ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識
2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。
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国際連盟(League of Nations)本部(スイス)
国際連盟

他人からあらぬ中傷を受けたり、非道を受けたりしたとき、どのように対処されるでしょうか。
殴られたら殴り返すなんて勇ましい方もおいでになるやもしれませんし、抗議するという方もあろうかと思います。
そこで今日は、この「どう対処するか」について考えてみたいと思います。
実は、日本人と諸外国の人々では、こうしたときの対応の考え方が、まるで違っているのです。
世界標準と申しますか、世界の一般的な考え方では、他人や他国からあらぬ中傷を受けたり、非道を受けたりしたとき、つまりこれは「挑発を受けて紛争になったとき」ということになるのですが、まず「話し合い」をします。
「話し合い」が不調に終わったならば、周囲や権威(この場合の権威には列国や司法委員などといった第三者やその集合体が含まれます)に、間に立ってもらって、白黒つけようとします。
ようするに「争う」わけです。
裁判する、戦う、いずれも争って白黒つけるためのものです。
話し合ってダメなら、争って決着をつける。
これは、いってみれば「喧嘩」です。
その喧嘩の最終形が、「戦争」です。
個人なら殴り合いです。
それが国家なら「戦争」です。
話し合ってだめだったのです。
平和に話し合おうとして決着がつかないのなら、実力行使して決着をつける。
そうでなければ、問題は解決しない。
だから「手を出し」ます。
このとき重要なのは、先に「挑発」を受けて手を出すことは、「侵略」にあたらないとされているということです。
これは「自己の防衛のための正当な行為」となるからです。
ですから、とにもかくにも、相手に先に手を出させようとする。
そのために、先に口喧嘩をしかけます。
あることないこと中傷し、相手が「手を出さざるを得ない」ところまで、追い込むわけです。
経済封鎖も同じです。
告げ口も、その最たるものです。
そうやって相手を追い込んで、ちょっとでも抵抗してきたら、「挑発」を受けたと大騒ぎして周囲を巻き込み、戦争するわけです。
これが世界標準の考え方です。
そしてこれには続きがあります。


その戦いのあとにどうなるかといえば、勝った側は、たとえそれがいかに理不尽な侵略行動であったとしても、勝った側が負けた側を「支配」します。
その支配には、全員を皆殺しにすることも含まれます。
逆に言えば、殺されたくないのなら、言うことをきけ!ということになるわけです。
つまり、相手を屈服させ、服従させるわけです。
負けた側には、そのいいなりになるか、皆殺しに遭うかしか選択肢がありません。
そうでなければ、勝った側は、「捲土重来していつかどこかでやり返される危険」がありますから、安心して枕を高くして寝れないからです。
世界からは紛争はなくなりませんし、個人対個人の争いもなくなりません。
そして紛争の都度、「話し合い」、だめなら「戦争」、そして相手を服従させるということが繰り返されてきました。
それが世界の歴史ですし、現実です。
このことは逆にいえば、「話し合い」をすることは、もし相手がそれに応じなければ、話し合いが嫌ならば、それでは別のお返しをもってというだけの「実力」がいるということですし、「実力」がなければ、そもそも話し合いにさえもならない、ということをあらわします。
なぜなら、実力がなければ、相手はどこまでも「屈服」しないからです。
たとえば慰安婦問題があります。
韓国の告げ口外交や、侮日外交はけしからんという方がおいでになります。
慰安婦像を建てまくるなど、とんでもないと言う人もいます。
私もそう思います。
では、どうするのでしょうか。
相手(韓国)と話し合うのでしょうか。
話し合っても、相手は「あった」と言い張っているわけです。
日本は「なかった」と言い張る。
両者は、どこまでいっても平行線です。
足して二で割る解決もありえません。なぜなら、「あった」か「なかった」かという二者択一しか、そこにはないからです。
ということは、話し合いでは解決しないといことです。
