、結構な話じゃないか」と思うのは、浅はかというものです。
実は、この提案の背景には、とんでもない「ウラ」があるのです。
というのは、世界文化遺産に登録するためには、学者達による審査が必要になるのです。
その審査とは何かというと、「仁徳天皇陵であり、仁徳天皇のお墓というのなら、その墓をあばいて本当にお墓であるかどうかを調査せろ」という、とんでもない「条件付き」になっているのです。
要するに文化財としての実態があるのかどうかを、左巻きで「古墳=豪族たちが民衆を強制的に使役して奴隷のようにこきつかって自分の墓を築かせた」としか考えようとしない、もうしわけないけれど私に言わせていただければ「頭のおかしな自称学者」たちが、学生たちを引き連れて古墳を掘り返し、「墓あばきをさせろ」というのが、その背景にあるのです。
そしてこのことは、我が国における天皇の権威とその存在を否定したい人たちにとっての標的になっているのです。
これに対し宮内庁は、
「陵墓は単なる文化財ではなく皇室の祖先祭祀の場である。よって静安と尊厳を維持すべきものである」として、断固反対をしています。
当然のことです。
そもそも日本は、天皇を頂点とする君主国なのです。
たかだかできて70年にも満たない日本国憲法にどう書いてあるかがが問題なのではなくて、日本にはどんなに遅くに見積もっても1300年以上の天皇のシラス国としての歴史の重さがあるのです。
そして天皇が神聖にして不可侵の存在であり、その天皇によって、すべての民衆とすべての日本国領土が天皇の「おおみたから」とされることによって、私たちは権力者、民衆を私的に支配し収奪する権力者からの自由を得ているのです。それが日本です。
このことは逆に見たら、よりわかりやすいかと思います。
天皇という権威の存在がなければ、私たちは権力者に私的に支配される私物と化すのです。
その権力者が、たとえ選挙など民主的な方法によって選ばれたとしても、ひとたび権力を得てしまえば、その権力者からみれば、民衆は被支配者であり、権力者の私物です。
権力者は民衆から、財産どころが命を奪っても構わない。なぜなら、私物だからです。
いまの日本には、この日本古来の社会的仕組みを否定する人たちがいます。
なぜでしょうか。
天皇は政治権力を持ちません。単に権威として領土領民を「たから」としています。
政治権力者にとって、民衆も領土も天皇の「たから」だからこそ、自由に私的に支配できない。
民衆のための政治をせざるをえない。民衆のために働かざるを得ない。
それを否定するということは、端的に言えば、否定している人が、ただ自分が権力を握り、多くの民衆を使役し支配し、自由にわがままを通したい(これをウシハクといいます)だけのことだということがわかります。
グローバリズムでも民主主義でもなんでもない。
ただ、支配欲、権力欲に取り憑かれた痴れ者だということです。
天皇陵は、そのシラス存在である天皇と、民衆の君民一体の証(あかし)です。
証だからこそ、聖地なのです。
陵墓公開要求をはじめ、仁徳天皇陵を仁徳天皇陵と呼ばず「大仙古墳」などと呼ぶ運動は、煎じ詰めれば、日本を解体し、日本人の自由を奪いたいという私的な欲望に他なりません。
じつに、傲慢かつ不遜かつ、子供じみた執着というべきものです。
御陵を護るということは、単に御陵を物理的に維持するということではありません。
仁徳天皇の遺徳を通じて、私たちが君民一体という日本の国のカタチを護るということなのです。
だからこそ仁徳天皇陵は「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として、立入禁止の「聖地」とされてきたのです。
仁徳天皇陵は、単なる古墳ではないし、文化財や観光遺跡とは違うのです。
私たちのアイデンティティの源泉なのです。
「世界遺産になれば沢山の見物客が訪れるから、皇室の宣伝になっていいじゃない」という人もいます。
それこそ自分勝手な自己の利得だけを考えている証左です。
自分がウシハク者になりたいと宣言しているようなものです。
仁徳天皇陵をはじめとしたご皇室の墳墓は、観光地ではありません。
「世界遺産」という名の観光地ではなく、私たち日本人の「聖地」です。
仁徳天皇陵をはじめとする陵墓には、私たちは断固反対しなければなりません。
※この記事は2010年3月の記事をリニューアルしたものです。

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