ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識
2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。
ねず本第二巻の「立ち読み版」が公開されました。
(本の画像の下の「立ち読み」というところをクリックしてください。)

新刊ラジオでも紹介されています。ねずさん本人も出演しています。
5月11日夜第五回倭塾日心会合同公開講座が錦糸町で開催されます。
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舩坂弘さん(後列左)と三島由紀夫(前列左)
舩坂弘さんと三島由紀夫さん

舩坂弘(ふなさかひろし)さんという方がおいでになりました。戦後、渋谷で小さな書店を開き、そこから出発して渋谷に全フロアが書店という「書店ビル」を、日本で初めて開かれた方です。すでにお亡くなりになっていますが、渋谷がいまも若者たちが安心して集える街でいられるのも、実はその舩坂さんの貢献があったからだともいわれています。
その船坂さんは戦時中、パラオのアンガウル島に軍曹として、赴任しておいでになりました。この島は、ペリュリュー島の隣にある小さな島で、そこで舩坂さんは、わずか千二百名の仲間たちとともに、約二万二千名の米陸軍第八十一歩兵師団を迎え討っています。
米軍の第八十一歩兵師団というのは、「山猫部隊(ワイルドキャッツ)」と異名を持っているハワイで特別上陸訓練を受けた米軍選りすぐりの強固な軍団です。兵だけではありません。米軍はこの小さな島と、隣のペリュリュー島を攻略するために、マーク・A・ミッチャー中将率いる米軍第三十八機動部隊、通称「快速空母群」を派遣しています。それは航空母艦十一隻、戦艦二隻、巡洋艦十数隻、駆逐艦三十五隻という大部隊でした。
そのような大軍を前に、アンガウルの日本軍は、島を一ヶ月以上も持ちこたえて、最後、玉砕しました。大怪我のために偶然に生残った舩坂さんは、敵に一矢報いようと米軍の本部にたったひとりで突貫攻撃をしかけ、そこで銃弾を受けて意識を失ったところを、助けられています。


このときの模様を、舩坂さんは「英霊の絶叫」(光文社)という本に著わされているのですが、この本は三島由紀夫が序次を寄せていて、実際の戦闘体験者の書いた本として、史料的価値もたいへんに高い本となっています。
ちなみに一言申し上げますと、この本は文庫本なのですが、中古市場価格が八千円もします。たまたま手に入れた方からお借りして読んだのですが、内容はすごいの一字です。どうして値段がそんなに高くなっているかというと、どこぞの国の人が神田の古本街やネットの中古市場で、こうした史実を書いた一次史料として価値の高い本を組織的に買いあさり、焼却していっているからなのだそうです。日本から歴史を奪おうとする、実にとんでもない話です。
さて、舩坂さんは昭和十九(1944)年四月二七日に、この島に着任しています。上陸早々から、敵グラマン機動隊の空襲を受けたそうです。
友軍の機影は一度も見られない。
この時期、すでに日本は制空権を失っていたのです。
上陸早々から、島の守備隊は「水際撃滅作戦」のために、島の海岸線に広範囲に障害物を設置し、沿岸に鉄条網を張り、さらに鉄条網の内側に石垣を組み、そのまた内側に深い戦車壕をめぐらし、そのまた内側に各招待や分隊の陣地を二重、三重にめぐらせるという作業にかかります。
南方の炎暑のもとでの作業です。
本来なら、こうした土木作業は工兵隊の仕事です。
しかし当時の日本には、すでに彼らを派遣するだけの余裕はなかったのです。だから守備隊員が、慣れない土木作業に身を粉にして働きました。
守備隊全員は、昼夜の別なく重い石を運び、砂と汗にまみれて炎熱下の作業に堪えたのです。
そのときの様子は、強制重労働に従事する土方や人夫に等しかったといいます。あまりに苛酷な作業に、病人さえも続出した。毎日が拷問を受けているようにすら感じられたというのですから、相当厳しかったことと思います。
水は雨水の利用だけです。食料は備蓄していたけれど、万一のために節食をしていた。飯盒(はんごう)で炊いた半煮え飯に、みそ汁、おかずは一品。一日二食だけです。
「早く敵が上陸しねえもんかねえ。もう俺は一刻でも早く敵の弾に当たって死にたいよ」
