■ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識
2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。
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沖縄に行ってきました。
台湾人戦没者の慰霊碑建立のための会の結成のためです。
沖縄の平和祈念公園には、沖縄戦での戦没者の慰霊碑が各都道府県単位で建っていますが、その中には、なんと660坪という広大な地所で、韓国人戦没者の慰霊碑も建てられています。
ところが、台湾人戦没者の慰霊碑がない。
公園内には、沖縄戦での戦没者のお名前を刻んだ碑もありますが、そこに記載されている台湾人は、わずか40余名です。ところが実際の台湾人戦没者は、4千名以上いる。
つまり、ちゃんとした調査すらされていないわけです。
そこで日台親善のために、台湾人戦没者のお名前をちゃんと刻んだ、ちゃんとした慰霊碑を建てようという運動を、台湾の大学教授の許光輝先生が中心となり、沖縄の錦古里さんや、台湾の国会議員・周倪安さんらとともに、日本の元防衛庁長官であった愛知和男さんなどとともに、台湾人戦没者の慰霊塔を建立しようという動きになったのです。
この慰霊碑建立の目的は、一に戦没者の慰霊ですが、同時に日台の絆を一層強化しようとするものです。
さて、この会議出席のために、台湾からも国会議員2名、日本における領事館からも2名、また趣旨に賛同いただいている台湾の方約30名とともに、日本からも地元県会議員他、地元の保守系の有力者、日台交流促進のメンバーなどが一同に集うこととなりました。
たいへんありがたいことに、私もご招待いただき、これに参加させていただいた次第です。
そんな次第から、6月20日に、その沖縄平和祈念公園に、みんなで訪問しました。
韓国の慰霊塔も観てきました。
そして、たいへん驚きました。

まず敷地が、とてつもなく広い。これだけでひとつの公園といって良いくらいです。
そしてその慰霊施設は、平和祈念公園の入り口近くにあり、そこに日本語、英語、韓国語で書かれた巨大な石で彫られた説明板が建っています。
読んでびっくりしました。
転載しますので、ご一読ください。

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1941年、太平洋戦争が勃発すると多くの韓国青年達は日本の強制的徴募により、大陸や南洋の各戦線に配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された1万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。
祖国に帰り得ざるこれらの冤魂は、波高きこの地の虚空にさまよいながら、雨になって降り風となって吹くであろう。この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれは全韓民族の名において、この塔を建て謹んで英霊の冥福を祈る。
願わくば安らかに眠られよ。
1975年8月
韓国人慰霊塔建立委員会
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この慰霊塔には、当時の韓国大統領の署名もあるくらいですし、660坪という広大な敷地ですから、韓国が国をあげて、この慰霊塔建立を図ったであろうことは明白ですし、また、上の文も彼の国の国是となっている思いなのでしょう。
けれど、当時の朝鮮半島は日本の一部です。
そしてそれは朝鮮族が自ら望んだことです。
そして強制徴募とはいっても、半島の人々は、軍属としての徴用です。
つまり作業員としての徴用です。
これに対し、日本本土の人は、徴用=兵役です。敵がやってくればいの一番に命を失う。
逆にいえば、日本人こそ差別され、危険な位置に置かれていたのだし、逆にいえば、それだけ韓国人は優遇されていたわけです。
それに文章からすると、あたかも沖縄戦において、韓国人軍属が日本人によって虐殺されたみたいですが、彼らが死んだのは、米軍の攻撃によるものです。
何をはき違えているのかと言いたくなります。
ちょうど、この碑文を見ているときに、公園のガイドらしき人が、中学生の一団を連れてやってきて、慰霊塔の説明をしていました。
「この祈念公園では、牛島中将とか戦争の責任者が最も上座にあたる奥深いところに祀られ、韓国人はこうして入口近くの下座に慰霊塔を設置させられました。どこまでも日本は韓国を差別しているとんでもないそのやり方に、わたしたちは怒りを禁じ得ないでいます」とか説明しているから、
「ちょっと待って。それおかしいよ」と、横から口を挟んでおきました。
すると、そのガイドさん、プリプリしながら「あなたは戦争を賛美するのですか」というから、「あなたのようなそういう態度こそ、まさに争う姿勢なのではありませんか?。わたしたちの父祖は、そういうものから国を守ろうとして戦ったのですよ」と申し上げたところ、カンカンに怒りながら、どこかに行ってしまいました。
お金をもらってやっているガイドさんが、日々、あのようなデタラメを中学生たちに吹聴しているのかと思うと、実に暗澹とした気持ちになりました。
ちなみに、この韓国の慰霊施設ですが、丘陵に円形の古墳の形状をした慰霊碑となっています。
おもしろいもので、この慰霊碑が建てられた頃は、韓国南部で古墳が発掘され、「それみたことか。古墳文化もウリ達が日本に伝えたニダ」と彼らが胸を張っていた時期に一致します。

