
百人一首解説も、今回が15回目になりました。
百首全部で34回のシリーズなので、まだまだ先が長いです。
けれど和歌というのは、あらゆる日本文化の原点なんですね。
なぜ原点とえいえるかといえば、和歌は「上の句」と「下の句」があるわけですけれど、本当に言いたいことは、そこには書かれない。
いってみれば、正三角形の底辺にある二つの頂点が、「上の句」と「下の句」で、この2点で、「頂点」にある本当に言いたい事が示されているわけです。
そういう和歌の仕組みと、それぞれの歌に込められた深い思いの数々を、小倉百人一首は順に古典の名歌をひもときながら、誰にでも理解できるようにと、ものすごく工夫されて編纂されているわけです。
すごいと思います。
前回の40〜42番歌では、40番の平兼盛公と、41番の壬生忠見(みんぶのただみ)の歌に、同じ歌会において競合しながら、家柄の良い平兼盛のストレートで率直な歌と、あまりに周囲の期待が大きかったがために工夫を凝らしすぎて敗北してしまった壬生忠見の歌というドラマがありました。
そして、42番の清原元輔(きよはらのもとすけ)は、失恋した友のために同苦する男同士の友情を知る事ができました。
さて、今回は、どのような展開となるでしょうか。
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43番歌 権中納言敦忠(ごんのちゅうなごんあつただ)
逢ひ見てののちの心にくらぶれば
昔はものを思はざりけり
あひみての
のちのこころに
くらふれは
むかしはものを
おもはさりけり
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まず言葉の意味からいきますと、
「逢ひ見ての」の「逢ひ見て」は、ただ会ったというのではなくて、男と女として逢い、互いの姿を「見る」、すなわち男と女の仲になったことを意味します。
「のちの心にくらぶれば」は、その「男女の仲になったあとの心情とくらべたら」です。
下の句は、
「昔はものを思はざりけり」、つまり男女の仲となる前のせつない慕情や恋心は、男女の仲となった後とくらべたら、何も思っていないのと同じですね、といった意味になります。
ですので、通釈しますと、
「貴女と深い仲になってからの熱い想いは、こうした仲になる前のあなたへの恋心が、まるで何も思っていなかったのではと思えるほど、深くて愛おしいものなのです」といった意味になります。
愛し合ってなお、つのる恋心。
なんだかわかる気がするという方も多いのではないでしょうか。
ただ、歌の意味はそうなのですが、これまで何度も申し上げてきましたように、歌の詠み人の名前が官名であった場合、それは公人としての意味合いが歌に詠み込まれているということです。
ところがこの歌は、どうみても私的な恋の歌でしかありません。
にもかかわらず、詠み手として「権中納言敦忠」と書いているのは何故でしょうか。
実はそこに、もう絶対感動的な男のドラマがあるのです。
権中納言敦忠の本名は、藤原敦忠(ふじわらのあつただ)といいます。
彼は37歳でこの世を去りました。
その亡くなる前の年に任命された役名が、「権中納言」なのです。
権中納言が、どのような役職かというと、後世、同じ役名をもらった有名人に、権中納言、徳川光圀がいます。水戸光圀の名前でもよく知られています。
権中納言は、唐名が黄門侍郎で、これを略して「黄門」です。
ですから徳川光圀は、水戸黄門の名で親しまれています。
黄門様は、徳川家康の孫で、徳川御三家の水戸藩の二台目藩主で、天下の副将軍です。
権中納言がどれだけ高い位(くらい)か、わかろうというものです。
ところが藤原敦忠は、はじめから偉い人だったわけではありません。
もともとは「従五位下」です。
「従五位下」も殿上人にはちがいないのですが、貴族としてはもっとも身分の低い、いってみれば貴族の中の大部屋暮らし、みたいなものです。
その身分の低い藤原敦忠は、たいへんな美貌であるとともに、管楽にも優れた才能を発揮する人でした。
その腕前がどれほどのものだったかというエピソードがあります。
