ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識
2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。
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モンゴル騎兵

驚いたことに、最近では元寇について、「朝鮮半島で武臣政権による三別抄の乱がフビライ・ハーンの日本遠征を遅らせた」などというデタラメが、結構流布しているのだそうです。
以下の文は、たいへんおもしろいので、是非、ご一読賜われればと思います。
さて元寇は、ご存知の通り1274年の文永の役と、1281年の弘安の役の二度にわたっての蒙古襲来事件です。
これについて鎌倉武士たちが勇敢に戦い、蒙古と高麗の連合軍を打ち払ったわけですけれど、実は、歴史用語としては「蒙古襲来」が本来の言葉で、「元寇」というのは明治以降になって言われだした言葉です。
どういうことかというと、明治にはいって我が国が国を開いてから(そういえば6月3日は嘉永6年にペリーの黒船4隻が浦賀にやってきた日です)、朝鮮半島やChinaなどが、「自分たちは倭冦によって被害を受けたのだ」などと言い出したことから、「その前に君たちが日本を襲ったではないか。それこそ元寇だ」と言い返したところから、登場した言葉です。
明治の人たちは、ちゃんと言い返す術を持っていたのですね。
元寇については↓コチラ。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1570.html
その元寇は、元を建国したフビライの指示によって日本が侵攻された事件なのですが、この当時の朝鮮半島には、高麗国がありました。
あたりまえのことですが、当時の世界帝国であるモンゴル(なんとアジアから東ヨーロッパまでを版図におさめていた)は、日本にやってくる前に、その高麗へ侵攻しているわけです。
このときに、高麗には勇敢な「武臣政権」があり、その正規軍である「三別抄(さんべつしょう)」がモンゴルと勇敢に戦った結果、日本への蒙古襲来が遅れ、その間に日本はいろいろな準備をすることができて、結果として日本は救われたのだ、というのが、最近の一部の歴史学者(たぶん在日系)の言い分なのだそうです。
聞いて呆れるとはこのことです。


たしかに、大昔には、朝鮮半島にあった国が、強国だった時期がありました。
それがいまの北朝鮮あたりにあった「高句麗」(前37−668年)で、この国は、Chinaを統一した軍事帝国である隋を滅亡に導くほどの強国でした。
その頃の朝鮮半島の南側は倭国で、その倭国と高句麗の間あたりには、百済と新羅がありました。
百済は倭国の冊封を受けている倭国の属国ですから、新羅は北には高句麗という軍事大国、南には倭国という技術、農業、国民性に優れた国、西には倭国の属国として民度をあげつつある百済に囲まれていたわけです。
そこで新羅は、なんと唐と手を結び、百済や高句麗を滅ぼし、また倭国を破って、朝鮮半島を統一します。
ところが新羅による半島統一というのは、同時に朝鮮半島が独立国ではなく、唐の属国となるということでもありました。
要するに、国民を裏切って唐と結んだ支配者が、朝鮮半島に君臨したわけです。
これを追い落として新たな政権を担ったのが、北の遊牧民たちの入植によって生まれた高麗(936−1392年)です。
ところがこの高麗は、いわゆる朝鮮半島人とは民族の異なる異民族政権です。
国王があまりに無責任だということで、武臣がその国王を殺して体を3つに断ち切って、別な人を国王の地位に就け、自分たちが政権をとるようになったのが、「武臣政権」です。
ところがこの武臣政権、武臣というのもおこがましいほど、無責任でいい加減な連中です。