ところがその後、韓国で発掘された古墳は、我が国のものよりも2世紀近く新しい、つまり日本の古墳の方が古く、誰がどうみても古墳文化は日本から韓国に伝わったとしか考えられない事実が証明されてしまいました。
もうひとつ言うと、古墳というのは、水田を開墾するために生まれる土砂を計画的に盛り土したものですから、基本的に丘陵地に作られることはありません。
あくまでも慰霊のための施設ですから、あまり悪口は書きたくないのだけれど、残念ながら韓国は、こうした石造りの巨大な施設を建造することで、見事に自爆してしまっているわけです。
つまらないナショナリズムに凝り固まり、結果、大恥をかくような施設をつくり、これで本当に、散っていかれた韓国人戦没者の御霊が慰められるのか、私にははなはだ疑問に思えました。
さて、せっかく沖縄のことを書いていますので、もうひとつ書いておかなければならないことがあります。
これは戦没者とは全然関係ないことなのですが、首里城のことです。
実は、私は25年ほど前に、首里城に行っているのですが、この頃はまだ、首里城跡といって良い状態で、城壁や建物の基礎の一部が残っているだけの廃墟のようなところでした。
それが、今回行って驚いたのが、ものの見事に正殿から各門までがきれいに復元され、正殿の内部は展示資料館となっていたことです。
素晴らしい施設に生まれ変わり、しかも、駐車場の案内人から、各通路の案内嬢、観光説明員など、この場内だけで、たくさんの雇用が創出されていました。
これ自体は、素晴らしいことです。

