■ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識
2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。
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上にあるのは、今年の「しあわせ」がテーマの今年の新聞広告クリエーティブコンテストで最優秀賞をとった作品なのだそうです。
実にとんでもないものが評価されたものです。とても悲しく思います。
なぜならこのポスターは、日本の伝統文化を否定しているだけでなく、勧善懲悪という人類普遍の正義さえも否定し、なんと「犯罪者が安心して犯罪ができるように、警察を退治しましょう」といってい広告だからです。
これを見て、「素晴らしい!桃太郎はやっぱり悪だ」と思うなら、その人はすでに世界の標準的であたりまえの常識を見失っています。
桃太郎が退治した鬼たちは、村人たちを襲い、外道の限りをつくしていたのです。
外道というのは、人の道に外れた行いです。
だから桃太郎が立ち上がって退治したのです。
その桃太郎を、まるでイジメの加害者扱いする。それは本末転倒です。
しかも新聞広告のコンテストで最優秀の評価とは、世界の恥さらしもいいところです。
こういうものを、クリエイティブと思う人は、すでに常識を失っています。道に外れているのです。
つまり同じ、外道の仲間だということです。
こういうのを「クリエイティブ」とはいいません。「コリエイティブ」です。
人類普遍の「正しい道」というものは、確実にあります。
万古不易(ばんこふえき)の人道といってもよい。世界共通の人々の願いであり常識です。
モーゼの十戒にある、汝殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ、嘘を言うなかれもそうですし、什の掟(じゅうのおきて)にある、卑怯な振舞をしてはなりませぬ、弱い者をいぢめてはなりませぬもそうです。
少し高度なものなら、教育勅語の教育勅語の十二の徳目も同じです。
これをわたしたち日本人は「人の道」と呼びました。
その人の道から外れたものが「外道(げどう)」です。
あるいは人の道が、まっすぐなものとするなら、これを斜めにしかみない者を「斜めの人」すなわちこれがヤクザ者であり、大昔ならそうした人たちのことを「傾いた人」という意味で「傾向者(かぶきもの)」と呼びました。
「傾向者(かぶきもの)」は人の道を外れた者たちですから、これを数えるときは「ひとり、ふたり」とは数えません。一匹、二匹というように、家畜や動物として数えました。
そこまでして私たちの祖先は、人の道を大切にしてきたのです。
ところが、お隣の国から日本にやってきた人たちの中には、そういう人としての常識を持たない人たちがいます。
自分さえ良ければいいのであって、他人がどうなろうと知ったことではない。
弱者を装って泣きわめけば飴を多くもらえ、民族の発祥が女性を、それも熊のような女性というのですから、どんな女性だろうかと思いますが、それも人妻を白昼堂々、壇上で強姦して生まれた子供が民族発祥の英雄という、およそ世界の常識からもかけ離れた民族文化を持つ人たちです。
日本にやってきた以上、郷に入れば郷に従うならわかりますが、そうではなく日本にやってきて日本の文化を破壊し、破壊することで個人の利得を狙うというのですから、これはもう犯罪集団です。
日本で生まれ、日本の学校で日本人として日本の教育を受けていても、かわらない。
学生時代、墓地で墓石を倒したり、その上をぴょんぴょん飛び跳ねることが遊びだったなどという、およそわたしたちの常識では図りかねないし、常識がないというよりも、そもそも常識を持たない。利害しか理解し得ない人たちです。
そういう人たちが、日本の社会に入り込み、日本人のような顔をして、日本の文化をどんどんと破壊していく。
そういう人たちや、そういう人たちの行動を「警戒」すべきと唱えれば、それを「差別」だというし、日本の文化破壊を迷惑だと主張すれば、「いいや、その破壊こそがクリエイティブなのです」、おかしな英語で誤摩化そうとする。まるで本末転倒です。そんなものは「コリエイティブ」でしかありません。
日本人が常識としてもたない非常識な発想をするから、コリエイティブは目立ちますが、その実は、身勝手で人々のことを考えない利己主義です。
