■ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識
2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。
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いきなり冒頭に不愉快な写真ですが、一般に、李氏朝鮮最後の国王の妻、閔妃(みんぴ)の写真とされているものです。
もっともこの写真さえも、実は当時の妓生(きーせん)の売れっ子の写真とすり替えた偽物であるのだそうです。
この閔妃のことを、昨今の韓流ドラマでは「明成皇后」などと、もっともらしい名前を付しているようですが、これまたとんでもない話です。
当時の李氏朝鮮は、清国の属国です。
ですから清国のボスが「皇帝」であって、属国は「王」です。
「皇后」というのは、皇帝の妻のことであって、王の妻なら「王妃」でしかありえません。
「王」は、「皇帝」の部下なのです。
この閔妃は、後に殺害されています。
その犯人たちは、当時の朝鮮国王によって徹底的に捜査され、犯人は捕まり、犯人だけでなく、その家族まで、全員処刑されています。
主犯格の男は、逃亡していましたが、それに対しては、朝鮮国王は、なんと刺客まではなってこれを殺害しています。
閔妃殺害に関しては、日本がこれに関与したのではないかという説が当時ささやかれ(昔も今も、悪いことをするときは日本人になりすます)、このため日本も、国際社会における非難を畏れて、本件事件に関与したといわれる人物を全員逮捕拘留し、徹底的に調査しています。
結果は、公正な捜査の結果、全員「シロ」でした。
つまり日本人の犯行への関与は完全に否定されています。
ついでにいえば、このとき、のちに与謝野晶子の夫となる与謝野鉄幹も、取り調べの対象となっています。
けれど、彼などは、当日、ぜんぜん見当違いの場所で“釣り”を愉しんでいました。
つまり、事件になんの関係もなかったことが証明されています。
そもそもこの事件において、なぜ日本人が疑われたのかというと、殺害の犯人たちが、日本風の和服を着ていたとされているからです。
これだとまるで犯人は日本人です。

閔妃の殺害は、日清戦争終結、下関条約の年です。
そういう時代にあって、動きにくい和服にたすき掛けで日本刀をぶら下げて、などという服装で、しかも宮廷に殴り込みをかけるというのは、そもそも誰が考えても不自然です。
要するに、日本に憧れ、日本人になりたかった朝鮮人が、憧れの日本人のような服装で襲撃したわけです。
朝鮮人の意識は複雑です。
いまの時代は、日本人をバカにして、悪いことをする時は日本人になりすます。
閔妃の時代には、日本人に憧れて、悪いことをするときに、日本人になりすます。
バカにするにせよ、憧れるにせよ、彼らにとって、日本人は最高に意識する対象であるようです。
このことは、思春期の子供によくみられる行動によく似ています。
異性への憧れから、かえってその異性を虐めてみたり、あるいは持ち物などを真似てみたり。
ひとことでいえば、自分以上に意識しているわけです。
一方、日本人は、朝鮮人に憧れもなければ、バカにする気持ちもありません。
単に、対等の人として認識しているだけです。
その落差(温度差)に、日韓の問題の本質があるようにも思えます。
さて、閔妃殺害事件に関しては、当時の事件調査によって、日本人の関与は完璧に否定されています。
ところが、なぜか最近になって、日本人犯人説が急浮上してきました。
それがいつのことかというと、なんと2005年のことです。
この年に、ロシア大学の教授によって、Aleksey Seredin-Sabatin (Алексей Середин-Cабатин) というロシア人による事件についての報告書が発見されたのです。
この報告書がきっかけとなって、日本人犯人説が浮上し、日本人の非道が糾弾されるようになりました。
2005年といえば、ソ連崩壊から14年後のことです。
報告書を書いたSeredin-Sabatin という人物は、当時、大韓帝国政府に仕える人でした。
契約によって大韓帝国政府に仕えていたアメリカ人将軍のWilliam McEntyre Dyeの指揮下で働いていた人です。
記録の公開は、2005年5月11日です。
Seredin-Sabatinは以下のように記録しています。
=========
王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の「日本人」が詰め掛けていた。
彼らは奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。
そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。
複数の「日本人兵士」が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。
私は「日本人」が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。
二人の「日本人」が女官たちのひとりをつかんで建物から引きずり出し、そして彼女を引っ張って階段を駆け下りた。
また「日本人」のうち一人は、私に向かって、英語で「王妃はどこだ? 答えろ!」と繰り返し聞いてきた。
私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が「日本人」兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。
しかし、その中で何が行われていたのかは、私には知る由も無かった。
==========
ここでロシアのサバティンは、犯行グループを「日本人」と書いているのですが、なぜ「日本人」と特定できたかというと、要するに日本人風の服装であったからです。
ところが当時、現場に居合わせた日本人、朝鮮総督府取調局農工商部各長官石塚英蔵の書簡には、次のような記載があります。
==========
王妃ヲ引キ出シ二三ヶ処刃傷ニ及ヒ
且ツ裸体トシ
局部検査(可笑又可怒)ヲ為シ
最後ニ油ヲ注キ焼失セル等
誠ニ之ヲ筆ニスルニ忍ヒサルナリ
(口語訳)
王妃をひきだして、2~3ヵ所に切り傷を負わせ
かつ、裸体にして
笑いながら、また怒りながら、王妃の局部を念入りに検査し
最後に油を注いで閔妃を殺害したなど
その模様は筆舌に尽くしがたかった。
==========
日本人には、古来、対立する女性の局部を念入りに検査するという習慣はありません。
強姦や破廉恥を、恥として非常に嫌うのが日本人です。
一昔前には、刑務所ですら、女性に対する強姦や破廉恥行為犯は、人間のクズとして最下位に置かれました。
そして、事件については、国王である高宗自身が、
「王妃を殺したのは、不貞の私の部下だ」と証言しています(1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記))。
また、現場にいた王子の純宗は、
「国母を殺したのは、禹範善だ」と証言(往電31号)
そして純宗は、後に刺客を放って、禹範善を暗殺しています。
さらに、実行部隊隊長の朝鮮人・禹範善は、
「王妃を直接殺したのは、私です」と証言している。
(在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件)

