■ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識
2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。
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この写真はあるところの壁に書かれた文字です。そこには「大正九年五月二十四日午後十二時 忘ルナ」と書かれています。何があったのでしょうか。実は、日本人として絶対に忘れてならないひとつの歴史がここにあります。
これが書かれたのは、いまではロシアの「ニコライエフスク」となっている街の、とある建物の中です。昔はそこは尼港(にこう)と呼ばれていました。場所は中国黒龍江(アムール川)の河口から二十キロの地点です。
大正九(1920)年、尼港には日本人約七百名を含む一万七千人あまりが住んでいました。内訳は次の通りです。
日本居留民 約 七〇〇名
白系ロシア人 約一万五、〇〇〇名
中国人 約 一、〇〇〇名
朝鮮人 約 五〇〇名
日本人七百名というのは、治安維持のためのいまでいうPKOとして派遣されていた日本陸軍の二個歩兵中隊約二百六十名と、その他の軍属(軍隊の世話をする人たち)およびそれら日本人の婦女子四百四十名です。
さて、すこし背景を説明しておきます。大正六(1917)年にロシア革命が起こりました。最近の教科書などの記述では、これによってあたかもただちにレーニンのソ連政府が誕生したかのように書かれていますが、事実はだいぶ違います。
なるほどレーニンは、ロシア皇帝を引きずり降ろし、政権を奪いましたが、ロシア革命が行われた当時、世界中どこの国の政府も、レーニンのこの新ソ連政府を国家として承認などしていません。むしろテロ集団という認識でした。ですから内乱による帝政ロシアの崩壊は、ロシアがいわゆる「無政府状態」になったという理解です。
ですから英米日の三国は、ロシア国内の治安維持と自国の大使をはじめとした自国民の保護のために、翌年の大正七(1918)年八月には、国際共同でのロシア出兵を行っています。
なかでも多数の囚人が送られていたシベリアは、ひどい状態でした。なぜなら多数の凶悪犯罪者が牢から脱獄して、共産パルチザンとなっていたからです。脱獄囚たちは、そのままでは食料も武器もありません。ですから一般の民家を襲い、食べ物や財物を奪いました。争いのあるところ、共産主義者ありです。ソ連の共産党は、社会破壊のために、むしろこうした混乱を利用しました。なんとシベリアの乱暴者たちに、共産党は積極的に武器、弾薬、食料、カネを与えたのです。まさに火に油を注いだのです。
キチガイに刃物とはよく言ったものです。もともと粗暴で凶悪な犯罪者だった彼らは、集団で徒党を組み、武器を手にし、共産パルチザン(組織化されたゲリラ集団)となって、シベリア各地を荒し回りました。彼らはタテマエとしては、外国勢力追放を叫びました。けれど国内にいる外国人を襲うだけでなく、各地で同じロシア人たちをも、襲撃していたのです。
それでもまだシベリア方面には保守派のロシア極東総督のロザノフ中将やコルチャック提督などという強者(つわもの)がいました。彼らは、国家崩壊後も、こうした共産パルチザン化した凶悪犯たちや、革命派勢力などと戦ってくれていたのです。その動きに、日本も協力をしていました。実際、シベリアや満州において、外国人が多数襲撃されていたのです。
ところが翌大正八年に、シベリア・オムスクにあったロシアの穏健派のシベリア総督府が、武装共産パルチザンの攻撃を受けて倒れてしまう。ロシア総督府あればこその、シベリア出兵です。身の危険を感じた米英両国はシベリアから撤兵してしまいました。英米はロシアのヨーロッパに近い側の治安にあたる。日本は、シベリア等アジア側の治安にあたるという形になったのです。地理上シベリアは、北海道・樺太に直結しています。
しかし、英米にロシア総督府を加えることで均衡を保っていたシベリアにいる日本の治安維持部隊は、極度の戦力不足となってしまいます。やむなく日本は、第十二師団(約一万五千名)を、シベリアに派遣しました。けれどシベリアは広いのです。要所に兵が分散されることを考えたら、これはあまりにも少ない派兵でした。こうして二個中隊二百六十名が駐屯したのが、当時のニコライエフス(尼港)だった、というわけです。
尼港事件が起きたのは、大正九(1920)年一月二十九日のことです。前日までは、雪深い尼港は、共産パルチザンも鳴りをひそめ、比較的静かな状態だったのです。
そこへ突然現れたのが、ロシアのトリビーチンを首領とする約四千人の共産パルチザンです。彼らは、いきなり尼港市街を包囲しました。
守備していたのは、石川少佐率いる二個中隊(約二百六十名)と、無線電信隊の四十名、それと保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ばれていたロシア兵)、合計約三百五十名たらずです。つまり、守備部隊の十倍以上の組織化された暴徒が、街を取り囲んだのです。