では、話し合いで解決しないなら、日本はどうするのでしょうか。
韓国は、すでに話し合いでは解決しないと割り切っているからこそ、国際社会を味方に付けようとして派手な宣伝をしているわけです。
何も知らない諸外国は、女性の大統領が涙を流して「ひどい目にあったんですぅ」と泣けば、同情して韓国の味方についてくれるかもしれません。
それに対して、日本が「なかった」といえば、「ひどいことをしておいて、なかったとは、なんと冷酷な人たちなのだろうか」と思う国や人がたくさんでてくるかもしれません。
ですから、日本は、冷静になって事実関係を両者で確認しましょうともちかけるけれど、事は、すでに紛争になっているわけです。
そして紛争の解決に、相手は話し合いには応じないと行っているわけです。
だから日本は、お金を払って懐柔しようとしました。
けれど、お金を払うということは、損害賠償に応じたということで、これは慰安婦の強制連行があったことを日本が認めたことになります。
そして過去、日本はお金を払い続けています。
つまり、認め続けてきたわけです。
それをいまになって「なかった」というのは、誰がどうみても、おかしい、と、こうなるわけです。
だから日本は、話し合いましょうという。
話し合って、解決しないから、紛争になっているのに、それでも話し合いましょうという。
けれど、紛争というのは、白黒の決着がつくまで、どこまでも続くのです。
それこそ千年続くのかもしれない。
であれば、決着を付ける手段は、残るひとつの方法しかない。
それが「争う」です。
通常、それが国内問題なら、「裁判に訴える」という方法がとられます。
国内の裁判は、相手が出頭しなければ、その瞬間に出頭しなかった側が、全面的に相手の主張を認めたことになりますから、相手は言い分があるなら、絶対に出頭しなければなりません。
そういうことができるのは、国家による強制制があるからです。
ところが国際裁判というのは、それぞれの国に、排他的な国家主権が認められていますから、裁判に出頭する義務はありません。
「裁判などする必要がない」と言い切っていまえば良いだけのことです。
つまり、国際司法裁判というのは、あくまでも相手が「話し合う」気持ちを持っているときにしか、機能しないのです。
その話し合いが不調なら、ではどうするか。
「戦争」するしかないのです。
日本は、連合国(United Nations=国連)からみたら、いまだに「敵国」です。
「United Nations」に、たくさんお金を払っているかどうかなど、一切関係ありません。
敵国は敵国なのです。
そして韓国は、United Nationsが作った国であり、United Nationsの一員です。
ですから、韓国は、United Nationsの協力を得て、日本と戦い、日本を屈服させようとします。
日本が、それが嫌なら、日本はUnited Nationsから離れて、独自に韓国と戦争するしかないのです。
そして韓国を占領し、韓国にいる反日分子を大統領から役人、韓国右翼と呼ばれる反日活動家に至るまで、全員、一族郎党に至るまで殺すか、報復裁判を行って公開処刑するかしかない。
それが国際社会における標準的な考え方です。
けれど不思議なことに、韓国の慰安婦問題、あるいはChinaの南京問題の主張や尖閣問題、あるいは北方領土に関するロシアとの問題等について、「日本は戦争すべし」という人は、極左から極右に至るまで、日本には誰もいません。
どうしてかというと、日本人には、いまだにそうした国際社会の標準的な考え方よりも、日本的な解決の仕方という思考しかないからです。
どういうことかというと、日本には、そもそも紛争が起きたときに「話し合う」という文化がないのです。
日本人は、国でも個人でも、バカにされたり中傷されたりという露骨な挑発があり、実害まで被るようになっても、とにかく我慢します。
昔はこれを、「堪忍」といいました。
バカにされたり中傷されたりするのは、相手が悪いのではなく、自分にそういう隙があり、自分の徳がたらなかったせいなのだから、ひたすら我慢し、頭の上の風が吹きすぎるのを待つ。
たとえそれがどんなに不当なものであったとしても、まずは言いなりになり、我慢する。
そしていつかきっと相手もわかってくれると信じる。
なぜなら、事実はひとつなのだから。
それが一般的な古来変わらぬ日本と日本人の思考です。
