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三浦襄さん
三浦襄0816

昨日は終戦記念日の靖國参拝、また正午の黙祷を、みなさまありがとうございました。
さて、大東亜戦争がはじまる前のことです。
当時、インドネシアはオランダの植民地でした。
その当時の「蘭領インドネシア」に単身で商用赴任した民間人がいました。
三浦襄(ゆずる)さんとおっしゃる方です。
彼は、インドネシアの独立のために、インドネシアの民衆のために生涯を捧げました。
その三浦襄氏について、ある方から、当時の秘話をいただきました。
ご了解をいただきましたので、ここに転載してみたいと思います。
実におどろくべき内容です。


============
バリに日本陸軍が進駐したのは、太平洋戦争勃発の2ヶ月後、昭和17(1942)年2月9日のことです。
これによって、400年にわたるオランダのインドネシア植民地支配は終りを告げました。
当初インドネシアは、中国大陸から転進してきた陸軍が支配しました。
しかし5月には、次の作戦としてオーストラリア戦への展開に備えるため飛行場確保と基地の整備目的で海軍に、統治を交替しています。
陸軍の統治は、やや荒い力の占領行政だったようです。
このため、温和なバリの民心が離れてしまったとも伝えられています。
この状態を憂いた海軍陸戦部隊長の堀内豊秋司令は、軍律を遜守した厳しい指揮を行いました。
これにより、バリ全島の治安は徐々に回復します。
≪仁政の軍神、堀内豊秋大佐≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-537.html
このとき堀内司令が、現地の人々との折衝を一切まかせたのが、現地の在留日本人、三浦襄氏です。
三浦襄(ゆずる)氏は、仙台のご出身です。
戦前から雑貨販売の販路拡張のための支社を設けるため、当時バリ島に居住していたのです。
彼は現地の主だった人々と、流暢な言葉と人柄で、交流を深め、信頼を築いていました。
海軍民生部は、軍用食料、飲料水その他資材の購入一切を三浦氏に依頼しました。
そして軍と現地の人々との信頼回復を図るために、三浦氏に、民生業務の一切を委ねました。
三浦氏は、かつて陸軍が行った軍による現地徴発を一切禁じました。
そして全ての購買業務をバリの人々にまかせました。
また民生業務部門に、ひとりの日本人も採用せず、また軍からの報酬も一切受け取りませんでした。
さらに彼は、住居に、十人以上のオランダ時代の孤児を養育し、日本陸軍の朝鮮人軍属に乱暴されて自暴自棄になっていた村の娘さんの養育も引き受け、孤児たちの面倒を私費でみさせました。
三浦氏は日本軍への協力を取り付ける為に、宗教、習慣の異なる主だった人々を説得に全島をかけ巡りました。軍と住民の間の民生安定のための努力をしたのです。
ところが三浦氏の努力もむなしく、昭和20年、終戦の詔勅が下りました。
それはまさに、晴天の霹靂の出来事でした。外地在住の日本人にとって、軍民を問わず衝撃は図りしれない。
情勢が一変したのです。
三浦氏はこの数日後から、バリ島内39郡を日に夜をついで、駈け廻りました。
行く先々で郡長、村長、その他の行政関係者、有力者に会いました。
そして、終戦の止む無きに至った事情を説明しました。
日本として、約束した「オランダからの独立」の援助が不可能となったことを謝し、自分としてはあくまでもインドネシアを愛しており、愛するが故に全日本人に代わって、骨をこの地に埋めて独立を見届ける決心であることを告げました。
そしてインドネシア在住の日本人に対する暴挙などは無意味であることを熱情をこめて説いたのです。
こうして三浦氏は住民の理解と納得を求めていきました。
しかし連合軍に降伏した軍関係者は、三浦氏も含め、全員、武装解除の上、逮捕されてシンガポール、チャンギー刑務所に護送されてしまいました。
三浦氏は、警備の隙をついて刑務所から脱走しました。
無一文の着たきりスズメで、終戦後の混乱状態にあるジャワ島を縦断し、数々の辛酸をなめ、やっとのことでバリに戻りました。
そして昭和20(1945)年9月6日の夕方、住まいのある首都デンパサールで、映画館を貸し切りました。
そこに現地人や華僑ら約600人を集め、声涙くだる演説を通訳を交えずに行いました。
彼は、帰宅し書斎に入ると、仙台にいる夫人と、懇意の人々に4通の遺書を書きました。
そして沐浴して身を清めると、真新しい衣類に着替えました。
そして屋内を汚すことを恐れて中庭の囲いの中に端坐し、右のコメカミに拳銃をあてて、一発のもとに最後を遂げたのです。
それは、神々しいまでに潔い最後であったと伝えられています。
いつの間に用意したのか、三浦氏は、棺も用意していました。
住民墓地のなかには、ひときわ目印になる老木の傍らに、自分用の墓穴まで掘って用意してあったそうです。
現地の人にできるだけ迷惑をかけたくない。
できることは、全部自分でやる。
それが当時の日本人の常識でした。