共産パルチザンたちは、街を包囲すると、「自分たちには敵意はない、食料の補給に協力をしてほしいだけだ」と称して、市内に入りこみました。そして市内に入るやいなや、ロシア白衛軍の将兵を捕らえて、これを全員虐殺してしまったのです。あわせて一般市民の中から「有産智識階級」と思しき市民を虐殺し、家内の家財、財宝を奪いました。さらにユダヤ人を選び出し、婦女子にいたるまで、その全員を虐殺しています。そして共産パルチザンたちは、次々と白衛兵と白系市民を銃剣で突き刺すと、黒龍江の結氷を破ってつくった穴から、凍る流れに人々を放り込んだのです。
たった一晩のことでした。尼港では、ロシア人とユダヤ人約二千五百人が、あっという間に惨殺されてしまったのです。
翌日、その事実を知った尼港の穏健な石田副領事は、この暴虐行為に対して「厳重抗議」を行ないました。けれど共産パルチザンたちは、もとよりそんな「抗議」など受け入れません。あたりまえです。受け入れるくらいなら、最初から虐殺などしていない。そしてパルチザンたちは、逆に日本側に武装解除を要求してきたのです。
日本兵が武装解除したら、そのあと何をされるかは火を見るよりも明らかです。なにせその前日に、共産パルチザンたちは二千五百人もの人を殺戮しているのです。現地の日本軍部隊は、日本に急を知らせる電文を打ちました。
けれど日本からの救援隊は、小樽から発進するのだけれど、真冬の寒い時期です。海面が凍結していてすぐには動きようがない。満州にいる他の部隊も、いちばん近い部隊で、陸路で到着するのに四十日かかります。
尼港から日本人、ならびに日本軍駐屯隊が撤退しようにも、周囲は凍っているし、尼港の街自体が、共産パルチザンによって、蟻の這い出る隙もないほど包囲されているのです。彼らは撤退するにも撤退できなかったのです。つまり、尼港の駐留部隊は、極寒のシベリアで、完全に孤立していたのです。
座して死を待つくらいなら、勇敢に戦って死のう。
白人たちの惨殺を目の当たりにしていた日本人部隊は、義勇隊を募り、百十名で武装パルチザンの本拠を急襲しました。
けれども敵は、武装した四千人の大部隊です。衆寡敵せず。駐留部隊指揮官石川少佐以下多数がまたたくまに戦死してしまう。
義勇隊に参加しなかった軍人と軍属と女子供達六百名は、義勇隊の奮戦の最中に、日本領事館に退避しました。けれど領事館に集まることができたのは、わずか二百五十名だけでした。逃げ遅れた人達は、武装した共産パルチザンの手にかかってしまったのです。
事後の調査記録によると、このとき共産パルチザンたちは、子供を見つけると二人で手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女と見れば老若問わず強姦し、おもしろ半分に、両足を二頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺していました。 こうしてまたたく間に、義勇隊百十名、逃遅れた日本人約百名が犠牲となりました。
日本領事館に逃げ込んだ人達も、けっして安穏としていれたわけではありません。領事館を襲おうとする共産パルチザンたちと、領事館に立てこもった日本軍との間で、戦闘はまる一昼夜続きました。
これは実際に傭兵となって世界の戦場を点々とした人から聞いた話なのですが、一般に、銃を撃ち合う戦闘というものは、ほんの数分で決着がつくことがほとんどなのだそうです。銃撃戦が十分も続いたら、「今日の戦闘はむちゃくちゃ激しかったねえ」などと、後々まで話題になる。そのくらい銃撃戦というのは戦闘員たちにものすごい集中力と緊張を強いるものなのだそうです。
それが、尼港の日本領事館では、まる一昼夜、銃撃戦が続いたというのです。立てこもる日本人兵士たちの緊張感、後方で震えていた日本人婦女子たちの恐怖は、想像するにあまりあります。
一昼夜が経ち、朝日が射す頃には、領事館内の生存者は、わずか二十八名になっていました。弾薬も底をついてしまった。残った一同は、まず子供を殺し、石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決してしまいます。
こうして一夜が明けたとき、尼港に残る日本人は、河本中尉率いる別働隊と領事館に避難しなかった民間人百二十一名だけになりました。抵抗を続ける日本軍強しとみた共産パルチザンは、策を弄します。
「山田旅団長の停戦命令」を偽造したのです。
河本中尉は、これは「怪しい」思いました。けれどもし、停戦命令に従わなかったことが、後日、国際法上の問題となったら、これは取り返しがつきません。それに軍というものは、あくまでも上官の命令によって動くものです。
こうして河本中尉は、命令を受け入れました。
このとき生き残っていた百二十一名の日本人は、全員、武装解除のうえ投獄されました。そして食事もろくに与えてもらえないまま、日本の救援軍に対する防御陣地構築のための土方仕事に駆り出されました。零下三十度の極寒の中で、凍てついた大地に土嚢を積み上げ、陣地の構築をしたのです。