藤原敦忠が亡くなったあとのことなのですが、源博雅(みなもとのひろまさ)が音楽の御遊会でもてはやされるのを見た老人たちが、
「敦忠の生前中は、源博雅あたりが音楽の道で重んぜられるとは思いもしなかった」と「嘆いた」というのです。これが『大鏡』に書いてあります。
源博雅といえば、最近では映画「陰陽師」で、俳優の伊藤英明さんが演じていました。
映画の中で安倍晴明の無二の親友で、笛の名手として描かれています。

要するに、源博雅はそれだけ有名な管楽の名手であったわけですけれど、それがまるで児戯に思えてしまうほど、藤原敦忠の管楽は、素晴らしかったというわけです。
身分は低いけれど、若くて、ハンサムで、歌人で、しかもうっとりするほどの管楽の達人です。
管楽を多くの人前で披露する機会も多かったことでしょう。
ですから藤原敦忠は内裏の女性たちにモテモテです。
その藤原敦忠が25歳のとき、なんと第60代醍醐天皇の皇女である雅子内親王(がしないしんのう)と、良い仲になってしまうのです。
このとき雅子内親王は21歳です。
これまた若くて美しい盛りです。
二人は、まさに熱愛となります。
このとき互いに交わした愛の歌の数々が『敦忠集』におさめられています。
もう、ラブラブです。
けれど、身分が違いすぎる。
困った大人たちは、雅子内親王を伊勢神宮の斎宮(いわいのみや)に選んでしまうのです。
斎宮というのは、皇女の中から選ばれる伊勢神宮の祭神である天照大神の御杖代(みつえしろ=神の意を受ける依代)です。
つまり、神様の依代(よりしろ)、いってみれば神様の代理人のような存在になってしまうのです。
そうなると、雅子内親王がどんなに藤原敦忠を愛していたとしても、二人は別れなければならない。
そして雅子内親王は、京の都から、伊勢に送られてしまいます。
そもそも二人は身分の違いすぎる恋だったのです。
片や天皇の皇女です。
藤原敦忠は、貴族とは名ばかりの最低の下士でしかない。
あまりにも不釣り合いなことに加え、斎宮に選ばれたとあっては、もはや二人は二度と逢う事は許されない。
だからこそ、藤原敦忠は、その苦しい胸の内を、
「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」と詠んで、雅子内親王に、この歌を贈ったわけです。
つらい恋、つらい別れです。
心から愛する女性を失った悲しみに、藤原敦忠は、猛然と仕事に精を出しました。
もともと才能ある若者です。
彼は努力し成果をあげ、翌年には従四位下に昇格したかと思うや否や、その年のうちに蔵人頭に出世、翌年には左近衛権中将、さらに次の年には播磨守を兼任と、みるみるうちに頭角をあらわし、そして10年後には、彼は押しも押されぬ「権中納言」にまで昇り詰めていきました。
まさに彼は、皇女を妻にしても足るだけの男になっていくのです。
けれど、仕事で出世するのは、それだけ人の何倍もの仕事をこなすことになります。
全精力を使い果たした藤原敦忠は、その翌年、わずか37年の生涯を閉じるのです。
この歌に、あえて「権中納言敦忠」と詠み手の名に職名を付したのは、この歌が単に愛の讃歌というだけでなく、つらい別れを経験した男が、そこから立ち上がり、世の中におおいに貢献し、出世し、そして愛した女性と釣り合うだけの男として成長していった、男の孤独とドラマがあったからに他なりません。
この解説を述べたとき、友人が次のようなことを話してくれました。
「もしかしたら、敦忠はたとえうわさでも自分の近況を伝えるために頑張ったのかもしれない。
雅子内親王が伊勢神宮の斎王なればもう噂しか近況を届ける手段はなくなります。
半端な噂では斎王まで届きませんから、かなり頑張らなアカンかったでしょうね。」
まさに、そこにドラマがあります。
歌は、純粋に恋の歌です。
けれど、百人一首の選者である藤原定家がこの歌に込めたメッセージは、
「男なら、そうやって成長せよ」
そんな思いからだったのではないでしょうか。
最近出ている多くの百人一首の解説本などでは、この歌を紹介するに際して、ただ愛の讃歌としてしか紹介していないものばかりですけれど、この歌にある本当の素晴らしさは、身分の違いからその熱愛に敗れた男が、そこから這い上がり、男としての成功を勝ち得て行く、男としての人生ドラマそのものにあります。
