
8月にはいってから、ねずブロも戦争に関連した話題が多くなりました。
時節柄仕方のないことなのですが、そこで今日は、ちょっとあたたかな話をしてみたいと思います。
ドラマチックな男のお話です。
百人一首の43番歌に、権中納言敦忠(ごんのちゅうなごんあつただ)の歌があります。
逢ひ見てののちの心にくらぶれば
昔はものを思はざりけり
簡単に現代語訳すると、「貴女と深い仲になってからの熱い想いは、こうした仲になる前のあなたへの恋心が、まるで何も思っていなかったのではと思えるほど、深くて愛(いと)おしいのです」といった意味になります。
この人は、彼女と良い仲になる前、この女性のためなら命さえいらない、とまで思い詰めていたのです。
ところが、実際に彼女と関係ができたら、今度はとっても命が大切と思えてきた。
むしろ、良い仲になる前の思い詰めた恋心なんて、いまの熱い気持ちに比べたら、なんにも想っていないのと同じだったみたいだ、と詠んでいるわけです。
愛し合ってなお、つのる恋心。なんだかわかる気がします。
ただ、歌の意味はそうなのですが、歌の詠み人の名前に官名が付されている場合、それは公人としての意味合いが歌に詠み込まれているということに注意が必要です。
つまり詠み手の名前が「藤原敦忠」ではなく、「権中納言敦忠」と書いていることに、注意が必要です。
このお話は、以前にも一度書いていますので、ご記憶にある方も多いかと思います。
実はそこに感動的な男のドラマがあるのです。
権中納言敦忠は三十七歳でこの世を去った人です。
その亡くなる前の年に任命された役名が、「権中納言」です。
権中納言が、どのような役職かというと、後世、同じ役名をもらった有名人に、権中納言、徳川光圀がいます。
ご存知、水戸黄門様です。
権中納言は、唐名が黄門侍郎で、これを略して「黄門」です。水戸黄門は、徳川家康の孫で、徳川御三家の水戸藩の二台目藩主で、天下の副将軍です。権中納言がどれだけ高い位(くらい)か、わかろうというものです。
ところが藤原敦忠は、はじめから偉い人だったわけではありません。
もともとは「従五位下」で、殿上人としては最低の官職です。
貴族としてはもっとも身分の低い、いってみれば貴族の中の大部屋暮らしです。
その身分の低い藤原敦忠は、たいへんな美貌であるとともに、管楽にも優れた才能を発揮する人でした。
その腕前がどれほどのものだったかというエピソードがあります。
藤原敦忠が亡くなったあとのことなのですが、源博雅(みなもとのひろまさ)が音楽の御遊会でもてはやされていました。それを見た老人たちが、
「敦忠の生前中は、源博雅あたりが音楽の道で重んぜられるとは思いもしなかった」と「嘆いた」とあるのです。これが『大鏡』に書いてあります。
源博雅といえば、最近では映画「陰陽師」で、俳優の伊藤英明さんが演じていました。
映画の中で安倍晴明(あべのせいめい)の無二の親友で、笛の名手として描かれています。
源博雅はそれだけ有名な管楽の名手であったわけですけれど、その笛ががまるで児戯に思えてしまうほど、藤原敦忠の管楽は、素晴らしかったというわけです。
身分は低いけれど、若くて、ハンサムで、歌人で、しかもうっとりするほどの管楽の達人です。
管楽を多くの人前で披露する機会も多かったことでしょう。
ですから藤原敦忠は内裏の女性たちにモテモテでした。
その藤原敦忠が25歳のとき、なんと第六十代醍醐天皇の皇女である雅子内親王(がしないしんのう)と、良い仲になってしまうのです。
このとき雅子内親王は21歳です。これまた若くて美しい盛りです。
二人は、まさに熱愛となりました。
このとき互いに交わした愛の歌の数々が『敦忠集』におさめられているのですが、もう「大丈夫か?」と心配したくなるほど、二人は熱々のラブラブになっちゃうのです。
けれど、身分が違いすぎる。
なにせお相手の女性は、内親王なのです。
困った大人たちは、雅子内親王を伊勢神宮の斎宮(いわいのみや)に選んで、都から去らせてしまいます。
斎宮というのは、皇女の中から選ばれる伊勢神宮の祭神である天照大神の御杖代(みつえしろ=神の意を受ける依代)です。
つまり神様の依代(よりしろ)になるわけで、これはいってみれば神様の代理人のような存在です。
そうなると、雅子内親王がどんなに藤原敦忠を愛していたとしても、二人は別れなければなりません。
そして雅子内親王は、京の都から伊勢に送られてしまいます。
片や天皇の皇女です。藤原敦忠は、貴族とは名ばかりの最低の下士でしかない。
あまりにも不釣り合いなことに加え、斎宮に選ばれたとあっては、もはや二人は二度と逢う事は許されません。
だからこそ藤原敦忠は、その苦しい胸の内を、「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」と詠んで、雅子内親王に、この歌を捧げたわけです。
ですからこの歌は、実は、つらい別れの失恋の歌だったのです。
心から愛する女性を失った悲しみに、藤原敦忠は、猛然と仕事に精を出しました。
もともと才能ある若者です。
彼は努力し成果をあげ、翌年には従四位下に昇格したかと思うや否や、その年のうちに蔵人頭に出世、翌年には左近衛権中将、さらに次の年には播磨守を兼任と、みるみるうちに頭角をあらわします。