そして、陣地構築が終わると、手のひらに太い針金を突き通して、後ろ手に縛られ、凍ったアドミラル河の氷の穴から、生きたまま共産軍によって次々と川に放り込まれて殺されました。
春になって、ようやく旭川第七師団の多門支隊が現地の救援にやってきました。そこで彼らは、地獄絵図を見ました。
焼け野原と化した尼港には死臭が漂い、
「いったん撤退するが再び来て日本人を征服し尽くす。覚悟せよ」と記した共産パルチザンの声明書が残されていました。日本の救援部隊来着近しの報を受けた共産パルチザンは、五月十四日に、中国人の妻妾となっていた十四名の女性以外の生き残った日本人全員を殺害していたのです。
中国人の妻妾となっていた女性たちの証言から、一月二十九日から五月十四日までの百六日間の尼港の模様が明らかになりました。
何が起こっていたのか。
日本人たちは、生きたまま両目を抉り取られ、五本の指をバラバラに切り落とされ、死ぬまで何度も刺されていました。
そして金歯があるものは、生きたままあごから顔面を切り裂かれて、金歯を抜き取られました。女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されました。
そして獄舎の壁には、血痕だけでなく、毛のついた皮膚などがこびりついていました。その獄舎の中で発見されたのが、壁に書かれた冒頭の写真の文字だったのです。
この尼港の事件は、「尼港事件」と呼ばれ、当時一部の報道はされたものの、あまりに残酷性が高いことから、報道規制が行われました。
注意していただきたいのは、この事件が起こった当時、日本とロシアは戦争状態ではなかったという点です。もちろんソビエト共産主義政権とも、日本は敵対関係ではありません。
そもそも帝政ロシアは、ロシア革命によって崩壊しており、レーニン指揮下のソ連も、この時点ではまだ国際的に国家としてさえ、承認されていなかったのです。つまり、この事件当時、ロシアという国家も、ソ連という国家も、国際的には存在しなかったのです。そうしたいわば無政府状態の中で、極寒のシベリアで共産パルチザンが起こした事件が、この尼港事件です。そして武装した共産パルチザンは共産主義者を標榜していたけれど、その実態は凶悪犯と夜盗の群れでした。
いま、日本の歴史教科書には、日本のシベリア出兵について、次のように書いてあります。
「日本がシベリアでの勢力拡大を狙い、連合国間の協定に違反する大兵を派遣し、撤退したのも最後になった。」(中学社会 歴史 教育出版)
これだけ読んだら、まるで日本が悪者です。でも右の文をお読みになった方にはわかるはずです。これは、死力を尽くして戦った同じ日本人の先人達に対する、後世の子や孫(つまり私たち)による冒涜行為以外のなにものでもないといえるのではないでしょうか。
この尼港事件は、一定の報道規制はあったものの、一大国辱事件として日本の全国新聞で当時大々的に報道されたし、国際的にも、大きなニュースとなったものです。つまり、事件は間違いなく「あった」ことです。にもかかわらず、いまどきの歴史教科書は、この事件に全く触れないし、なぜか日本の立場だけを悪し様にののしるような記述をする。
当時、シベリア派兵したのは日本だけではありません。英米も派兵しています。なぜ派兵したかといえば、各国が共産主義の拡大に脅威を感じていた、ということです。そしてどこの国の政府も、「共産主義革命」なんて歓迎していません。だからこそレーニンの革命政府は、列国のいずれからも承認されなかったのです。
そして日本は、米英と比べてロシアに対する地理上の近さが違います。シベリアの赤化は日本本土に対する直接的脅威です。そして現実にこうして犠牲者を日本は出しているのです。亡くなられた日本人に、心から哀悼の意を捧げ、二度と同胞がこうした恥辱や殺戮被害に遭わないよう、しっかりと守ることこそ、本来の日本国政府の役割です。
世界政府とか、民族や国境を越えて人類がひとつになって平和な世界を築くというのは、まさに理想でしょう。そうなったら、ほんとうにいいな、と思います。
けれど、世界のGDPは、日本を含むわずか五カ国で、世界全体の五〇%を持っているのです。それが現実です。つまり日本人が世界市民となる、ということは、日本人は、いまの豊かな生活を全て捨て去って、世界の貧しい国々と同程度の生活環境に戻りなさい、という主張に等しいのです。
そして国家が国境を失なったとき、その国の人々がどのような目に遭わされるのか。その現実は、戦前戦後を経由して、まさに枚挙にいとまがないのです。
私たちは日本人です。秩序を守り、約束を守り、人を殺したり、奪ったりすることはいけないことと信じている国民です。それは、正義の国民である、ということでもあろうかと思います。そしてその正義は、常に力の裏付けがなければ、酷い眼に遭わされてしまうというのが、世界の現実であるということです。
その現実を前に、二度と被害に遭わないよう、日本は常に強い国であり続けなければならないと思います。

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