そして糾弾されることを恐れるから、自分たちはいかにも弱者であるかのように装う。
昨今、どこぞの国では整形が大流行とのことですが、そうやって小手先で誤摩化すことで利得を狙うという意味では、同じ発想の延長線上にあるのかもしれません。
国や民族には、それぞれに異なる文化意識があります。
ニュージーランドのある種族は、男性同士が親しみを込めて挨拶するときは、互いの性器をさするのだそうです。
私は遠慮したいけれど、他にもアフリカのある種族では、乳児に母が母乳を飲ませますが、父も下半身をしゃぶらせて精液を呑ませるのだそうです。これまたわが家では絶対に遠慮したいことです。
かようにそれぞれの国や民族には、国や民族を超えて共通する普遍の価値観がある一方で、それぞれごとにまったく異なった文化もあるわけです。
風土や歴史が違うのです。それは当然のことです。
ですからたとえば米国なら、弱者を助け、悪漢をやっつけるのが、ヒーローです。
悪者を退治して美女と名声を手にする。
それがかっこいいことです。
中東なら、アリババやアラジンがヒーローです。
盗賊に盗賊をして大金持ちになれば、ヒーローです。
日本のような鼠小僧次郎吉という発想はありません。
韓流は、「泣く子は飴をもらえる。大泣きする子は飴を全部もらえる」という文化です。
ですから常に被害者を装って泣きわめきながら、その実、手前勝手な自分の利得を狙います。
それが彼らにとっての文化です。
冒頭のポスターも、鬼がいかにも弱者を装っていますが、鬼たちがしでかした悪行についてはまったく触れず、ただ自分たちは弱い被害者を装っています。
日本人からするとこの感覚は奇異に映ります。
奇異だから目立つ。そして奇異なことをクリエイティブと勘違いする人が出る。
しかしそれは、許すべき範囲を超えています。
国や国民が、民族的価値観を失うと、こうなります。
他人がよく見えてしかたがなくなる。
そしてものごとの善悪の区別がつかなくなる。
日本はChinaやKoreaに文化侵略を受けているといいます。
それは、侵略どころが破壊活動です。
これを容認していたら、いくら日本が多様な価値観を認める多神教国家であったとしても、池に毒を投げ込まれたようなもので、池の魚たち(つまり日本人)は死滅します。
まさにそれが彼らの狙いなのですが、少しずつ毒を盛られている日本人はそれに気付かない。
日本の文化破壊、日本解体を目論む者たちを糾弾することは、もちろん必要です。
拳をあげて「許さないぞ」と声に出すこともとても大切なことです。
同時に、日本人が日本人としての文化を取り戻すことは、それと同じくらい大切なことです。
誰もが自分は正常だと思っています。
はやい話が、売国政党も、売国議員も、不逞在日も左翼も、みんな自分は正当であり正常であると信じて疑いません。精神病院にいる患者さんたちと同じです。
けれど、いつの間にか毒が体にまわっている。
外道の世界に足を踏み入れている。外道=人でなしの世界に足を踏み入れている。
これは由々しきことです。
韓国では、学校の歴史の授業で、
「朝鮮戦争は日本の侵略に対して朝鮮半島の民衆が立ち上がった抗日戦争である」と教えています。
とんでもないデタラメですが、そう答えなければテストでペケをもらいます。
彼らにとっては、それが「正しい歴史」なのです。
日本人は、歴史は真実のと思っています。
だから韓国の歴史はファンタジーだと笑います。
しかし、そもそも歴史というのは、「書かれたもの」のことです。
歴史という漢字は、「綴られた文(史)」という意味です。書かれたものが歴史なのです。
昔の秀吉の朝鮮征伐は、日本が朝鮮半島に攻め入んだ戦いです。
そのとき朝鮮の民衆は、「ようやく解放軍がやって来た」と大喜びしています。
それでソウルまでの道案内までしてくれました。
だから秀吉軍は、あっという間にソウルへ攻め込んでます。
ところがその責めたはずの日本の大名の中には、日本が朝鮮半島に攻め込むのは怪しからんといって、秀吉軍と戦った大名もいます。
現実の歴史は、実は、たいへん多様です。
ですから何をもって記述するのかによって、歴史は180度違うものになります。
ただし、長い眼で見れば、その正邪はあきらかになります。
良いことをすれば発展するし、悪いことをすれば淘汰されるからです。
その「良いこと」が人の道です。
悪は、隙をみせれば、図に乗ってきます。
つまり、悪を黙って見過ごせば、それは悪です。
日本は、まるでその悪の道、外道の道に染まっています。
