■ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識
2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。
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いまどきの教科書に限らず、私などが学生時代でもそうだったのですが、戦後の歴史教育のひとつの大きな特徴として、「大化の改新」をひと言で言ったら、
「天皇を中心とする中央集権国家の建設を目指した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)によるクーデター」といった教え方がされています。
これ、全然、違います。
すこし考えたらわかることです。
そもそも「大化の改新」という名前になっています。「新たに改めた」のです。
それがいつかといえば、西暦645年であり、それが「大化元年」のことですから「大化の改新」です。
では何を改めたのかというと、強烈な富を持っていた蘇我氏という有力豪族を打ち倒した、とそこまでは合っているのですが、実は、これは有力豪族によるウシハク統治が顕著になりすぎていたものを、これを討ち改め、本来の日本の国是であるシラス統治に新たに戻したのです。
ですから「天皇を中心とする中央集権国家の建設を目指した」のではないのです。
「天皇を中心とするシラス国の復活を実行した」のです。
蘇我氏というのは、朝鮮半島からの渡来系であるとはよく言われることです。
もともとは、品部といって、品物をつくる職人さんの一族として日本に渡来していたのですが、これが渡来仏教勢力と結びつくことで巨額の富を手にするようになり、その富をもって政界になだれ込み、日本の統治の在り方が、有力豪族が土地や民衆を支配する「ウシハク統治」へと事実上、改変していっていたわけです。
状況は、戦後の日本社会と、実はきわめて酷似していたのです。
ところが日本という国は、民衆こそ宝とする、本来シラス統治の国です。豪族が私的に民衆を支配し収奪するということを国是とする国ではありません。
そこで、皇太子殿下であられる中大兄皇子が、日本古来の有力貴族である中臣鎌足らと組んで、富を私的に独占し、日本の朝廷の姿をウシハク統治に変えようとしていた蘇我氏を討ち果たし、改めて「シラス国」を国是として日本のカタチを再編しようとしたのが、実は、大化の改新なのです。
その証拠は、大化の改新の翌年に打ち出された改新の基本方針の中に明確に書かれています。
1 公地・公民とし、豪族が私的に私有していた土地や民衆を天皇の直轄に戻す。
2 そのために班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)によって戸籍と、土地の登記簿をつくる。
3 全国を国と郡ぐんに分ける。
4 租庸調(そようちょう)による税制を引き、国が税を直接取り立てる。
要するに1〜4までを総括すれば、土地や領民に関して、豪族の支配を認めず、すべてを天皇の統治という大本の状態に戻す、ということを、ここで明確に述べているわけです。
このことを、戦後の学者や学校の教科書などでは、「だから天皇を中心とした中央集権国家にしたのだ」と説いているわけですが、そこが違うのです。
大化の改新の際の前も後も、天皇には政治の直接権力はありません。
政治権力は、あくまで天皇の下にある朝廷の、それも太政官にすべての権限があって、天皇は、その太政官に政治的権威を与える役割です。
つまり天皇は、会社にたとえればオーナーであって、実質的な会社の経営(製造、営業、経理、賞罰、軍事)等の一切は、太政官という名前の社長に全権を委任(親任)しているのです。
これが、我が国の世界の王国などと異なる最大の違いです。
このことがどういう効果を生むかは、非常に簡単でわかりやすいことです。
いま、これを読んでいる貴方の手元にあるスマホかパソコンが、自分のものであれば、貴方はそれを勝手に処分する(処刑する)、あるいは人に売る(奴隷売買)ことが自由にできます。
けれど、そのスマホやパソコンが会社のものであれば、貴方は、同じ貴方、同じパソコンであっても、いま目の前にあるそのスマホやパソコンを、勝手に処分することはできません。
つまり、これが「おおみたから」です。
民衆や土地が、政治権力よりも上位の天皇の「たからもの」とされることによって、豪族たちが私的に民衆を支配し収奪することができなくなるのです。
租庸調といった税制も、豪族たちの私的で強欲な支配を脱して、民衆が均一な税で済むようにとしたものですし、戸籍も登記も、家や土地や民衆を、すべて天皇の「おおみたから」とするためのものです。
これが公地公民の意味です。
そもそも「シラス」、「ウシハク」という概念は、古事記に出ているものです。
その古事記は、神の書とさえて門外不出とされ、一般には対外向けに書かれた日本書紀が正史とされてきました。
日本書紀と古事記の違いは、いろいろな点が指摘されていますが、その最大の違いは、「シラス」「ウシハク」の記述です。これが古事記にはあり、日本書紀にはありません。
ところが不思議なことに、古事記の神代の巻では、その総文字数のなんと3分の1をつかって、大国主神話が描かれ、その最後に「汝之宇志波祁流 此葦原中國者 我御子之所知國」という天照大神からの神勅が伝えられています。
「汝がウシハクこの葦原中国(あしはらのなかつくに)は、我が御子のシラス国ぞ」と読みます。
古事記の神代の巻の3分の1のページを使って、まさにこの一文の神意が、そこに描かれているわけです。
ところが日本書紀にはその記述がない。
それが何を意味するかというと、これは日本のみならず東亜社会の当時の一般的習慣なのですが、本当に大切なものは、秘伝として表には出さない。
本当にわかる人、知ることのできる人だけが、最後に神髄としてたどり着けるようにする。
そして一般には、その一番大事なところは公開しない。
とりわけ日本書紀は、漢文ですから、対外的にも使用される史書にあたるわけです。