ですから日本人は、「話し合い」をしません。
あるのは、まず「お詫び」です。
実際には、どうみても相手の言っていることが不当きわまりないものであったとしても、とにかく先に謝り、これからも仲良くしていこうと持ちかける。
それが日本人です。
世界とはずいぶん違うのです。
問題は、いくら謝っても、先方が納得しない場合です。
納得して和を築ければ良いのですが、そうはならなかったとき、相手が居丈高に要求をつきつけてきたとき、日本や日本人はどうするのか。
答えは、「それでも我慢する」です。
それが良いか悪いかを言っているのではありません。
たとえ不当であったとしても、相手の要求をぎりぎりできる範囲で受け入れ、和を築こうとする。それが日本であり日本人だし、古来からの日本人の行動様式だということです。
それでもなお、相手がさらにもっと要求をエスカレートさせてきたらどうするか。
それでも日本人は我慢します。
そしてどうにも我慢できない、もはやこれ以上は堪忍できない。戦うしかないというところまで追いつめられたとき、日本も日本人も重たい腰をあげ、敵と戦います。
けれど、その戦い方も、日本と諸外国では、これまた異なります。
諸外国では、戦いとなれば、とにもかくにも「勝てば良い」のです。
勝って相手を屈服させられれば、相手は思いのままになる。
それが彼らの考え方だし、常識です。
ですから勝つためには、ありとあらゆる方法が使われます。
どんなに卑劣な手を使ってでも、とにかく勝てば良いのです。
韓国におもしろい童話があります。
子供向けの童話です。
あるとき旅人が村を通りがかると、そこには立派な豪邸がありました。
そんな豪邸に自分も住んでみたいものだと思ったその旅人は、持っていた荷物の中から、古びた骨董品を取り出しました。
そして夜中にその豪邸に忍び込み、豪邸の庭に、そっとその骨董品を埋めました。
翌日、その旅人は、お役人に訴えました。
「あの豪邸は、実は私の祖先のものだったのです。それをいま豪邸に住んでいる人たちが、勝手に占拠してしまいました。あの豪邸を取り返してください」
あんまりにも、熱心にその旅人がそういって泣きわめくものだから、やむなく役人は旅人を連れてその豪邸に行きました。
すると、旅人は、
「ああ、やっぱりこの家は、私の家です。言い伝えがあります。あの木の根元には、これこれの品物が埋まっているはずです」
豪邸の主は、「何をたわけたことを。そんなことあるわけないじゃないか」
そこで、お役人立ち会いのもと、その木の根元を掘り返しますと、なんとその骨董品が出てきます。あたりまえです。旅人が自分で埋めたのです。
こうして見事に豪邸を手に入れた旅人は、それ以来、お金持ちとなって優雅に生涯を暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。
これが子供向けの童話です。
日本では、他人の財産をだまし取るなど、考えられない非道ですが、かの国では、それが「めでたし、めでたし」なのです。
民族や国の違い、文化の違いは、実はここまで大きなものなのです。
「個」の尊厳が最優先とされる国や社会では、個体間は常に競争関係、敵対関係、対立関係になります。
同級生同士でも、友人関係でも、国際関係でも、もっというなら親子関係であったとしても、親と子は互いに独立した「個」である以上、競争し敵対し対立し続ける関係です。
そして、いかなる場合も、「勝てば官軍」です。
「対立と闘争」というと、なにやら共産主義のお家芸のように思っている人が多いですが、違います。
個人主義=対立と闘争の思想なのです。
「個」が最大限尊重されるということは、それぞれの我がままが最優先されるということで、互いのわがままが衝突すれば、そこに争いが生まれます。
そして対立の結果紛争となり、その紛争の結果白黒がつけば、そこには絶対的な上下と支配の関係が構築されます。
そうなると上位に立った者は、下位となった者に対して、あらゆる恥辱や命令を与えることができるし、命さえも奪うことができる。それが正当化される。
ですから通常、親は子を支配しますが、子が親との紛争に勝てば、子が親を支配することになります。
国家も同じで、A国がB国との紛争に勝てば、A国はB国を好きなように支配することができる。
それに応じないなら、B国の住民を全員虐殺したとしても、それはもともとの紛争の結果だから、B国も、周囲のそれ以外の国も、いっさい文句は言えない。