モンゴルにチンギス・ハーンが登場し、その勢力が強大になると見るや否や、そくさくとモンゴルの属国(朝貢国)となっている(1218年)のですが、その6年後に、モンゴルの朝鮮への使者を高麗領内で暗殺してしまいます。
それで怒ったモンゴルは、高麗との国交を断絶してしまう(1224年)。
ここらへんのモンゴル外交のメリハリの付け方は、見習うべき点が多々あろうかと思います。
モンゴルは世界帝国を築き上げましたが、不正不義不実は絶対に許さない。
そういう凛としたものを持っていたからこそ、彼らは世界を制することができたわけです。
そのモンゴルは、1231年には、高麗に降伏を勧告する使者を出しています。
これはモンゴルのいつもの手段で、まずあらかじめ、降伏せよと言ってくる。
それで降伏しないなら、いよいよモンゴルが攻めてくるわけです。
日本に蒙古襲来がある43年前の出来事です。
この「いよいよモンゴルが攻めてくるぞ」となったとき、高麗の武臣たちがどうしたかというと、なんと、「モンゴルがやってきたら、高麗国民は海か山に逃げなさい」というお布令を朝鮮全土に出して、国王以下の重臣たち全員を連れて、自分たちがまっさきに江華島に逃げ出してしまうわけです。
江華島というのは、ソウル近くにある島で、朝鮮本土との間には急な潮の流れがあります。
モンゴルは、当時の世界最強軍ですが、彼らは海を渡れない。
そこで、高麗の武臣政権は、国王を連れて江華島に逃げたわけです。
しかし、国民に対する責任という面ではどうでしょうか。
なるほどカタチばかりのお布令は出していますが、その内容も「逃げなさい」というだけで、具体的なものなど何一つありません。それで国民に対する責任を果たしたことになるのでしょうか。
ウシハク国は、政治権力者だけがいい思いができれば良いので、民衆はただの私物であり収奪の対象でしかありません。ですからどうでもいいのです。
日本の武士は、シラス国の武士です。ですから彼らは民衆を守るために命がけで働きました。
けれど朝鮮半島では、武臣といったところで、単に「能書きばかりを垂れている文臣」に対して、「能書きを垂れるのヘタクソな武臣」というだけのことであって、そこに「民衆のために働く」という意識はまったくありません。ただ権力を欲しいままにしただけです。
日本の武士は領地を守るために「一所懸命(ひとつの領地を守るために命がけで懸命になる)」といいますが、その領地には、そこで農業を営んだりして働く領民たちがいるのです。
ですから領主である武士が「一所懸命」になるのは、その土地という場所に懸命になるというだけでなく、その土地に住む民衆(領民)たちのために、懸命になるということを意味します。
ところが朝鮮半島における「武臣政権」というのは、言葉だけ見ると、あたかも武人たちによる勇気あふれる堂々たる政権のようにみえますけれど、中身は全然違います。
能書きばかりで何もしない儒教的文人に代わって、武器にものを言わせて王朝内の権力を仕切っただけであって、そこにあるのは、ただ文臣と武臣と、「どちらが上か」という意識だけです。
そこに「民衆のため」とか、「民衆を守る」といった意識は皆無です。
このことは、昨今の韓流時代劇を見ても明らかで、朝鮮半島における「武士(ムサ)」たちが、民衆のために戦い、働く姿というのは、ついぞ出てきません。そもそもそういう意識もなければ歴史もないからです。
ですからいよいよモンゴルが高麗に攻めてくるとなったとき、その武臣たちは国王を連れて(連れて行かないと自分たちの権威の正当性を保てない)海を渡った江華島に逃げてしまったわけです。そこなら潮の流れの速い海にさえぎられてモンゴルに攻められる心配がないからです。
で、どうなったかというと、そのような卑怯な振る舞いに怒ったモンゴルは、高麗国内に6回にわたって侵攻し、国内をくまなく蹂躙しました。(下図)

モンゴルの高麗侵攻

そしてこのときに、登場するのが「三別抄(さんべつしょう)」なのです。
「三別抄は臨時編成の精鋭部隊であり、モンゴルに最後まで抵抗した」、そのため「元の日本侵攻が遅れた」というわけです。とんでもない説です。
