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竹やぶ

天野康景は、徳川家康の家臣で、駿河の高国寺で1万石の知行地を与えられていたお殿様だった人です。
その天野康景の領内で、ある日、事件が起きました。
城普請に使うために保存しておいた竹を、大勢の農民たちが盗みに来たのです。
番をしていたのは、ひとりの足軽でした。
足軽は農民たちを下がらせようとしたのですが、多勢に無勢です。こちらを守れば反対側から盗まれる。反対側を守ればこちらを盗まれる。
やむなくその足軽は、農民のひとりを斬りました。
びっくりした農民たちは慌てて逃げて行きました。
ところが、です。
翌日、その農民たちの一部が、代官所に仲間が殺されたと訴えたのです。
代官は驚いて、天野康景に取調べのため犯人を引き渡すようにと使いを出しました。
けれど天野康景は、
「城の用材を守ろうとした者に罪はない。もし罪があるとしたら、その罪は命じた私にあって、足軽に罪はない」と、断固として足軽の引き渡しを拒みました。
報告を受けた代官は、家康に上奏し、判断を仰ぎました。
家康は「罪は足軽にある」と言いました。
トップである家康の判断を得た代官は、天野康景に、「君命である」と、あらためて足軽引き渡しを強く求めました。
すると天野康景は、
「どのように言われても足軽に罪はない。家臣だから君命に従えというのなら、私が家臣でなくなれば良いのであろう。1万石はご返上申し上げる」と言って、高国寺を去って浪人になりました。
家康はこの報告を聞いて、失ってはならない家臣を失なったことに気付きました。
そして代官は、処分され、更迭されました。
さて、この話には、いくつかのポイントがあります。
そのことについて、触れてみたいと思います。