そして十年後には押しも押されぬ「権中納言」にまで昇り詰めていきました。
まさに彼は、皇女を妻にしても足るだけの身分ある男になっていくのです。
けれど、仕事で出世するのは、それだけ人の何倍もの仕事をこなすことになります。
あまりにも仕事に全力を使い果たした藤原敦忠は、その翌年、わずか37年の生涯を閉じてしまうのです。
この歌には、詠み手の名前にあえて「権中納言敦忠」と、職名が付されています。
なぜ職名が付されているかといえば、それは、この歌が単に愛の讃歌というだけでなく、つらい別れを経験した男が、そこから立ち上がり、世の中におおいに貢献し、出世し、そして愛した女性と釣り合うだけの男として成長していったこと、そこに男の孤独とドラマがあったからなのです。
この解説を述べたとき、友人が次のようなことを話してくれました。
「もしかしたら、敦忠はたとえうわさでも自分の近況を伝えるために頑張ったのかもしれない。雅子内親王が伊勢神宮の斎王なればもう噂しか近況を届ける手段はなくなります。半端な噂では斎王まで届きませんから、かなり頑張らなアカンかったでしょうね・・・。」
そうだったのかもしれません。
歌そのものは、純粋に恋の歌です。
けれど、百人一首の選者である藤原定家がこの歌に込めたメッセージは、「男なら、そうやって成長せよ」、そんな思いからだったのではないか、と思います。
最近出ている多くの百人一首の解説本は、この歌をただの愛の讃歌としてしか紹介していません。
なぜ「権中納言」なのかは、まったく説明されていません。
理由は「受験に役に立たないから」なのだそうです。
しかしこの歌の本当の素晴らしさは、身分の違いからその熱愛に敗れた男が、そこから這い上がり、男としての成功を勝ち得て行く、まさに男の孤独と人生のドラマにあります。
そしてそのことを書かなければ、この歌のほんとうの良さがわからない。
百人一首の真の意味を知ることは、本当の意味での日本的精神を学ぶことだと私は思います。
もっというなら、百人一首のなかにこそ、本当に学ぶべき日本人の心が凝縮されていると思います。
そこには、単にみやびなばかりではない、孤独や、悲しさや、国を想う熱い気持ちや、男のドラマ、女たちのドラマが、まさに宝の山のように散りばめられているのです。
だからこそ百人一首は、千年の永きにわたって、人々から愛され続けてきたのです。
千年です。
生まれてからたかだか何十年の自分の小さな人生の中だけの価値基準にしがみつくのではなく、もっと素直に、もっと謙虚に、古典を「感じ取って」みる。
そうすることで、古典は、いままで私たちが気付かなかった、様々なことを教えてくれるのだと思います。
そしてそれこそが、私は「教育を取り戻し、日本を取り戻す」ことにつながるのだと私は信じています。
そういえば、先日、百人一首の素性法師の歌について、この歌は「戦で散っていかれた部下たちを弔った出家した大将が、そのなかのひとりの家族のことを歌にした和歌である」という内容の記事を「腹が立ったこと」という記事でご紹介しました。お読みになられた方もおいでかと思います。
この記事にある方が次のようなコメントを書いてきました。
承認していないので表示になっていませんが、要約すると、私の書いたことが既存の説に対して「文句をつけるための作り話」であり、私の解釈は「常識をわきまえずに歌の本を書くとは僭越ここに極まる」のだそうです。
たぶん私の百人一首の本が出ると、これからこうした声が多数寄せられることになろうかと思います。
その前に・・・早々と「来たな(笑)」という感じで、おもしろく読ませていただきました。
人は衝撃的な事態にであうと、
第一段階:否認
第二段階:怒り
という段階を経て、
第三段階:取引
第四段階:抑鬱
となり、最後に
第五段階:受容 に至ります。
最初は否認するのです。
説を受容するまでには、それぞれの段階があるわけです。
戦後教育に染まりきった方々、百人一首が、いまだにただの受験のための文法の丸暗記科目としてしか認識できないでいる人たちにとっては、私の解釈には否認しかないのであろうと思います。
しかし、その戦後教育が、あるいは受験のための勉強が、果たして本来の学問、本来の学ぶということといえるのか。学ぶべきものとは何かという、学問や教育の原点に立ち返えることができるのかどうかの、これは試金石でもあろうかと思います。
日本を取り戻すということは、一朝一夕にできることではありません。
失われたものを取り戻し、あらたに「つくり、かため、なす」ためには、まだまだあと200年、300年かかるかもしれない。
けれど、それをやり続けるのが、気付いた人の使命だと思います。
昨日、「正しいこと」について、ある方にお話しました。
何が「正しい」かなんて、そもそも神々が決められることで、人の身でわかるようなものではないと思います。
人にできることは、ただ「まこと」を尽くして生きることだけです。
そうすることが日本人の道なのだと、これもまた信じていることです。

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