そもそもこの「三別抄」なるものが何なのかということですが、これは、左夜別抄、右夜別抄、神義別抄と武装集団が3つあったから「三別」です。
では「抄」とは何かとというと、これは「書き写す」という意味の漢字でもありますけれど、もともとの意味は「盗む、没収する、ひったくる」という意味です。
つまり集団としての「抄」というのは、強盗団、野盗団のことをいうのです。
最近のお馬鹿な学者さんの説によると、この「三別抄」は、武臣政権である催氏の公設常備軍だったというのですが、それがウソであるこは、この「三別抄」という名前にすでに明らかになっています。
そして、なぜこうした強盗団、野盗団が跋扈したかは、歴史の流れをみれば明確です。
モンゴルが攻めてくるぞ!となったとき、高麗国王も、その政権中枢である武臣たちが、自分たちの国や国民を捨ててさっさと江華島に逃げてしまったのです。
朝鮮半島内から、統治機能が消えたわけです。
そこで国内に強盗団、野盗団が跋扈した。なかでも左夜、右夜、神義と呼ばれる強盗団が勢力が大きく、この三つを総称して「三別抄」と呼んだ、ということです。
この結果、実におかしなことが起こっています。
実は、意外なことに、モンゴル族というのはあまり人を殺しません。
もちろん戦いとなれば話は別ですが、彼ら遊牧民は、土地の所有がない代わりに、家畜や人などの生き物がそのまま財産なのです。ですから人を殺すということは、財産が減ることを意味します。なので無抵抗の民衆は、実はあまり殺さない。
一方、朝鮮半島内には、まさに「抄」と呼ばれる強盗団が跋扈しているわけです。
その後の歴史を見てもわかる通り、朝鮮半島の暴徒というのは、小学校まで襲って女児たちを強姦し殺してしまうような鬼畜です。
そして、その「抄」を取り締まるべき国は、江華島に逃げてしまっていて、何もしていない。
結果、何が起こったかというと、モンゴル軍が「抄」と戦い、結果として民衆を保護することになってしまったのです。
朝鮮半島内にいても、「抄」に苦しめられ、奪われ、蹂躙され、殺されるだけです。
ですからモンゴル軍が引き揚げるとき、なんと朝鮮半島の民衆は、おどろくべきことに、朝鮮半島を捨ててモンゴルに付いて行ってしまったのです。
その数、なんと60万人です。
当時の高麗の人口は600万人くらいだったと言われていますから、60万人というのはどれだけ途方もない数かおわかりいただけようかと思います。
この高麗人の移動について、かつて日本軍人をソ連がシベリアに連行したようなものを連想してしまう方が多いようなのですが、もちろん中にはそうした強制性のある連行もあったかもしれないけれど、人数からしても、むしろ高麗人たちが、国を捨てたのです。
モンゴル軍は、そうしてついてきた朝鮮人(高麗人。その多くは南朝鮮からの人たち)に、満州南部の広大な土地を与え、そこで農業を営ませます。
彼らはこうして、モンゴル人となったわけです。
自分たちの国の国王や政権が、民のことをまったく考えずに平時には収奪するだけ、戦時には逃げてしまい、悪党の強盗団によって、田畑を蹂躙されるだけ。そんなところにいても、食べて行けないし、生きてもいけない。
だから、南朝鮮の民衆は、むしろモンゴルに付いて、新天地を求めて移動したのです。
60万の民衆の移動というのは、強制というだけでなく、民衆の側にも意図がなければ、不可能なことです。
要するに、「三別抄と呼ばれる臨時編成の精鋭部隊がモンゴルに最後まで抵抗した」などという解説は、まったくのデタラメで、国王以下高麗の政権がそくさくと逃げてしまったために、「三別抄」と呼ばれる強盗団が朝鮮半島内に跋扈し、高麗に攻め込んだはずのモンゴル軍が、むしろ朝鮮半島の民衆を逆に保護する側となって「三別抄」と戦い、結果、朝鮮人たち自身が、朝鮮に愛想をつかしてモンゴルについて、満州方面に移住してしまったというのが、歴史の真実です。
さて、江華島に逃げていた高麗王や武臣たちです。