それが個人主義、国家主義の根本にあるルールです。
ただ、ヨーロッパや米国などのキリスト教圏の国においては、そうはいっても神様によって、ある程度の人道が求められます。そこに一定の制限が加えられるのですが、ChinaやKoreaなどには、こうした宗教的権威による道徳規範がありません。
ですから、勝って上位に立った者は、相手の頭を平気で土足で踏みつけるし、勝った者がそのような非道を働いたとしても、それは当然のこととする感覚が、彼らにはあるわけです。
これに対し日本では、我慢して我慢して、どうしようもないところまで追いつめられてそれでも我慢して、もうどうにも我慢しきれなくなったときには、なるほど行動を起こすけれど、それはあくまで「相手を懲らしめる」ためのものと考えられます。
ですから相手が「まいりました」といえば、それでおしまいです。
あとは今まで通り、対等な関係として仲良くやっていく。
ですから日本における武術は、世界各国で発達したマーシャルアーツとは異なります。
武術は人を殺すためのものではなく、たとえば柔道ならば相手を投げ飛ばすときに、必ず相手の頭部を保護して、死に至るような大怪我を負わせないように訓練するし、剣術においても、相手をいきなり殺害するものではなく、陰流といって相手から攻撃を受けたときに、これを毛筋一本でかわして敵を斬るという技が工夫され、広く普及しています。
戦国武将同士の戦においても、敵軍を全員皆殺しにするような戦いというものは、まずなくて、たいていは相手の大将が首を差し出せば、それでおしまいです。
「武」は、どこまでも相手を「懲らしめる」ためのものであり、こちらの非道を押し通すために使うものではないという根源的な価値観を、日本人は持っています。
このあたりは、部下を差し置いて、まずは大将が先に逃げ出し、あとから兵が降参する、西欧や大陸の文化とは、日本の文化は、まったく異なるものなのです。
つまり、個体間の問題が発生したとき(これは個人対個人というだけでなく、国対国や、集団対集団のような場合も含まれますが)、日本人は、まず我慢(堪忍)するし、不当な圧力を加えられたとしても、それをどこまでも我慢する。
それでもどうにもならなければ、話し合いを申し入れるけれど、こちらが黙っているからと、相手が調子に乗って話し合いを拒んだとしても、それでも話し合いを受け入れる用意があるからと、相手に対してフトコロを開いておこうとする。
そしてそれでも相手がわからない、このままでは死ぬか滅びるしかないというところまで追いつめられたとき、そこではじめて武力を用いる。
けれどその武力も、あくまでも相手を懲らしめるものであって、相手を殲滅したり殺害したりすることを目的としない。それが日本流だということです。
そして世界標準流と日本流の違いは、戦いの後にもあります。
西欧が戦いによって、相手を支配下に置くというのに対し、日本では敵を懲らしめてまいったと言えば、そこからは従来通りに対等な関係でいようとする、という違いです。
この結果、世界標準流では、禍根がいつまでも残るのに対し、日本流では禍根が残らない。
単純に図式化すると次のようになります。
(世界標準流)
問題が起こる→話し合う→戦う→相手を殲滅するか従わせて支配する→禍根が残る
(日本流)
問題が起こる→我慢する→話し合う→相手を懲らしめる→また仲良くなる
個と個の争いの中で、気に入らなければ相手を殺害したり屈服させて支配下に置くという世界標準のやり方は、一時的に相手を屈服させることができたとしても、結果として、どこまでもいつまでも対立の根があとをたたないというたいへん大きな欠陥を持ちます。
一方日本風の集団制を重んじてまずは我慢するけれど、最後には許そうとする姿勢は、最後には、平和で仲の良い和合集団が形成されるとはいえ、その過程においては、一時的にせよ、どうしようもないわがままな人や個人が現れたとき、ものすごく多くの人や時間がたいへんな迷惑を被り続けてしまうという欠陥を持ちます。
どちらが良いかは、ここではあまり深く言及しません。
それぞれのご判断におまかせします。
ひとついえることは、日本式の場合、これを実現するには高い民度と道徳的価値観の共有化が、必要であるということです。