そんな愚痴が、ぜいたくにさえ思える日々であったそうです。
舩坂弘さん自身も、壕掘りのために掌は血に染まり、指は筋肉疲労で固まって動かなくなり、熱病にうなされ、暑さと過労で体から汗が一滴も出なくなるという、そんな状況での作業だったといいます。それでも、
(日本には肉親がいる。家族の暮らしている本土に米軍を絶対に近付けちゃならない。この島を敵に渡してはならない)
そんな気持ちだけで、みんな懸命になって作業をこなしました。
そして、「このくれえ頑丈にしときゃ、敵さんも一人も上陸で決めえ」と、誰もがそう思えるほど、島の水際守備は頑丈に構築しました。
昭和一九年九月六日、洋上に並んだ敵船団は、一斉に島に向かって艦砲射撃を始めました。空からはB-24や艦載機を使って銃爆撃を浴びせかけてきます。
七日には、洋上に敵潜水艦が出没して、いよいよ事態の切迫を告げ、八日には艦載機による空爆がいよいよ激しくなりました。十二日以降は、艦砲射撃の量は一日に千数百発という数に達しました。
おかげで、せっかく苦心して造った水際陣地は、ひとたまりもなく破壊されてしまいます。
「食うや食わずで造った陣地も二日で水の泡かい」。舩坂さんたちの落胆はひとかたでなかったといいます。
でも、これで終わりではないのです。
十四日になると、米軍は舟艇約十隻に分乗して東海岸を偵察にやってきました。そして島の形が変わるまで爆撃と艦砲射撃を繰り返しました。快速空母が去り、代わりに現れたウイリアム・H・ブランディ少将率いる「アンガウル攻撃群」の戦艦三隻、巡洋艦四隻、駆逐艦四隻は、それまでに輪をかけた艦砲射撃をはじめました。
九月一七日午前五時三〇分、黎明をついて熾烈な艦砲射撃とともに米軍の上陸がはじまりました。
日本側は、連日の艦砲射撃と空爆のために、敵の状況を正確に把握するための監視哨も破壊されてしまっています。情報を迅速に伝えるための通信網も、島のいたるところでずたずたに切断されていました。
米軍の上陸を発見したのは、巴岬(ともえみさき)にいた沼尾守備隊です。すぐに大隊本部に「伝書鳩」で「敵上陸地点は西港なり」と急を報じました。
通信機器が破壊されてしまった情況下で、通信手段はもっともローテクな「伝書鳩」しかなかったのです。
古来、伝書鳩は、古くは旧約聖書のノアに小枝を届け、紀元前3千年のエジプトでは漁船が漁獲量を陸に伝えるために使われていたという記録があり、ジンギスカン率いるモンゴル帝国も遠距離通信手段に使用、カエサルの勝利の報告も、ナポレオンの敗戦の報告も、伝書鳩によって行われています。
第二次大戦のヨーロッパ戦線でも「GIジョー」という名の米軍の伝書鳩は、イギリス兵約千人の命を救って英国女王から勲章をもらっています。この伝書鳩に関するお話は面白いので、また別に項を改めて書きます。
米軍は、アンガウル島に、砲兵6個大隊、中戦車1個大隊を含む2万2千名の兵を一気に上陸させました。
敵の空爆に焼かれ、音を立てて迫る戦車群に追われ、空腹と睡魔に冒された守備隊の前に、いよいよ敵部隊が現れたのです。
「前方三百メートル、敵部隊発見!」
そのとき舩坂弘さんが見た敵兵の第一線は、ほとんどが黒人であり、白人がその中に点々と混じっていたそうです。敵の顔が意外と近くに見える。
「榴弾筒(りゅうだんつつ)発射用意!撃てー!」
かたまってゆっくりゆっくり迫りくる米軍の中央付近に狙いを定めて、撃って撃って撃ちまくる。
至近距離からの砲撃です。当たる、当たる。面白いように米兵は炸裂音とともにふっとび、不意の攻撃に驚いた敵は、たちまち後ろを見せて煙のように背後のジャングルの中に這いこんでしまいます。
あまりにもあっけなく敵が引き下がったので、どうしたのかと思っていると、急に沖合から轟音が舞いこんできました。無線連絡を受けた敵艦隊が、一斉にナパーム弾、砲弾を撃ち込んできたのです。
砲弾はところかまわず炸裂します。坂弘さんが伏せている前後左右に、岩石を砕き、黒い煙と白い土埃を吹き上げて破片が飛び交いました。撃ち返したくても、目を開くことさえも許されず、敵の巨弾はスコールのように重なって降り注ぎます。このとき砲弾を避けるために姿勢を変えたり、立ち上がろうとした者は、すべて血に染まって倒れたそうです。だから部下に、
「動くな、動いてはいかん!」と叫ぶけれども、自分の声が自分の耳にすら届かない。