ですからそういうところには、日本という国の神髄にあたる文書は書かないで隠す。
これが古代からの我が国の文化です。
つまり、古事記と日本書紀の違いは何かといえば、古事記は秘伝書であり、日本書紀は公開書であるという違いにあたります。
そしてその古事記の、ある意味最大のエポックとして描かれているのが「シラス統治」なのです。
日本は、古代からずっと、というか神話の時代からずっと「シラス国」を目指し、国作りをしてきていたわけです。
ところが渡来人たちが財力を得て政界に進出し、蘇我氏のように政治を壟断し、私的に莫大な富を蓄えるような者が出てきました。
富というのは、一定のパイの奪い合いです。
ですから、誰かが特別に富めば、他の多くはその分、貧しくなる。
その富んだ人が、民衆のために新田開発などの投資をしてくれるなら、富は循環し、結果として民衆の生活が豊かになりますが、一部の人だけが富を独占したら、多くの庶民は飯が食えなくなります。
韓国のセボル号遭難事件に関連して、オーナーの宗教団体のトップが、見渡す限りの土地を私有していたなんてニュースが先日報道されましたが、いまの日本でもこれは同じで、一部の新興宗教団体や渡来系の人たちが私的に富を独占してしまっているわけです。
おかげでいまの日本は、日本全体の経済力は戦前よりもはるかに大きなものとなっていますが、若いご夫婦などでは、旦那がひとつの会社の仕事をするだけで飯が食えるという世帯はまずなくて、ほぼ100%夫婦共稼ぎ。しかも旦那の多くは、昼間の仕事だけでは食えなくて、夜、コンビニでバイトしたりしています。
一昔前の日本では考えられなかった事態です。
富が独占されると、こういうことが現実化します。
それと同じことが起きたのが、要するに7世紀だったわけです。
そしてこのままではいけない、と立ち上がったのが中大兄皇子であり中臣鎌足たちでした。
そして大化の改新は孝徳天皇の時代に起きますが、すべてを成し遂げたあと、中大兄皇子が孝徳天皇から二代後に、天智天皇となられています。
つまり、天智天皇は、皇太子殿下のときに大化の改新を断行し、それが一段落してから、政治の上の機構である天皇となられたわけです。
そしてその天智天皇の御製が、実は百人一首の一番歌になっているのです。
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
わが衣手は露にぬれつつ
この御製は、天智天皇が、天皇自らが農事に精を出されているお姿を詠んだ歌です。
君民一体となって、みんなが豊かに暮らして行く。
それがシラス国である、ということです。
幕末に、黒船がやってきて、日本は明治維新が始まりました。
維新というのは、訓読みすると「これあらた」で、これは「改新」と同じ意味です。
黒船がやってきたのは、嘉永6年ですが、そういう意味では、明治維新は、「嘉永の改新」あるいは、「明治の改新」と読んでもよいものといえます。意味は同じです。
そして明治維新によって、大日本帝国憲法ができましたが、その大日本帝国憲法の第一条は、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」です。
ここでいう「統治」は、「統めらふ(スメラフ)」で、スメラフは、シメラフの変化したものですから、もともとの意味は「シメラフ」つまり「シラス」を意味します。
ですから大日本帝国憲法の原案では、「大日本帝国は万世一系の天皇これを知す(しらす)」となっていました。
要するに、黒船という外圧がやってきたときに、日本があらためて行ったことは、武家政権としての幕藩体制をあたらためて、挙国一致のシラス国への回帰であったわけです。
どの国においても、革命や改革は、その国の歴史伝統文化に基づくものでない限り、絶対に成功しません。
そのことは世界各地の歴史がそれを証明しています。
その意味では、日本の神髄は「天皇のシラス国」です。
日本がこれから進むべき道、それは、まさに大化の改新や、明治維新と同じ「シラス国・日本」への回帰です。
なぜなら、その国や民族の歴史伝統文化に則った憲法や国法、政治でなければ、絶対にその国に定着しないからです。このことは世界の歴史が証明しています。
そしてシラス国は、実は人類共通の理想社会であるといえます。
なにせ「民衆こそ国のたから」と規定するのです。
つまりこれは、究極の民主主義であるということです。
では、いまの民主主義は、本当に民主主義なのかというと、そこは実は疑問に思うのです。
なぜなら、民衆が選挙によって民衆の代表を選ぶとしていますが、その選挙は「対立と闘争の場」です。
アメリカなどでは特に顕著ですが、対立候補に対しては、まさに罵詈雑言の嵐です。
規制がなければ、撃ち合いになっている。「そこまでやるか?」というくらいです。
実際に、副大統領が対立候補と決闘をして、相手を射殺した事例もあります。
つまりいまの民主主義は、その根っこのところから「対立し闘争する」という争いを招く仕組みになっています。
そして、当選した議員や大統領は、任期中、いわゆる特権階級となります。
アメリカも、他の大統領国も、大統領は、国民を殺しても構わない政治的存在。つまりこれは人気のある国王だということです。
ですから任期中に私的蓄財を図ろうとする馬鹿者もあらわれる。
つまり、大統領という存在自体が「ウシハク」存在になってしまいます。
ところが日本のカタチは、これらとまったく違います。
政治権力を行使しない天皇という我が国最高位の存在が、民衆をたからものとし、政治はそのたからものを預かる立場となるのです。
そして政治は、施政者が一方的に国民を使役するのではなく、まずは国民に知らせる。理解を得る。その上で、国を挙げて政治に取り組む。
これが「シラス国(漢字で書いたら「知国」)」です。
そしてそれは、実は、ウシハク世界に置かれた地球上のすべての民衆が待ち望んでいる人類の至高の理想世界なのです。

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