わがままを言って他人を困らせたり、他国を誹謗中傷したり、いたずらに対立をあおること自体がよろしくない、こちらが我慢してくれているのだということを相手もちゃんと理解できるだけの道徳観がある、という環境が必要です。
時間はまもらなくちゃいけない、いたずらに人を攻撃してはならない、盗みをしてはならないなど、そういうあたりまえのことが、あたりまえに行われるための教育と、それによって育成される共通の価値観の普及が必要なのです。
そうでないと、平気で遅刻したり、いたずらに周囲を攻撃してみんなに迷惑をかけたり、あるいは泥棒したりする卑劣漢が、みんなの我慢をいいことに、暴れ回ることになります。
迷惑を受けるのは、まともな人たち、迷惑をかけてでも利益を得るのは、一部の不心得者たちという図式が成り立ってしまうからです。
世界標準方式であれば、迷惑をかける存在に対しては、いったんは話し合いを求めるけれど、それで駄目となれば、容赦なく相手を弾劾し、追い払い、場合によっては、禍根が残らないように、相手を殺してしまいます。
そうでなければ、まともな人たちが迷惑を被るからです。
ただし、このことは逆の意味の危険もはらみます。
その追い払う方が、むしろ悪人であることが、往々にしてあるからです。
こうなると、まともな多くの民衆が、大迷惑を被ります。
こうした世界標準の秩序感が、カタチとなったものが、実は国連です。
国連といえば、国際的スタンダードというイメージを現代日本人は持っているようですが、まったく違います。
国際連合(United Nations)というのは、第二次世界大戦における連合国(United Nations)です。
日本語では、国連、連合国と漢字を使い分けるので、なにやらまったく別なものといったイメージを日本人の多くは持っていますが、どちらも英語で書いたら「United Nations」であり、両者は同じものです。
第二次世界大戦が終わる前まで、世界には国際連盟(League of Nations)があり、日本はそのなかの情倫理自国であり、しかも世界第二位の国際連盟の運営資金供出国でもありました。
そしてその国際連盟で、日本は世界に先駆けて、堂々と人種の平等を主張していました。
なにせ有色人種で、世界の常任理事国となれた国は、日本ただ一国だったのです。
ところが満州問題で日本はこの国際連盟を脱退しました。
日本という巨大なスポンサーを失った国際連盟は、結果として解散に追い込まれ、これをまるごと継承して、悪い言い方をするならば、権威の部分だけを上手にパクってできたのが(いい方が悪くてごめんなさい)、いまの国連です。
ちなみに日本の国際連盟脱退は、満州国を国際連盟が国として承認しなかったからですが、この満州国というのは、ものすごく詰めていうと、旧大清帝国です。
Chinaの国内が荒れ、清国が亡国状態となったとき、清王朝の皇帝を、清王朝のそもそものゆかりの地であり、清王朝の聖地でもある満州に、引っ越ししてもらって建国したのが満州国です。
清王朝の王族たちは、満州族(女真族)です。
いわゆる漢族とは、言語も文化も使う文字もまったく異なります。
近代以降、世界の国々は、民族自立による建国が原則となりましたが、その意味では、むしろ漢族の土地であるChinaに満州族王朝があったことの方が、あるいみ異常だし、その満州の地を、いまのようにChinaが自国領にしてしまっていることも、異常事態です。
満州は、もともと満州族の土地です。
ですからそこに、まさに滅びんとする清王朝を引っ越しさせ、産業を育成して短期間に世界有数の大国として育て上げることに、全面的に協力したのが日本です。
国際連盟の安全保障理事国であり、東洋最大かつ最強の大国である日本がこれを行うのは、東亜の安定のためですし、当然の行為です。
ところがそうした日本の行為を、Chinaエリアの征服をもくろむ欧米でした。
彼らは、意図的に日本を陥れ、China、満州における権益を自分たちのものにしようとしたのです。
世界の平和のための国際連盟が、東亜の平和を逆に乱そうというのです。
それでは、なんのために日本が多額の供出金を毎年出しているのかわかりません。
ですから、日本は、国際連盟を脱退しています。
その日本は、大東亜戦争終結後、新たに連合国(United Nations)の覇者となった米国によって占領統治を受けました。
そしてようやく「United Nations」への参加が認められるようになったものの、その「United Nations」の中では、日本はいまでも「敵国」です。