砲弾が止んで周囲を見渡した舩坂弘さんは、アッと叫んだまま、驚愕のあまり気を失いそうになったそうです。そこは地上の様相ではなかったのです。数メートル間隔で深くうがたれた弾着の跡がぽっかりと大きな穴をつくり、稜線はすっかり変形して見る影もありません。無数の凸凹の上には、引き裂かれた樹木と、分隊員の腕や半身が血にまみれて転がっていました。もはや屍体とさえいえない。人体の四分の一、あるいは二分の一の肉片に近い遺骸が黒々と横たわっていたのです。先ほどまで、元気な冗談を飛ばしていた戦友たちが、青白い泥まみれの顔に、白い歯をむき出して宙をにらんで死んでいました。
もぞもぞと動いている生存者は数えるほどしかいない。
一生懸命部下たちの姿を探すけれども、認識票さえもどこかに吹っ飛んでいます。三メートルごとに三人折り重なって斃れた者、頭部を半分削がれた者、片腕を奪われた者、内臓が半分はみ出している者など、おもわず目をそむけたくなるような情景が、あちこちに展開されていました。流れる血は河をつくり、地を存分に吸ったくぼみはどす黒く変形している。その上を走る硝煙をはらんだ炎風が、むかつくような血のにおいをふりまいている。
そこへ先ほどの黒人主力部隊がやってきます。
兵力を増強したらしく、今度は何百人という数です。
びゅうん、びゅうんと、銃弾が耳をかすめます。
以上は、要所要所を飛ばして抜き書きしたアンガウル島玉砕戦の初期の模様です。
この短い文の中にも、映画や記録フイルムでは紹介されない、当時の米軍の実態をかいま見ることができます。
米軍は、相手国の弾丸の届かない海上から、圧倒的火力の艦砲射撃で相手の陣地を破壊し尽くしたあと、黒人兵(黒人との混血を含む)を先頭にたてて、歩兵を進めていました。
戦争ですから、先頭にたつ歩兵は撃たれます。
そして先頭が撃たれることで敵の居場所がわかる。
そこをめがけて、また艦砲射撃をする。
いいとか悪いとかは言いません。
ただいえることは、徹底した人種差別の中で、おなじ米国人であっても、すぐに死ぬ最前線には黒人たちが配置されていたのです。そして黒人が的(まと)になって、敵に撃たせる。撃たせることで相手の居場所をつかみ、そこを(弾の届かない安全な遠方から白人たちが)破壊する。
古来、大陸での戦いは、常にそのようにして戦われてきました。敵を占領すれば、その国の女は犯し、子どもは城壁から投げ捨てて殺し、抵抗できない老人や病人は皆殺しにする。そして男たちは奴隷にし、次の戦闘の最前線の捨て駒として使う。言うことを聞かなければ殺す。
そして大東亜の戦いにおいても、激戦地で黒人兵たちが捨て駒に使われました。白人たちはできるだけ安全なところから攻撃をする。あるいは陸上での戦闘が終わって、敵を制圧してからの掃討の段階で、はじめて登場する。黒人たちは、ただの標的、捨て駒として使われていたのです。
日本は、大東亜戦争の時代、朝鮮や台湾、満洲、南方の島々を領土または同盟国としていました。しかしあらゆる戦いにおいて、外国人兵士はできるだけ使わず、たとえばアンガウルにおいても、逃げ遅れた二〇〇名の現地住民がいましたが、その誰もを兵として使わず、あくまでも日本人が戦いました。
いちばん苦しいところは日本人がやったのです。
朝鮮半島に鉄道を引いたときも、そのための労働のいちばんたいへんなところは全部日本人がやっています。
ハーグ陸戦条約において、戦争は兵のみで行うと規程されましたが、このハーグ条約に基づき、正々堂々と兵のみでの陸戦を行ったのは、過去から現在にいたるまで、日本だけです。
最初の玉砕戦となったアッツ島においても、最後の突撃のとき、山崎保代中将は、片手に軍刀、片手にピストルを持ち、いちばん前に出てお亡くなりになっています。いちばん前だから、いちばん最初に撃たれます。
撃たれても立ち上がり、また撃たれても立ち上がり、そして部隊が全滅したとき、山崎中将のご遺体は、全隊員の先頭にいたのです。
一瞬で全員が死んだのではなく、次々と撃たれて死んでゆく。その中で、いちばん最初に撃たれた人が、突撃兵のいちばん戦闘にいたのです。その事実は、日本側ではいまや誰も語られなけれど、交戦した米軍の中に、厳然とした戦記として残っています。
どんなに苦しくても、どんなにたいへんでも、まずは自分自身が手本となり、いちばんたいへんなことを引き受ける。
それが日本人です。


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