翌日の午後、葬儀が執り行われました。
在留日本民間人の葬儀です。
本来ならオランダの占領軍の前で、そのような葬儀を執り行うことさえはばかれるものです。
ところがその葬儀には、当時全バリにあった8つの自治領の領主たちが、ひとり残らず従者を伴って、葬儀にやってきたのです。
しかも彼らはそれぞれ、2人づつの僧侶まで同道してきていました。
自治領の領主というのは、住民に対して生殺与奪の絶対的権力を代々保持している人たちです。
平民は彼らの前では常に膝行しなければならなかった。それくらいの貴人です。
その8つの自治領の領主たちが葬儀に参列したことにより、三浦氏の葬儀は、バリをあげての盛大な葬儀となります。
棺は日本人の黙祷に送られて出棺し、三浦氏が設立に奔走した看護学校、小中学校の生徒に先導される長い葬列が続きました。
すぐ後には8人のラジャ、郡長、村長、役人、警察官、有力者、などの数百人が続きました。
そのうしろからは、バリの住民数千人が続きました。
沿道は両側とも紅白のインドネシア国旗が半旗を低く垂れていました。
これが昭和20年9月7日のできごとです。
そしてこの日、半旗として掲げられた紅白の旗が、初めてインドネシアの国旗が「単独旗」として掲げられた日でもありました。
そしてそれは「バパ・バリ(バリの父)」の死を悼む、インドネシア住民の自発的弔旗となったのです。
焼きつくような炎熱の街に、戸毎に紅白旗がなびきました。
その大通りを、延々と千数百メートルに及ぶ葬列がしめやかに、静々と、粛々と進みました。
インドネシアの歴史において、いまにいたるも、この葬列に匹敵する厳粛な全島民あげての葬列をバリで受けた者は存在しないそうです。
そして将来も、共和国となったインドネシア・バリで、島中の心からの礼遇を受けるものは、出ることはないだろうさえ、いわれています。
その後、日本インドネシア間の戦後賠償による、バリ・ビーチホテル建設の折りに、大成建設、鹿島建設の共同プロジェクトで三浦襄氏の墓は改葬されました。
三浦氏の墓は、「三浦襄はバリ人のために生き、インドネシア独立のために死んだ」との墓碑とともに、現在もデンパサール共同墓地に祀られています。
【参考文献】
「独立と革命」若きインドネシア
 越野菊雄著 インドネシア経済研究所刊
==========
三浦襄氏は、軍人ではありません。軍属ですらありません。
ただの民間人です。ですから恩給も、遺された家族に支払われていません。
三浦氏は、いち日本人として、なんの栄誉も個人的利益も求めず、ただ祖国とインドネシアの友好のためだけに、粉骨砕身し、最後は自らの言葉に生命をもって償われました。
三浦氏は、なぜ自決したのでしょう。
このことは、激戦地、玉砕戦となった戦地において、日本人の将がことごとく自決している姿にかさなります。
どうしてでしょう。なかでも三浦氏は民間人なのです。
彼に死ぬほどの何の責任があるのでしょう。
このことが最近では、あまり理解できなくなっていますし、かなり意図的に日本人にさえ理解できないようにさせられている節があるようですが、その答えが「忠」にあります。
実は漢字の「忠」という字は、音読みは「ちゅう」ですが、古い日本語で訓読みすると、これは「まめなる心」と読みます。日本書紀の持統天皇記に出てきます。
「まめ」というのは、たとえば「恋人にまめまめしくつくす」というときの「まめ」と同じ意味です。
自分にできる精一杯、自分にできるすべてのことを全部つくして、こまめに全部つくしぬくことです。
三浦襄氏も、自決された将校のみなさんも、みんな心は同じです。
自分の持っている、自分にできるすべての知力、体力、能力のすべてを出しつくしたのです。
そこまでしたら、最後に残るのは、自分にできる総決算、自決だけです。
わたしたちの先輩たちは、そこまでして戦ったのです。
終戦記念日になると、毎年毎年、テレビやメディアなどで、戦時中の軍人さんや、あるいはその関係者のことを貶めるような発言が相次ぎます。
しかし、これだけは思うのです。
そうやって批判や非難をしている人たちは、いったい日本人のために、あるいは現地の人のために、いったいどれほどまで「まめなる心」を発揮しているのでしょうか。
人々のために、本当にその方の持てる全知全力をもって、まめにつくしぬいているといえるのでしょうか。
もし自分のしてきたことが、間違いと悟ったとき、その方たちは、自決する以外、のこされた道がないほどにまで、真剣に考え行動しておいでなのでしょうか。
私には、そういう批判や非難をくり返す人たちに、すくなくとも三浦氏や当時の軍人さんたちほどに、そこまでして真剣に真面目に戦った人たちを悪く言う資格など、あるようにはまったく思えないのです。
もし皆様が、インドネシアのバリ島、デンパサール市に行かれたなら、是非、三浦氏の墓地にお参りをして頂ければと思います。
※この記事は2010/9の記事をリニューアルしたものです。



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