そしてそのことを書かなければ、この歌を解説したことにならないのです。
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44番歌 中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ)
逢ふことの絶えてしなくはなかなかに
人をも身をも恨みざらまし
あふことの
たえてしなくは
なかなかに
ひとをもみをも
うらみさらまし
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さて、次の44番歌も、職名で名前が付してあります。
はじめに言葉の意味からいきますと、
「逢ふことの」の「逢う」は、男女関係を結ぶことです。それが「絶えてしなくば」で、「し」は強調を意味しますから、「男女の関係が絶対にないならば」といった意味になります。
「なかなかに」は、「かえって」といった意味。
「人をも身をも恨みざらまし」は、相手の女性も自分も恨むことなどないのに、といった意味になります。
現代語に通釈しますと、
「男と女が、深い関係を結ぶことがこの世になかったのならば、相手の女性も、自分自身も、お互いに恨みがましい気持ちになる(つらい気持ちになる)こともないのに」といった意味になります。
この歌を詠んだ中納言朝忠は、
「忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな」と詠んだ38番歌の右近とも深い仲になったことのある男性で、名は藤原朝忠(ふじわらのあさただ)といいます。
44番のこの歌は、藤原朝忠51歳のときの作品ですので、当時は人生50年の時代ですから、43番の藤原敦忠の歌と異なり、もはや老境に至ってからの歌ということになります。
この歌が詠まれたのは、平兼盛と壬生忠見が「しのぶ恋」で対決した天暦御時歌合会の席で、お題は同じく「恋」です。
この天暦御時歌合会では、紅白歌合戦さながらに、歌人たちが左右に別れて一種ずつ歌を出し合い、その優劣を競ったのですが、20番勝負のうち、藤原朝忠は、霞、鶯、桜、藤、暮春と恋の2番、合わせて7番勝負に左組として出場し、そのうち6番を勝利しています。
それだけすごい歌人だったわけですが、同じ恋でも、ここで詠んでいるのは、いっけんすると「恋などなければ、つらい気持ちにならずに済むのに」と、ちょっと逆説的です。
シチューションは違いますが、この歌によく似ているのが在原業平の、
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」で、ここでは桜などない方がいいと言っているのではなくて、桜の美しさに胸を打たれた感動が詠み込まれているわけです。
同様に藤原朝忠のこの歌も、恋などなければよいのに、といっているわけではなくて、それほどまでに恋はせつないものだ、と歌っているわけです。
ただし、これまた不思議なのは、そういうだけの歌なら、詠み手の名前は「藤原朝忠」と記せばよいはずなのに、ここでも「中納言朝忠」と付していることです。
実は、藤原朝忠は、この歌合会の3年後に、中風のために職を辞しているのです。
恋の遍歴を重ね、笛にも笙(しょう)にも秀でていて、しかも中納言という要職にあり、歌合会でも、20番中6番に出場し、しかもそのうちの5番を制するほどの才人であっても、病のために職を辞し、さらにその4年後にはお亡くなりになっています。
男女がつのる恋心に相手をうらめしく思う、
そのことを「人をも身をも恨みざらまし」と詠んだ藤原朝忠は、恨みを詠んでいるのではなくて、この世に男女があること、その男女が関係すること自体を、素晴らしいと詠みました。
そしてそう詠み、一世を風靡した才人も、やがては老い、この世から消えて行く。
この歌にあるのは、ただ男女の愛の讃歌ではなくて、そうした男女が、やがては老い、次の世代にまた別な愛が育ち紡(つむ)がれて行く。そんなさまなのではないかと思います。
