■ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識
2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。
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■新刊ラジオでも紹介されています。ねずさん本人も出演しています。
■耳で聴く『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!』
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沖縄本島のちょうど真ん中の少しくびれたようになっているところに、うるま市があります。
そのうるま市の東側のあたりは、かつて美里村石川といって、人口2千人足らずの静かな農村でした。
昭和20年の秋、ここに米軍による難民キャンプが設置されました。
石川には、沖縄各地から人が集められ、数か月で人口が3万人に膨れ上がりました。
それがきっかけで石川は、後に市になり、その石川市が近隣と統合されて、いまのうるま市になったわけです。
当時の沖縄は、まだ焼け野原です。収容所には、戦災の傷跡も深く、身内を亡くされた方、家や土地、田畑を焼かれ失った方、大けがをされ、手足を失った方などが集まっていました。
悲嘆にくれ、体の傷も心の傷も癒えないまま、老人でも女性や子供でも、彼らは米軍による復興作業に駆り出されました。
そして、作業によってようやくその日の食料と物資を得ていました。
こうした年寄りや女子供でも容赦なく労働に駆立てるという行動様式は、いまではほどんど語られることがなくなったけれど、当時の米軍の常識でした。
日本人は、人でさえなかったのです。
みんな、戦争で家族を失い、子を失った人たちです。
武器を突きつけられて、疲れた体で、無理矢理働かされる。
そんな状況ですから、みんな疲れきっていたし、希望なんてないし、生きる気力さえ失った茫然自失状態で、ただ、毎日を「言われたまま」生きている人たちでした。
その難民キャンプで、なんとかしてみんなの明るさを取り戻そうとした人がいました。
その人は、毎晩のように、まだ起きている家を見つけては、かんだかい声で、
「ヌチヌスージサビラ(命のお祝いをしましょう)」と言いながら、収容施設内に入り込みました。
そして沖縄三味線を鳴らしながら、琉球民謡の節に乗せて、琉球舞踊をくずしたヘンテコな踊りを踊りました。
みんなあ然としました。
けれど、「ヌチヌスージサビラ(命のお祝いをしましょう)」と、ニコニコ笑いながら踊るそのおじさんのユーモラスな姿を見て、ついつられてみんなも噴き出してしまう。
そして、一緒に踊り出す人があらわれる。
もともと、陽気な沖縄の人たちです。
なつかしい沖縄民謡の曲を聴くと、やもたてもたまらない。
そうして気がつけば、収容所の中のみんなが一緒になって踊っていました。

その変なおじさんが、ある施設を訪問したときのことです。
ひとつの家族が、枕元に位牌を置いていました。
そして生き残った家族の方が、涙を流しながら言ったのです。
「どうしてこんな悲しいときに歌うことができるのですか? 多くの人が戦争で家族を失ったのです。戦争が終わってからまだ何日も経っていないのに、位牌の前でどうお祝いをしようというのですか?」
するとおじさんは答えたそうです。
「あなたはまだ不幸な顔をして、死んだ人たちの年を数えて泣き明かしているのですか。生き残った者が生き残った命のお祝いをして元気を取り戻さないと、亡くなった人たちも浮かばれないです。沖縄も復興できないよ。さあ、遊びましょう。さあ、歌いましょう!」
明るく元気な彼の言葉にその家の人たちも、一緒に歌い出したそうです。
このおじさんは、小那覇全孝(おなはぜんこう)さんという方です。
後に沖縄の人々から「舞天(ぶーてん)」さんと呼ばれて親しまれるようになるのですが、もともとは、ものすごくまじめな歯医者さんです。
戦前、戦中は、歯科医として、口数も少なく、とても芸事をするような人とは、ほど遠い人でした。
けれど、戦争で何もかも失ったとき、彼は変わりました。
自分自身も、悲嘆にくれていたのです。
けれど、周囲を見渡せば、自分よりももっと悲惨な人たちがたくさんいる。
歯医者として、人を助ける仕事は、機材も失ってもうできないけれど、いまの自分にできることが何かあるのではないか。
そして彼は、風変わりなおじさんに変わったのです。
集まりがあれば必ず顔を出し、三味線をひいて場を盛り上げました。
泣いて傷ついている家庭を訪問しては、その場を盛り上げ、笑いの渦を起こしました。
舞天さんの三味線は、決して上手なものではありません。
踊りだって、ちゃんと習った人から見たら、めちゃくちゃです。
けれど、ニコニコした笑顔、おかしな踊り、おかしな節回しで語られる風刺の効いた漫談で、気がつけばみんな、おなかを抱えて笑っていました。
「そうだ。わたしたちは生きているんだ!」
笑いは、打ちひしがれた沖縄の人々の心に、活力がよみがらせました。
舞天さんとともに難民キャンプをたずね歩いた弟子の照屋林助は、後にこう語っています。
「小那覇舞天は私にとっては先生です。先生は、夜になると『林助、遊びに行こう』と私を誘いに来ました。水筒に入った自家製の酒をチビリチビリ飲みながら家々を回りました。
まだ起きている家を見つけると『スージサビラ(お祝いをしましょう)』といって入っていきました。当時は、一軒の家に100人くらいが詰め込まれて生活している状態でした。すぐに人の輪ができて笑いのうずが巻き起こりました。