彼らは1259年になってついに元に降伏して、その属国となりました。
そしてこのとき、高麗王や武臣たちが元に対して言ったのが、「高麗は見ての通り何もない国です。ところが海の向こうには、日本というたいへん豊かな国がありますので、どうぞそちらを攻めて下さい」です。
まったくとんでもない連中です。
一方、最近のあやしげな学者たちがいう「三別抄という元に抵抗した高麗の正規軍」が、その後どうなったかというと、1273年(文永の役の前年です)に、「元と高麗の連合軍」1万2000によって、全員殺害ないし逮捕されています。要するに、治安を乱すとんでもない強盗団にすぎなかったからです。
そもそも「三別抄」が高麗の正規軍というのなら、その「三別抄」を討伐した高麗軍の正規軍は、いったいどういう人たちなのでしょうか。
そしていよいよ1274年、日本への第一回蒙古襲来(文永の役)が行われました。
この連中は、壱岐対馬の住民たちを全員皆殺しにしました。
このとき攻めて来た連中は、「モンゴルと高麗の連合軍」とされていますが、なるほどそれは事実なのですが、半分正解、半分不正解です。
というのは、このときのモンゴル軍というのは、実は、もともと朝鮮半島南部にいて、満州方面に連れて行かれた朝鮮族を主力とする部隊です。
つまり、服装や装備はモンゴル風ですが、中身は朝鮮族だったわけです。
彼らは、「自分たちの方が、先にモンゴルの一部となり、それだけモンゴルに近いのだから、あとからモンゴルの家来になった高麗人よりも、自分たちの方が偉い」と、まるで高麗兵を奴隷のように扱いました。
大きなバックがついたと思えば、とたんに居丈高になる。
いつの時代も変わらぬ、朝鮮族の振る舞いです。
ちなみに、大陸や朝鮮半島の歴史というのは、日本とはまったく異なります。
血筋や血統に関係なく、何処の馬の骨かわからなくても、漢字を使えば漢人です。
同様にモンゴル風の服を着て、モンゴル風の食生活(肉食)になれば、モンゴル人です。
ですから最近、日本に来て日本語を話せば、それは日本人だという馬鹿な連中がいますが、そういう連中というのは、血筋という概念のない大陸や朝鮮族の人たちだということになります。
日本は縄文、弥生の昔から、歴史が連続している国です。
ということは、血筋も連続しています。
ですから戸籍や血筋を重んじます。
ところが大陸や朝鮮半島では、とにかく強い者に従っていれば生き延びれます。
ですから血筋や血統などに一切関わりなく、そのときの権力者に従って、ご都合主義的に何々人になることが、生きる知恵です。
それが彼らの歴史であり、伝統であり、文化なのです。
ちなみに高麗が元の属国となったとき、高麗人、つまり朝鮮族は、モンゴル風の肉食文化を受け入れ、いまの朝鮮料理の焼き肉料理の原型が生まれ、使う言葉もモンゴル風、名前もモンゴル風に改名しています。
まさに創氏改名を、自分たちから率先して行っています。
文字もモンゴル文字を使うようになりました。
ところがその元が滅びて、Chinaに明朝ができると、今度は名前をChina風に変え、漢字を使うようになりました。
そして日本が強くなると、日本の庇護下にはいることを積極的に望むようになり、日本語を使い、日本人の名前を名乗るようになりました。
その日本が、半島から引き揚げると、とたんに日本の悪口をいい、日本が教えたハングル文字と朝鮮語を使うようになりました。
彼らには、歴史伝統文化に、連続性もなければ持続性もないのです。
あるのは、いまだけ。いま、他人より少しでも上位に立つことさえ出来れば、そのためには「何でもあり」というのが、彼らにとっての古来変わらぬ生きる知恵であるということです。
ですから、日本人が彼らとつき合うということは、歴史ある、連続性、持続性のある日本文化そのものが穢されるもとになるのです。

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