要するに、閔妃は高宗国王の命を受けた禹範善らによって、高宗と純宗の目の前で、高宗の居室から引き出されたのであって、禹範善らは、閔妃を裸にして局所を晒し念入りに検査し、嘲笑した挙句、閔妃を殺害した、というのが、実際の歴史です。
そもそもではなぜ閔妃が、ここまでして辱められ、殺害されるに及んだか。
その原因も、そもそも閔妃自身にあります。
閔妃は15歳の時(1866年)に王の実父の夫人の推挙で王宮に入りました。
閔妃の夫である高宗は、政治と妻に全く関心を持たず、漁色と酒の放蕩三昧でした。
このため閔妃は、嫁いで数年もしないうちに王朝の政治に深く介入するようになっています。
そして、1873年には、高宗の父で摂政を務めていた大院君とその腹心の部下たちを、裏で画策して追放し、開いたポストに、自分の一族を据えて、政治の実権を握りました。
こうして始まった閔妃一族による政治を、「勢道政治」といいます。
地位が低いけれど勢力のある者が、一方的に政治の実権を握った政治、という意味です。
閔妃は当初、日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結するなど積極的な開化政策を実施し、日本から軍事顧問を呼び寄せ、日本のような近代的な新式軍隊を創設したりしたのですが、新式軍隊を気に入った閔妃は、清王朝に習った朝鮮の旧式軍隊に対して、給料も食事も出しませんでした。
お前たちはもう要らない、というわけです。
これに不満を持った旧式軍隊は、1882年、閔妃殺害を目論み、王妃の部屋に乱入しました(壬午軍乱)。
このとき、多くの閔妃派要人が残虐な方法で殺されるのだけれど、このとき王宮内にいた日本人の軍事顧問やその家族も、同様に旧式軍隊の兵士たちによってじつに残虐極まりない方法で、殺されています。
旧式軍隊が王宮に乱入してきたことを知った閔妃は、侍女を自らの身替りにして王宮に残し、自分はいち早く王宮を脱出。残された閔妃の身代わりの侍女は、死ぬまで強姦されつくしたあげく、五体をバラバラに切断されて殺害されました。
他方、王宮を抜け出した閔妃は、当時朝鮮に駐屯していた清の袁世凱のもとへ逃げ込みます。
そしてこのとき閔妃が清の袁世凱のもとに逃げ込んだことが遠因となって、実は日本と清との戦争・・・日清戦争が起こっています。
閔妃は、みずからの贅沢のために、日本が資金を出し、苦労して築いた鉄道の利権をロシアに勝手に売りさばきました。日本はやむなく高値を払ってロシアから権益を買い戻しています。
また閔妃は、閔妃の通貨を発行すれば、もっと贅沢三昧ができると、勝手に朝鮮国内で閔妃通貨を発行しました。
このため朝鮮国内の流通・金融を大混乱に陥いっています。
まさに無責任なやりたい放題だったわけです。
閔妃に追放された大院君は、京畿道楊州に隠居していたのですが、閔妃を国家存続を脅かすものと憂慮し、苦労して政局に復帰して、閔妃追放運動を始めました。
すると閔妃は、清をけしかけ、あるいはロシアにすがって、自分の権力の保持を図りました。
このため、朝鮮国内は、完全に大院君側と、閔妃側の2つに割れたのです。
こうした中で起ったのが、1895年10月8日の閔妃暗殺事件(乙未事変)です。
そしてその犯人は、大院君を中心とした開化派武装組織であり、彼らによって閔妃は、景福宮で、ついに暗殺され、遺体は武装組織により焼却されたのです。
※この記事は2009年8月26日の記事をリニューアルしたものです。

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