先生のつくり出す笑いは、希望を失った人々にとってどんなに救いになったか、計り知れないと思います。
先生、すなわち小那覇舞天という人は、自分が有名になるとか、偉くなるとかいうことにはまったく興味を持たない人でした。
ただ、どうしたら人を楽しませることができるのかということばかり考えていました。
人を喜ばせる、人に喜んでもらうことが自分にとっての一番の喜びだったのです。
それは、笑いというものが、どんなときでも人の心をなごませ、勇気づけるものだからではないでしょうか。」
収容所を管理していた米軍も、さぞかし驚いたことと思います。
世界中、難民キャンプといえば、銃を突きつけ警戒していなければ、暴動は起こるし略奪はあるし、強姦や窃盗があたりまえという中にあって、沖縄の難民キャンプでは、石川地区に3万人もの人が収容されていたにもかかわらず、そこでは笑いがあり、三味線があり、踊りがあったのです。
戦前の日本というのは、暗い軍国主義といったイメージでばかり語られますけれど、決してそんなことはありません。
だって、いまは亡き有名な落語家や漫才師たちがいたのも戦前です。
戦前の日本人も、戦後も日本人も、同じ日本人です。
東日本大震災や阪神淡路大震災のときもそうでした。
銃で警戒する人なんていなくても、立派に治安が保たれる。
そんな国は、日本くらいなものかもしれません。
舞天さんは、元歯科医ですが、歯科医といえば、北海道で「真日本の会、ダイヤモンドクラブ」の運営をしている西間木俊光さんも、もともと福島で20年以上歯科の開業医をしてこられた方です。
ところが東日本大震災で、すべてを失っったとき、あらためて自分が日本人であること、そして日本という国の持つ素晴らしさに目覚められたといいます。
お会いすれば、とてもまじめな方です。
まじめだからこそ、みんなのために、自分にできる何かをしようと考える。
実は、舞天さん、西間木さんに共通しているのが、この「みんなのために」という感覚です。
忠義の「忠」という漢字は、Chinaの儒教によるものです。
もともとの意味は、「心の真ん中に置くもの」を意味していて、それが皇帝や上司といった上役のためにわが身を捧げるから「忠義」となります。
この「忠」も、戦後は、なにやら祖国のために身を捧げるという実にChina的意味でのみ語られるようになりましたが、実は、日本語における意味は、かなり違います。
この「忠」という文字が、記録に最初に現れるのは、日本書紀の最後の30巻にある持統天皇記(じとうてんのうぎ)です。
そこでは、持統天皇が無位無官の民間人である大伴部博麻(おおともべのはかま)に対して、「汝(うまし)」と対等に呼びかけ、そして「朕、嘉厥尊朝愛國、賣己顯忠」と話しかけられています。
「朕(われ)、厥(そ)の朝(みかど)を尊(とうと)び、国を愛(おも)い、己(おのれ)を売りて忠(まめなるこころ)を顕(あらわ)せることを嘉(よみ)とす」と読みます。
ここで日本語の「まめなるこころ」に、「忠」という漢字を充てているのです。
日本は、Chinaの思想や漢字を日本の文化として取り入れましたが、かなり選択的に取り入れているのは、みなさまご存知の通りです。
なぜ選択できたのかといえば、もともとの日本文化があったからです。
もともとの日本文化があったから、取り入れるべきものと、捨てるべきものの区別ができたのです。
ここが征服されて民族が入れ替わった国と、もとからの民族文化のあった国の違いです。
そしてこの日本書紀のくだりにあきらかなように、日本では「まめなるこころ」に、「忠」という字を、あとから充てたのです。
漢字で日本文化を理解しようとすると、どうしても齟齬がでます。
日本における「忠」の意味は、上に対して単に忠を尽くすというものではなくて、そもそもが「まめに尽くす」ことをいうわけです。
そして、その「まめに尽くす相手」は、Chinaのように特定の個人に対するものではありません。
上の文にあるように、「朝(みかど)を尊(とうと)び、国を愛(おも)い」なのです。
尊んだみかども、愛した国も、特定個人ではなくて、抽象的な概念です。
そしてその概念としての国の中心におわすのは天皇ですが、その天皇にとってのもっとも大切なたからものが、「おおみたから」、つまり民(たみ)なのです。
そして民(たみ)が大切にされてきたからこそ、その民(たみ)が互いに扶け合い、いたわり合い、支え合って生きるという国柄が生まれたのが日本です。
日本は、そういう国柄が、すくなくとも持統天皇がおいでになった7世紀には、完全に確立していたし、それから1300年以上経った現代まで、その日本的精神は、ずっと連続し、持続しているのです。
つまり日本における民主主義は、西欧では、まだ二百年そこそこの歴史しかないのに、日本では1300年以上にわたる古くて長い歴史があるのです。
だからこそ、みんなが困難にいたったとき、それぞれがそれぞれなりに、自分でできる精一杯の「まめなるこころ」を周囲の人々に尽くそうとする。
それが日本人です。
最近、やたらと「世界遺産」という言葉を聞きますが、もし世界遺産にするというのなら、憲法9条などよりも、こうした日本的精神と国のカタチそのものこそ、世界遺産としてふさわしいと私は思います。
※この記事は2009年9月の記事をリニューアルしたものです。

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