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お玉が池

幕末頃で有名な剣術道場といえば、千葉周作の北辰一刀流です。
この道場は、江戸のお玉ヶ池(おたまがいけ)のあたりにあったのですが、そこはいまでいうと東京都千代田区岩本町2丁目5番地の辺りです。
江戸の初め頃には、ここに上野の不忍池がすっぽり入るくらいの大きな池がありました。
その池は、幕末頃には小さな池になり、いまでは池自体があとかたもなくなって、そこには小さな「お玉稲荷」の祠(ほこら)があるだけになっています。
そのお玉が池が、まだ大きな池だった頃、実はその池は「桜ヶ池」と呼ばれていました。
きっと、池の周囲に桜の木があったのでしょう。池のわきに小さな茶店がありました。
桜の花見の名所に、小さな茶店・・・なんだかとっても絵になる光景です。
その茶店に「お玉」ちゃんという、とってもかわいらしくて気だての良い娘さんがいました。


お玉ちゃんには、二人の男の子の友達がいました。
『江戸名所図会』によると、この二人の男性は、「人がらも品形(しなかたち)もおなじ」であったと書かれています。
ある日、この二人の友達が、お玉ちゃんに同時に結婚を申し込みました。
けれどお玉ちゃんは、二人とも大好きなのです。
だから選べない。
それにとつぜん結婚を申し込まれても、それはとってもうれしいけれど、とつぜんどちらかを選べと言われても、お玉ちゃんにとっては、それはとっても困ることでした。
「お玉」ちゃんはとっても悩みました。
いく日も悩みました。
そして悩んだ末に、桜ヶ池に身を投げてしまったのです。
遺体を池から引き揚げた近所のみなさんは、このお玉ちゃんの心をあわれに思い、そこに小さな祠(ほこら)を建てました。
それがいまも残る「お玉稲荷」です。
そして、いつしか「桜ヶ池」は、人々から「お玉ヶ池」と呼ばれるようになりました。
お玉ヶ池は、そのすぐ近くが、本郷、湯島の高台です。
そこからは遠く富士山も見渡せます。そんなところから、このあたりには武家屋敷が建ち並びました。
そしてお玉が池のある神田界隈には、それら藩邸への御用を勤める商人たちのお店や、その住まいが建ち並び、桜ヶ池の界隈は、とっても街が発展しました。
このため、江戸時代の後期には、神田山を削ってお玉が池を埋め立てて、池の宅地造成がすすみました。
その結果、いまでは、池は跡形もなく消えてしまっています。
池は消えましたが、地元の人たちは、お玉ちゃんの伝説と、お玉稲荷をずっと大切にしてきました。
東京のど真ん中で、お稲荷さんにいるお玉ちゃんには、いまでも、千羽鶴や花が絶えません。
そしてお稲荷さんは、商売繁盛の神様です。
そのおかげか、神田、岩本町界隈は、明神様やお玉稲荷のご利益で、いまでも地域の商店や問屋街がとっても元気です。
歴史や神様を大切にする心。
それって、日本の原点ですよね?
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