ところが、中の展示物の説明文を読んで、ぶっ飛びました。
琉球王は、国王の代替わりごとに、その報告のための使節団「謝恩使」を、徳川幕府の将軍就任ごとに祝賀のための使節団「慶賀使」を、江戸に派遣することを「義務づけられました」と、書いてあるわけです。
これだけなら、「ああ、そうか」という程度のことなのですが、ところがその次に琉球王と中国の関係というコーナーがあって、そこには、
「琉球と中国の交流は1372年から始まり、1879年に沖縄県が設置されるまで約500年間も続きました。琉球で国王がかわるたびに、中国皇帝は使者を遣わし、首里城で即位式を行わせました。この外交的な式典を「冊封(さくほう)」といいます。冊封を通じて琉球は中国との結びつきを深め、貿易や文化交流を順調に進めることができたのです」と書いてあるわけです。
この文自体は、それ単体なら、それほど問題にならないかもしれません。
けれども、その前にある徳川幕府との関係の記述が、「幕府によって江戸派遣を義務づけられた」とあり、一方でChinaとの関係については「500年続いた」、「貿易や文化交流を順調に進めることができた」と非常に前向きな交流という印象操作がされているわけです。
ちょっと待ってよ、と言いたくなります。
ガイドを吊るし上げてやろうと思って、すこし待ったのですが、ちょうど行ってしまった後で、次が来ないので引き揚げましたが、これまたとんでもない話なのです。
そもそも琉球王朝の成立は、12世紀の源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖となったものです。
ですから首里城も、最古の遺構は14世紀末のものです。
琉球といえば、浦島太郎が助けた亀に連れられて行った先が竜宮城で、そこで乙姫様に出会ったなんて昔話がありますが、これは日本書紀によれば雄略天皇の時代(477年)の出来事ですから、浦島太郎が出会った乙姫様の竜宮城は、首里城とも、琉球王朝とも何の関係もありません。
源為朝を始祖とするその琉球王朝は、なるほどChinaとの国交を持つために冊封を受けました。
冊封を受けたから、琉球王なのです。王の称号は、China皇帝の子分だということです。
琉球は、めずらしい珊瑚などを産しましたから、Chinaとの交易は盛んに行われました。
ただ、Chinaとの交易は、儲かる代わりに、たちの悪いChineseもやってくる。
そういうたちの悪いChineseを捕縛するためには、China皇帝の権威を借りる必要があったから、琉球王はChina皇帝の冊封を受けたのです。
そういう必要性がなければ、何も王が好き好んで他国の王の配下にはいる必要はありません。
現実のChinaとの取引は、交易による利益という良い面ばかりではなかったということです。
その琉球は、1609年に薩摩藩の付庸国となりました。
つまり、琉球王朝は、Chinaの冊封を受けながら、同時に薩摩藩にも所属することで、独立を保っていたわけです。
その琉球王朝は、1871年の廃藩置県の際に、晴れてChinaの冊封体制から脱出し、琉球王は華族となり、首里城は国宝とされて、大切に保存されてきたわけです。
その首里城が、破壊されたのは、大東亜戦争の際の沖縄戦です。
米軍の艦砲射撃が容赦なく首里城を襲い、結果、首里城は灰燼に期しました。
ところが昭和25年、つまり日本がGHQに占領統治を受け、沖縄が米軍の占領下にあって米国の一部となっていたときに、米軍が首里城の跡地に琉球大学を築いてしまう(米国民政府布令第30号)のです。
文化破壊もよいところですが、これが、昭和47年の沖縄返還の5年後には、首里城跡地からの移転事業が進められ、いまの敷地に琉球大学が移転。
そして、平成4(1992)年に、日本政府の丸抱えの援助金によって、首里城の復元事業が完成するわけです。
つまり、琉球における首里城は、日本政府の保護によって大切扱われ、米軍によって一時は焼け野原となり、そこに琉球大学を築かれるなどの事柄はあったものの、沖縄の本土復帰後には、ふたたび日本政府によって、復元事業が行われ、そのおかげで、立派な首里城ができあがり、施設内の展示物も、説明ガイドさんたちの雇用も、生まれているわけです。
けれど、そういうことへの感謝が、首里城内の展示施設内のどの展示物の説明からも感じられない。
あるのは、ただただ、日本による被害者であるという主張だけです。
このことはとても残念に思いました。
さらにびっくりしたのが、沖縄県庁や、各市の市庁舎です。
県庁も、市庁舎も、どこぞの莫迦高いデザイン設計事務所に依頼したと思しい、とてつもなく豪華絢爛な建物となっていました。
おそらく、全国の都道府県の中で、これほどまでに立派な施設を持つ県や市は、他にないのではないかとさえ思う。