その「United Nations」は、大きく分けて3つの階層によって成り立っています。
一番上に君臨するのが、世界の警察権を握る「安全保障理事国」(5カ国)です。
そして二番目にいるのが、「国連参加国」です。
そして一番下にいるのが、「敵国」です。
日本は「敵国」です。
国連(United Nations)にいる圧倒的多数の国は、二番目の「国連参加国」です。
この国連参加国同士で何らかの紛議が発生した場合、国連では、まず当事者両国での話し合いが求められます。
西欧的個人間の紛争の解決方法と、これは同じ流れです。
この話し合いをしないで、いきなり武力を行使すれば、ことの善悪抜きに、手を出した側が、ルールを破ったとして国連の安全保障理事国によって武力攻撃を受けることになります。
その例がイラク戦争です。
イラクにおける国連は兵のきっかけは、イラクによるクエート侵攻と、その併合です。
歴史的な経緯をみれば、クエートはイラクの一部です。
ですからイラクにしてみたら、これは「国内問題」です。
勝手に独立国を名乗るクエートは許せないし、その制圧のために軍を出動することも、彼らにとっては当然のことでした。
けれども戦後の国連体勢では、たとえそこにどんなに正当性があろうと、武力行使は侵略行動です。
なんだか、いまどきの日本国内の「ボーリョクハンターイ」とよく似ていますが、まさにその理屈で、フセイン大統領の行為は、国連秩序の上から許されない行為とされました。
そして連合国(国連)は、イラクを武装制圧し、フセインを殺害しました。
なぜそうなったかといえば、国連加盟国は、国同士の紛争があったとき、必ず事前に両国で話し合い、それで解決できなければ、国連の会議の場で、互いの話し合いを求め、それでも解決できないときに、はじめて武力の行使ができことになっている。そういう秩序になっています。
要するに、武力の行使の前には、必ず「話し合い」をしなければならないわけで、それをしないで、勝手に軍を運用すれば、それは「たとえどんなに正義が武力行使国側にあったとしても」国連によって、叩かれることになります。
こう書きますと、では「ロシアによるウクライナへの軍事侵攻はどうなのか。あれこそ一方的な侵攻ではないか」と言われそうです。
たしかにその通りです。
けれども、ロシアは国連の安全保障理事国です。
そして安全保障理事国は、わかりやすく言うと、国際警察の役割を国連から委ねられている国です。
5カ国あり、それが、米、英、仏、露、中共です。
この5カ国は、安全保障理事国です。
ですから他国に勝手に軍事侵攻する権利を持っています。
ロシアのウクライナ侵攻も、クロアチア侵攻も、それは安全保障理事国としての当然の権利権限の行使にすぎません。
すくなくとも国連の建前上は、そういうことになります。
ですから国連には、ロシアのウクライナ侵攻を止めることはできません。
安全保障理事国というのは、それだけの大きな権限を与えられているのです。
このことはChinaも同じです。
China共産党は、国連安全保障理事国です。
ですから、チベットや、ウイグルに勝手に侵攻し、そこでどれだけの非道の限りを尽くしても、人道的に許されない行為をつくしても、それは安全保障理事国としての権利権限の発動であり、正当な行為となります。
ですからこの問題について、国連ではいっさい問題することができません。
チベットでは、毎月何人もの女性が焼身自殺をし、その様子をYoutubeなどで放映したりして、世界にチベットにある中共の蛮行を訴えています。
けれども、どれだけ中共政権による弾圧と殺戮が人道を外れたものであったとしても、現在の国連の仕組みの上からは、中共の行動が「安全保障理事国の正義の発動」とされてしまうのです。
たいへんな不条理ですが、それがいまの国連の仕組みです。
そうはいっても、安全保障理事国が、国連参加国に対して武力を用いる場合は、いったんは国連の了承を取り付けることになります。
これもルールです。
けれど、クロアチアも、ウクライナも、チベットもウイグルも、国連参加国ではありません。
ですから安全保障理事国は、世界の秩序維持のためという名目で、勝手な軍事侵攻ができてしまいます。
そしてこのことは、国連条項中の「敵国」に対するものと、実は同じです。