そしてそのことは、次の45番歌の謙徳公(けんとくこう)で、より一層明確になります。
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45番歌 謙徳公(けんとくこう)
あはれともいふべき人は思ほえで
身のいたずらになりぬべきかな
あはれとも
いふへきひとは
おもほえて
みのいたつらに
なりぬへきかな
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謙徳公というのは、死後に贈られた諡号(おくりな)で、生前のお名前は藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)といいます。摂政、太政大臣にまで栄達した人で、死後、正一位を贈られています。
娘は冷泉天皇の女御となり、花山天皇の母となったことから、まさに栄達を極めた人であるわけです。
父親の藤原師輔(もろすけ)も太政大臣(いまでいったら内閣総理大臣)にまで出世した人ですが、たいへん地味な人で、親に考を尽くし、兄弟仲よく、君に忠貞の誠を捧げ、信心あつく、悪友と交わらず、殺生や博打にのめりこまず、口をつつしみ、怒りをおぼえても色にださず、勉学に励み、立派な字が書けるようにせよなどという戒め、さらに「衣冠よりはじめて車馬に及び有るに随いて之を用ひよ。美麗を求むるなかれ」と、地味に堅実に生きるようにと息子の藤原伊尹に戒めを遺しています。
ところが息子の藤原伊尹は派手好きで豪放磊落。
色男で才能もあり、まさにこの世の栄華をきわめ、若くして天皇の母方の父にまでなり、太政大臣という臣下としては最高位の役職にまで栄達するわけです。
その、歴史にまさる大栄達を遂げた、藤原伊尹が、晩年に詠んだのが、この「あはれとも」の歌なのです。
「あはれともいふべき人は思ほえで」というのは、「自分のことをあわれとか、かわいそうとか言ってくれるような人は思い当たらないよ」といった意味で、下の句の「身のいたずらになりぬべきかな」は、「わが身は無駄に死んで行くのだろうなあ」といった意味になります。
ですので、これを現代語に訳すと、
「私のことをあわれんだり、かわいそうだと言ってくれる人は、おそらくいないだろうなあ。そうして私はむなしく死んで行くんだね」です。
藤原伊尹は病のため48歳でこの世を去りました。
これが、世の栄達を極めた人の歌なのです。
この歌にある「人」は、女性のことだから、この歌は、「私のことを愛してくれる女性さえ思い浮かばないまま、私は死んで行くんだなあ」という意味だと解釈している解説を多く見かけます。
けれど、その解釈は、あまりにも歌を恋歌に強引に結びつけようとしているようにしか、わたしには思えません。
前の44番歌の藤原朝忠の歌が、いろいろあっても、時が経ち、時代は移り変わり、愛し合った男女も老いていき、また次の世代に変わって行く、そんな、ある種の無常観を歌った歌なら、
この45番歌も、世の栄耀栄華をきわめた人でも、死後に「謙徳公」などという、あまりにも立派な諡名を与えられるような人であっても、最後は孤独に死んで行くし、その孤独であることを、自分自身わかって死んでいくものなのだなあという歌として読んだ方が、正解であるように思えます。
果たして世の栄耀栄華を極めることが生き方として大事なのか。
たとえ貧しくとも、また身分は低くとも、多くの人に愛され、先輩や仲間や後輩たちに恵まれながら、精一杯の人生を送ることが大事なのか。
「あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたずらになりぬべきかな」を、摂政、大政大臣の歌としてみたとき、果たして、どちらが人として望ましい生き方といえるのか。
そんなことを考えさせる歌なのではないかと、思うのです。
さて、次回は、46〜48番歌です。
「由良の門を渡る舟人かぢを絶え ゆくへも知らぬ恋のみちかな 」
さて、どんな恋の道なのでしょうか。
乞うご期待です。

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