これまた沖縄県民からの税収によるものではありません。
日本国政府からの補助金によって建設されたものです。
そして、こうした建設にあたっては、政府からの補助金の一部は、必ず、県や市の有力者のフトコロに、一定のマージンがはいる仕掛けになっています。
それが沖縄に、沖縄の新興エスタブリッシュメントを産み、そのエスタブリッシュメントのメンバーたちは、政府からの補助金を得るために、県内に反日をあおり、政府がそれをなだめるためにと金を出し、その金の一部がキックバックで、県の要人のフトコロにはいる。
沖縄の幹線道路も、これまた異常なほど奇麗に整備されていたし、おどろくべきことに、那覇市の面積は、昔の5倍になっています。
なぜ5倍になっているかといえば、埋め立て工事をしたからです。
沖縄の自然を守れといいながら、その一方で、赤土で海を埋め立てる。
工事が行われ、政府から補助金が出る。
その補助金の一部が、エスタブリッシュメントの一部の人たちのフトコロにはいる。
沖縄は、ものすごく車が多くて、その一方で古い街並みは、昔ながらの狭い道ですから、ほとんどの民間人は、みんな軽自動車か小型乗用車を使っています。
けれど、ときたま、びっくりするような大型車が走っている。
見ると、その横に「○○タイムス」とか「○○新報」とかのロゴがはいっていたりします。
首里城を出るとき、不快なものがこみあげてきて、耳の奥の方から、
「俺たちは、沖縄をこんな風にするために戦ったんじゃない」という、悲痛な叫び声が聞こえてきました。
いささかカルトじみていますが、それは私の単なる思い込みかもしれないし、本当に聞こえたのかもしれない。
どちらなのかはよくわかりません。
けれどいえることは、和の心は、そこに互いの感謝の心がなければ、絶対に成立し得ないということです。
沖縄は、戦争の惨劇があった場所です。
そしてその沖縄には、戦没者の慰霊施設があり、また、県立美術館があります。
この県立美術館も、見て、びっくりしました。
なぜならその外観は、まるで軍事要塞か、Chinaの城塞都市国家そのものだったからです。

沖縄の民家にも石造りの塀があります。
けれどそれは、台風対策のための石塀であって、戦争のためのものではありません。
この美術館建築設計を許可した人たちは、いったい何を考えて、このような建物を築いたのでしょうか。
ともあれ、美しい自然に恵まれた沖縄、戦争の惨劇にあった沖縄、戦災で苦労した沖縄は、世界一、平和で豊かな街や県となるべきところです。
そしてそこは、平和、平和と声高に叫びながら、対立を煽り、闘争をして利権を保持する、そんな街や県ではあってはならないと思います。
沖縄は、いまのような平和を標榜しながら、実際には対立と闘争の場となっているように思いました。
そしてそこに政府補助金をめぐる利権があり、その利権のために左翼さえも利用され動員され、対立が煽られる。
ウシハク人々は、それが「政治」だと考えます。
断じて違います。
日本はシラス国です。
普通の沖縄県民は、左翼も右翼もなくて、誰も対立と闘争など望んでなどいないし、いまだに普通に感謝の心、和の心、共生の心を胸中に持っていると思います。
20世紀の共産主義の躍進には、ダーウィンの進化論(弱肉強食と自然淘汰)が大きく影響したといわれています。
けれど最新の科学では、このダーウィンの説は大きく修正されています。
どうなったのかというと、共生論にとってかわられているのです。
相互の共生ができなくなった種が滅び、生物はより共生しやすくなるように進化する、とされています。
恐竜が滅びたのは、弱肉強食で、強かったからではありません。
あまりにも巨大化し、肥大化しすぎて、他の生物との共生ができなくなったからです。
対立と闘争の果てにあるもの。
その良い例は、Chinaにみることができます。
2000年間、国ができては滅び、できては滅び、その滅んだ理由は、ことごとく外来皇帝による権力の肥大化と民衆からの乖離、そして果てしない復讐と殺し合いを続け、いまなお、それを国是としています。
沖縄にやってくるくらいのChinese観光客は、China国内では相当の富裕層ですが、その集団の通った後は、まるで大型台風の通り過ぎた後のようです。うるさいし、ゴミだらけです。
左翼系新聞の沖縄タイムスが、「Chineseは好きですか」というアンケートを沖縄県内でとったそうですが、答えは沖縄県民の83%が「嫌い」でした。民衆はちゃんと知っているのです。
いたずらに対立を煽り、一部の利得権者だけがボロ儲けをする沖縄でなく、みんなが幸せに生きることができる沖縄にしていく。
それが沖縄県民の真意だと思うし、それが先の大戦でお亡くなりになられた英霊と民間人たち全員の総意だと思います。
一日もはやく、健全な沖縄に戻ることを希望します。

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