国連憲章における「敵国」は、日本、ドイツ、イタリア、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、フィンランドの7カ国です。
そしてそれら諸国は、いまでも国連にとっての「敵国」ですから、安全保障理事国は無条件でこれらの国々に軍事侵攻できる権利権限を持っています。
これは恐ろしいことです。
日本は、国連加盟193カ国の中で、世界第二位の国連への献金国です。
けれど、献金国であるということと、敵国であるということは、意味がまったく異なります。
悪魔は、たとえ降参して天使の仲間入りをしても、悪魔は悪魔でしかないのです。
その意味で、日本はたいへんに危ない立場にあります。
ただ、実際には、日本には安全保障理事国のなかのひとつである米国の傀儡政権が置かれ、いまも独立国家であれば当然自国で保持すべき領土主権と非常大権は、米国の占有下におかれたままになっています。
その意味で、日本は米国の領土の一部に準ずる状態にあり、ですから、中共もロシアも手を出せない。
そういう微妙な力関係の中に、日本はおかれています。
ちなみに、もうひとつ、多くの日本人が誤解していることのひとつに、国連事務総長というポストのことがあります。
このポストは「後進国から選ばれる」ということになっています。
先進国や、力の保持者である安全保障理事国は、この国連事務総長というポストは、与えられません。
いわば、後進国(発展途上国)のひとつのドリームとして、華やかな舞台が与えられているだけで、何の権限もありません。
ただの後進国向けのお飾りポストにすぎないのです。
だいぶ脱線しましたが、申し上げようとしているのは、国際標準としての考え方としては、どのような場合であったとしても、国際間の問題や、個人間の問題は、まず「話し合って解決」すべきことであり、その話し合いが不調に終われば力に訴える。
ところが日本では、問題が生じたときに、まずは「我慢」する。
くりかえしますが、西欧風が良いとか、日本風が良いとか、そういう議論をしたいのではありません。
どちらにも、良い点、悪い点があると思います。
ではどうして日本では我慢し、堪忍するのか。
日本では、「個」よりも、「集団」が優先されます。
天皇というご存在によって、すべての民が、天皇の民とされ、政治権力者による民の私有がないという世界史上画期的といえる仕組みを作り上げた日本では、施政者も、民の暮らしの安寧が最も尊重されるべきものと認識されてきました。
ですから、たとえ理不尽と思えることがあったとしても、集団の和を優先し、まずは我慢する。堪(こら)える。
そしていつかはきっと春が来る、相手もわかるときがくると信じる。
通州事件を覚えておいでの方も多いかと思います。
昭和12(1937)年7月29日、突然来襲した約3千人のChineseの暴徒によって、北京郊外の通州において、日本人居留民385名のうち、223名が、人類史上他に類例のない凄惨な虐殺を受けた事件です。
普通これだけの事件が起きれば、世界中のどこのどんな国であったとしても、加害者のグループは世界中を探しまわってでも全員逮捕し、極刑に付するし、近代までの時代なら、付近の住民たちごと全員抹殺する、つまり、完膚なきまでの報復措置をとります。
まして当時の日本は、世界の最強国のうちのひとつでもあったわけです。
その気になって戦えば、たかが3千の暴徒など、ものの数ではない。
あるいはこの事件を契機として、China国民党に厳重抗議の上巨額の賠償金を要求し、それが払えないなら当然戦争だし、戦争する以上、徹底的に相手を殲滅し、全員皆殺しにするという選択もあったことであろうと思うのです。
けれど、この事件が起きたときの日本の選択は、船津工作といって、日本人きってのChina通の商社マンである船津辰一郎さんをつかってあらゆる人脈をたぐり、加害者側の責任政権を自称するChina国民党に対して、「これまでのあなた方の要求を全部まるごとのむから、また仲良くしよう」というものでした。
これは、世界史的にみれば、まさに驚天動地の出来事です。
一方的に理由もなく殴られた側が、殴った側に対して、こちらからは手をださいないから、元取り仲良くしようと申し出ているのです。
もし、たとえばいまこれを読まれているあなたのお子さんが残忍な方法で殺害されたとします。
その犯人に対して、あなたは「すべてを水に流すから、また仲良くしようね」と言えますか?
