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ねず本の第三巻は、発売日が今月24日なのですが、昨日出版社から電話があり、20日の時点で取次ぎさん(本の問屋さん)の初版本の在庫がゼロになってしまったのだそうです。そこで昨日、急遽、第二版の増刷を注文したとのことです。
発売日前に増刷出来って、すごいです。これもみなさまのご贔屓の賜物です。心から感謝申し上げます。
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文久2年(1862)の今日起きた事件が「生麦事件」です。
この事件は、江戸から京都に向かう薩摩藩の行列に、前方を横浜在住の英国人4人が乗馬のまま横切り、薩摩藩士がこれを静止したけれど、4人の英国人は馬上のままどんどん行列の中に侵入。やむなく警護役の薩摩藩士がこの4人を無礼討ちにし、1人が死亡、2人を負傷させたという事件です。
この時代、王族や貴族のこうした隊列を荒らす行為は、一種のテロ行為に等しく、犯人はその場で全員現行犯で殺害されても仕方がないというのが世界の常識です。
ですから薩摩藩の行為には国際社会において完全に正当性があり、本来ならこれを咎めることは誰にもできません。
ところがこの事件後英国は、幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドの要求、薩摩藩に対しても犯人の処罰と賠償金2万5千ポンドを要求しました。
幕府は屈服し、薩摩は屈服を拒否しました。
これに怒った英国は、翌年の7月2日の未明、旗艦ユーライアラスを先頭に、7隻の艦隊で薩摩湾に侵入し、薩摩藩の汽船3隻を拿捕しました。
薩摩湾への無許可侵入、藩の汽船拿捕という無法行為を働いたのです。
薩摩藩は、正午、湾内各所に設置した陸上砲台80門で、英国艦隊を一斉に砲撃を行いました。
英国艦隊は艦上から、21門のアームストロング砲を含む合計100門の砲で、薩摩の陸上砲台を砲撃しました。
同時に英国艦隊司令長官のクーパー提督は、拿捕した薩摩の蒸気船3艦に火をつけ、これを燃やして沈没させています。
さらに英国艦隊は、薩摩の砲台だけでなく、鹿児島城や城下町に対しても砲撃を加えました。民間人への無差別攻撃です。これにより城下では大規模な火災が発生します。
のちに「薩英戦争」と呼ばれるこの事件における英国艦隊の損害は、7隻の艦隊中、大破1隻、中破2隻。死傷者63人です。
これに対し薩摩側の損害は、非戦闘員の死者5~8人(死亡の時点のずれによって人数が異なる)、負傷者18人。
その他、鹿児島城内の櫓、門など損壊、集成館、鋳銭局、民家350戸あまり、藩士屋敷160戸あまり、藩汽船3隻、民間船5隻が焼失しています。
しかしあきらかに火力の勝る英国艦隊に対し、旧式の大砲しか持たない薩摩の果敢な戦いは、英国側に薩摩の戦力の高い評価を生み、英国のそれまでの幕府支持の方針を転換させ、英国と薩摩との連携を促進させ、英国は、以後全面的に薩摩を応援し、バックアプするようになりました。
以上が、一般によく知られる生麦事件から翌年の薩英戦争に至るあらましです。
この経緯の中に、あまり教科書などには書かれないいくつかのポイントがあります。
まず、生麦事件における英国人の行為ですが、世界中どこの国においてもその王族や諸侯の行列に馬上で割って入るのは、その場で殺害されても文句の言えない行為であることが世界の常識であったということです。
ところが英国人4名は、薩摩の隊列が乱れても、まるでそれをおもしろがるかのように、藩主の座乗する籠に向かって侵入しました。
米国の上院議会の会議中の議場に、銃を持った4人組が馬で議長席まで侵入を試みたら、議会の警備員は具体的にどのような態度を取るでしょうか。
それでも薩摩藩は、当初は英国人を制止するにとどめました。誰も刀さえ抜かなかったのです。
ところが、それをよいことに英国人は、隊列深くまで行列の中を逆行してどんどん侵入していきました。
そして鉄砲隊も突っ切りついに藩公の乗る籠の近くまでやってきました。
やむなく藩主の警護役の数名の剣士が抜刀して、英国人を斬っています。
このときなぜ4人の英国人が薩摩藩の行列に侵入したかについては、諸説あります。
川崎大師の見学に行こうとしていただけだったいうものもあるし、日本人に英国人の偉大さを見せつけようとしたのいうものもあります。動機は、いまだに不明です。
ただひとついえることは、この時代、東洋人は白人(英国人)からみて、ただの猿でしかなかったということです。
猿の世界にも、集団としての秩序やきまりがあります。
けれど、よほどの研究者でもない限り、一般の人が猿の社会の秩序に配慮することはありません。
英国人にしてみれば、馬上で猿の隊列に分け入ることは、むしろ楽しみであったろうし、それに狼狽して、身振り手振りで彼らを道路脇に避けさせようとする黄色い猿たちの狼狽は、見ていて愉快なもの以外のなにものでもなかったわけです。
この事件の前に、日英修好通商条約が締結されていました。
そのなかには治外法権の規定があります。
つまり、日本にいても英国人が日本の法に従う必要はないとされていたのです。
猿の世界のルールは、人間には適用されない。これが治外法権の本質です。
これに幕府は屈して、賠償金の支払いに応じました。
薩摩藩は、断固として「自分たちは人間である」として賠償金の支払いを拒否し、これを咎めて薩摩湾に侵入し、攻撃を加えてきた英国艦隊に対しても、敢然と戦いを挑みました。
そしてこの薩英戦争の4年後、朝廷から王政復古の大号令が下されました。
そして日本は、艱難辛苦の上、ようやく明治44(1911)年、関税自主権を回復し、世界と対等な国を実現しています。
それは生麦事件から49年後のことでした。
平和は大切なことです。しかし、結果として軽々に賠償に応じた幕府は潰れ、及ばずながらも力一杯戦った薩摩は生残り、維新の立役者となりました。
いざというときに、戦う覚悟と実行力を持つこと。無法は許さない。
そのことは、わたしたちがこの世界を生きて行く上で、実はとっても重要なことです。
そして藩にしても国家にしても、藩や国家が先にあるのではありません。人が集まって国や藩があるのです。
そしてその集団には、自分の妻や子、あるいは恋人、親兄弟、友人たちや恩人たちがいます。
そういう自分をとりまく人々を愛するという心は、およそ畜生でなく人の身ならば、あたりまえに存在する心です。
そうした自分をとりまく人々の集団が国であり、それを守ることが、国を守ることならば、守るという心を持てるのは、それが人であって畜生でないからです。人としてあたりまえのことなのです。
いいかえれば、国など守る必要がない。壊れてしまえば良いなどと公然と発言する者は、人としての心、愛する心を失った者であるということになります。
人間なのに、どうしてそのようになってしまうかといえば、自分の利益だけ、つまりウシハク存在になりたいという邪心があるからです。
昔の人は、そのような邪心に取り憑かれた人を、獣であり悪魔だと断じました。人の皮をかぶったケダモノと呼びました。なぜか。愛する心があったからです。
ペアトという人が当時の生麦のあたりの写真を撮っています。
道路をよくご覧になってください。
チリひとつおちていません。
これが当時の日本の民度です。
最近の日本はどうでしょうか。



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