まず、農民たちがなぜこのとき竹を集団で盗みにきたのかですが、その具体的事情は、この話に伝わっていません。
ただ、そこまでの行動に彼らを踏み切らせたには、それなりの事情があったであろうことは、容易に想像がつく話です。
なぜなら、竹が「なければ困った」からこそ、農民たちは城にやってきたからです。
そしてもし、農民たちが冷静に「竹を少し分けてもらえないか」と城に申し出、それなりに彼らの事情が明らかになれば、殿様である天野康景はよろこんで竹を分けたであろうと思います。
ところが門番の哀しさで、警固をしていた足軽に与えられていた任務は、あくまでも保存していた竹の警備です。
竹を分け与えるという権限は与えられていません。
話を上につなげば、という見方もあろうかと思いますが、それは警備の足軽にすることではなくて、別の窓口に申請すべきことです。
ところが集団でやってきた農民たちは、目の前に積み上げられた竹、そして頑として竹の引き渡しに応じない足軽を前に、勢を頼みに、ついつい手を出してしまったのでしょう。
それでもみ合いになり、足軽はついにひとりの農民を斬ってしまった。
そうなると、事情の如何を問わず、「斬った」という結果だけをもとに、人殺しだ、と代官所に訴える者が出てくるわけです。
もともとの原因をたどれば、ちゃんとした窓口に事情を話して、普通に竹を分けてもらおうとしないで、いきなり目の前の竹を奪おうとした一部の農民たちの行動に問題があります。
ところが、そういう経緯を一切無視して、ただ「殺されました」と被害者を装う。
これを讒言(ざんげん)といいます。
そういう卑劣な者というのは、いつの時代もいるのです。
同じようなケースは、たとえば関東大震災において6千人が殺されたと騒ぐ昨今の在日や、自分たちから悪さを仕掛けておいて、それを糾弾する者たちに対して「ヘイトスピーチ」なるカタカナ新語を造語して、逆に自分たちを被害者にみせかける昨今の卑劣な行為に見てとることができます。
そして事情のわからない代官は、目の前にある「人殺しがあった」という事実だけをみて、その者の処罰をしようとしました。
事情を知らず、結果だけを見て判断しようとするのは、これまた昨今の施政に共通する事柄です。
法に「人を殺すべからず」とあれば、その語句だけを頼りに処罰をしようとする。法律家に多いのですが、それでは世の中は良くなりません。
なぜならそれは、
「火災が起きてから出火元となった犯人を罰する」という姿勢だからです。
火災が起きれば、近隣まで被害が及びます。
昔は全部が木造住宅ですから、風によっては、火災が大火となり、町中全部を燃やしてしまうという大災害をもたらすこともあるのです。
そういう事態が起きてから、犯人は誰だ、処罰しろと騒ぐのは、実は、施政者として、「責任逃れでしかない」と考えたのが、昔の日本社会です。
どういうことかというと、火災にしても事件、事故にしても、起きてからでは遅いことです。
ですから日頃から起きないように予防するのが、施政者の役割です。
そのために教育があるし日頃からの訓練や備えや予防があります。
そして実はここが重要なポイントになるのですが、
教育や予防だけではダメなのです。事件や事故が起こることを防げない。
防ぐためには、起こりそうな徴候を察して、その徴候に対してあらかじめ手を打つという能力と行動が求められるのです。
それが治世というものです。それが政治であり、行政の肝(きも)です。
ということは、施政者に、ごくわずかな徴候で、その後に何が起こるのかを「察する」能力が求められます。
事件が起こるということは、その「察する」能力が施政者に欠如しているということです。
ということは、事件が起きたとき、その責任は事件を起こした犯人にあるのではなく、事件を招いてしまった施政者にその責任がある。
そのように考え行動したのが、昔の日本の統治だったのです。
だからこそ日本においては、古来、人の上に立つ施政者が、民から絶大な信頼を得ることができたのです。
逆に施政者が、あらかじめの備えや、徴候を察するということをしないで、起きた事件にだけ対処し、事件を起こした者を処罰するだけの存在になってしまったらどうでしょう。
それは、事件を起こしても、捕まらなければ何をやってもよいということにつながります。
見つかりさえしなければ、処罰されることはないのです。
そして、そういう考え方をする不埒な者が、世の中には必ず存在します。
そういう不埒な者が、不埒な行為に走れないようにするのが、政治の要(かなめ)といえるのではないでしょうか。
平安貴族は、和歌ばかり詠んで、男と女の関係に不節操な助平ばかりだったような印象操作が昨今著しいですが、和歌は、詠み手の歌意を、読み手が「察する」文化です。
平安貴族たちが、なんのために和歌をやったかといえば、その「察する」という能力を極限にまで高めるために、その訓練として、和歌をやっていたのです。
だからこそ、和歌は「あらゆる日本文化の原点」といわれています。
武道も同じです。相手の技を事前に察して、躱(かわ)してこれを斬る。
武士道も同じです。武士道とは惻隠の情を言います。惻隠(そくいん)というのは、相手を思いやる心、つまり「察する」心です。
そういう察するということが、不十分であったがゆえに、竹を刈りすぎて農民たちが困ってしまったのです。
だから、「すこし分けてもらえないか」と、彼らは交渉にやってきたのです。
そしてその交渉の窓口は、竹の警固をしている足軽ではありません。
別にちゃんと、そういう窓口があったはずだし、またそういうときのための窓口を、ちゃんと農民たちにあらかじめ知らせておくのが、知行をしている天野康景の役割であり責任でした。
だからこそ、天野康景は、「責任は斬った足軽にはない。私にあるのだ」と明言しているわけです。
ところが、仲間を斬り殺された農民にしてみれば、事情があったからこそ、竹を分けてもらいに出向いたのです。
それも独り二人の需要ではなく、みんなにとって必要だったからこそ、集団ででかけることになったのです。
けれど仲間が殺された。
だから彼らは、代官所に訴えを起こしました。
問題は、その代官です。
彼は、天野康景に、足軽を引き渡すようにと命じました。
取調べのためであったろうと思います。
ところがこれを天野康景は拒否しました。
なぜなら事情を知る知行者である天野康景にとっては、責任は天野康景自身にあり、足軽にその責任はないからです。
問題は、ここにもあります。
代官はこの事件を、単なる「警備の足軽による農民殺害事件」としてしか捉えていません。
一方の天野康景は、この事件を「施政の責任」とわきまえています。
態度のレベルが違うのです。
足軽の引き渡しに応じない天野康景について、代官は家康に「どのようにいたしましょうか」と判断を仰いでいます。
この点は良いことです。
なぜなら、代官にしてみれば、自分の汚点になることでありながら、家康にちゃんと報告をしているからです。
家康の偉いところが、ここにも見てとれます。
つまり家康は、「みずからに不都合なことであっても、包み隠さず、ちゃんと報告できる」という家風を、日頃からちゃんと築いていたということだからです。
だからこそ家康は、誰もが納得する天下取りになれたのだと思います。
ところが、代官の報告は、結果として讒言になってしまいました。
なぜなら代官は、事の経緯を明確につかまずに、ただ「足軽が人を斬ったという訴えがあった」という軽い認識しかしていないからです。
家康は、こうした一面的な報告だけに接して、「罪は足軽にある」とミス・ジャッジをしてしまいました。
そしてそのミス・ジャッジを引き出した代官は、天野康景に対して高圧的に足軽の引き渡しを命じています。
その結果、天野康景は、一万石を返還し、浪人しています。
さて、一万石の大名が、碌(ろく)を返上したとなれば、これは一大事ですから、当然、先ほどの代官とは別なルートから、家康に報告があがります。
その結果、家康は、自分が代官の片務的な報告によってミス・ジャッジをしたことに気付きます。
そこで、みなさまに質問です。
「気付いた時点で、どうして家康は天野康景を呼び戻そうとしなかったのでしょうか」
これはできないことなのです。
なぜなら、足軽が刃傷沙汰を起こしてしまう原因を作ったのは、まさに天野康景の責任なのです。
理由は上に述べた通りです。
そしてみずから責任をとって一万石を返上し、退職した者を慰留したら、家康は治世に施政者の甘えを許したことになってしまうのです。
ですから、戦乱の世を終わらせ、これから新しく安定した治世を築こうとする家康にとって、天野康景のような有能な人材は不可欠でありながら、同時に彼を許すことはできない。
薄情なようですが、治世というのはそういうものなのです。
天野康景は浪人し、その年のうちに神奈川県足柄の西念寺にはいって出家し、6年後に死去しました。77歳でした。
息子の康宗は、あらためて千石取の旗本として起用され、家はいまも存続しています。
一方、ちゃんとした調べもせずに、ただ法を額面通りにしか解釈できなかった代官は、家康に目通りが許される直参旗本から、非直参の旗本へと降格されました。
彼は、御定法を守ったし、家康への報告もきちんとしたのです。
けれど、額面通りに処罰をするだけなら、代官はいらないのです。
現代社会においても同じことがいえます。
犯罪を犯した者を逮捕し、法で定めた通りに処罰するだけなら、極端な話、警察も裁判所もいらないといえるかもしれないのです。
なぜならそれは、先ほども書きましたが、どんなに法を破っても「捕まりさえしなければ構わない」という世相を生むからです。
そうならないように、予防し、民の情況を察し、事前に手を打って問題そのものが起こらないようにするというのが、本来の政治や行政や法のあるべき姿だからです。


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