歴史を知らない、学ばない、学ばせない。日本人でありながら、日本文化を知らない。わからない。
何が正義で何が悪かさえもわからない。
最近のことですが、ある方が新入社員の若者たちに研修で「騙す人と騙される人、どっちが悪い?」と聞いたのだそうです。
すると若者たちは、「騙される方が悪い」が圧倒的だったそうです。
日本人の理性そのものが、いまや危機に瀕しているのです。
安倍総理がいくら誠意を尽くして集団的自衛権を説明しても、海江田氏、岡田氏とは議論になりません。
議論は、本来、解決を求めて互いに話し合うことをいいます。
しかし両氏は、話し合って解決することなど望んでいません。
ただ揶揄し、反対するために反対しているだけです。
はじめに結論ありきです。
こういうものは、議論とも論戦ともいいません。なぜなら、ただ言い張っているだけだからです。
そもそも、国を守ろうという意思がはじめから無い者が、そもそも国民の代表として議員をしていること自体が間違っているのです。
国民を守らない議員など、コーヒーを注げないコーヒーカップと同じです。何の役にも立たない。
ではどうしてそういう不当な人物が国会に当選しているのかといえば、それに投票する人がいるからです。
その投票する人たちは、いったいどういう人たちかといえば、昨日もそんな話がありましたが、その人は生粋の日本人なのだけれど、本気で世界政府があると信じているような人たちです。
現実にあった話ですが、一杯飲んだ席で、「世界政府が大事なんだ」という人がいたので、「そうですか。その首都はどこにあるのですか?」と聞いたら、スイスのジュネーブなのだそうです。
それは、大昔の国際連盟のことです。
そして「日本は、そこを脱退した」から、いまだに侵略国思想から抜けれないののだそうです。
日本はたしかに国際連盟を昭和8年(1933)年に脱退しましたが、その国際連盟は昭和21年(1946)に解散しています。
そのように申し上げたら、「違うよ。そうではない。いまもちゃんとある」のだそうです。もうめちゃくちゃです。けれど現実はそんなものです。
そもそも日本が米国と戦ったことすら知らない人が多いという状況の中で、日本人の正義感や価値観を崩壊させようと、ジャイアンやスネオ君が巨額の歳費を計上し、莫大なヒト、モノ、カネがつぎ込んでいます。
それによって、ありもしない韓流やChina流のアイデンティティが、日本国内に拡散されています。
のび太君は、一方的にやられっぱなしです。
こうした反日活動に脅威を感じて、これと戦おうという人たちも数多くいますが、みんな手弁当です。
国家戦略として反日活動が行われている一方で、それと戦っているのは手弁当の個人。
これでは激流を素手で止めようとしているようなものです。
カネをよこせといっているわけではありません。あまりにも日本は、無防備すぎると言いたいのです。
対策としてスパイ防止法も必要でしょう。
破壊活動防止法の摘要範囲の拡大も必要であろうと思います。
けれどそれらとおなじくらい、日本人が日本人としてのアイデンティティを取り戻すために、もっと大々的にヒト、モノ、カネを、国として、あるいは地方公共団体として、日本は、日本人の文化意識を取り戻すための施策を打つ必要があると思います。
学校教育だけではありません。社会人教育、大人向け教育訓練プログラムが必要なのです。
国家として、民族として、日本人が日本の文化をしっかりとわきまえ、備えるための教育訓練プログラム、あるいはそれを実現するための社会インフラの整備が急務なのです。
反日と戦う。これは必要なことです。
けれど、それだけでは、まるで一輪車です。倒れてしまう。
日本がなぜ失ってはならない国なのか。なぜ日本はすごいのか。そういうことを日本人ならみんなが共有していく必要があるのです。
その二つが揃って、はじめてクルマの両輪となる。倒れなくなる。
日本人が日本人としてのアイデンティティを取り戻すこと。
それが社会運動にまで進化したとき、はじめて日本は生まれ変わることができます。
この活動がなければ、日本解体はどんどん進みます。
それだけに、いまこそ国をあげて、日本の文化や価値観、人の道として正しい道を、子供だけではなく、企業も、大人も、みんなが取り戻せるための国家的取り組みが必要になってきていると思います。
そのことを、国政の場でも、是非、実現していっていただきたいと思います。

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