私には絶対に言えません。
けれど日本の選択は、そういう選択だったのです。
日本が弱くて、そう言うしかなかったとかいうことではありません。
その気になって、即座に行動を起こしていれば、おそらく今頃はChinaは日本領となっていたことでしょう。
けれど、そういう報復的仕打ちによって国や民族を支配すれば、その結果は、やはり血の連鎖になってしまう。
どこまでも、平和で人々が安心して暮らせる世の中を築くために行動するなら、ひたすら堪忍自重して、相手が道理を理解してくれるようにしていくしかない。
それが日本の選択だったわけです。
感情の部分では、絶対になっとくできないことですが、それでも当時の日本の選択は、筋の通った正しい選択であったろうと思います。
ところがその船津工作がようやく実り、いよいよ条約調印の当日になって起きたのが、海軍陸戦隊の大山中尉惨殺事件でした。
上海での条約調印を控えたその日の昼前に、たまたま上海市内を運転手付きの車に乗って通行中だった大山中尉が、いきなり機関銃の掃射を浴びて、運転手は即死。
そして後部座席にいて瀕死の状態だった大山中尉は、なんと車から引きずり出された上、脳天を青龍刀でかち割られるというひどい仕打ちを受けて殺害されたのです。
このため上海市内に緊急配備がひかれ、政府高官による平和協定の調印どころではなくなってしまった。
それが歴史の真実です。
事件はこれだけでなく、度重なっておきました。
それでも日本は我慢に我慢を重ね、もうどうしようもないとなったときになって、やっと軍を派兵しました。
その軍も国際協定を破って1万のトーチかを作って待ち受ける敵に対して、日本は一方的な殺戮をするのではなく、まずは対峙して話し合いと降伏を呼びかけ、それに対して一方的に攻撃を加えてくる敵に対して、期限をきってから、攻撃を加えました。
そして戦いが済めば、戦場となったエリアにおいて民衆を保護し、怪我人がいれば、敵味方なくその手当をし、潜む敵兵を発見すれば、武装を放棄させたうえで、そのまま生きて放逐してきました。
敵だから殲滅すれば良いという発想のもとでは、絶対にこうした行動はできません。
日本は、どこまでも、不条理を押し付ける相手に対しては、ただ懲らしめれば良いと考え、行動したわけです。
韓国によって慰安婦問題や竹島への不法占拠などの紛争が起きても、日本国政府は相手国に話し合いを求め、それでもだめなら国連の場や、国際司法裁判所に訴えて白黒をつけようともちかけています。
それでも駄目なら「戦争」しかないのですが、それでも、日本国政府は堪えています。
それが日本的マインドでもあるからです。
けれど、世界には、こうした「我慢」も「堪忍」もありません。
ですから諸外国は、日本が「我慢」すれば、非を認めたと一方的に判断してしまいます。
グローバルスタンダードがいまの西欧風個人主義に端を発する「話し合い→攻撃」だとするならば、日本流は、あくまで日本独自のものであり、異質です。
ですから日本は、国際的なものと、国内的なものを、わけて対応しなければなりませんし、そのことを日本人自身が、ちゃんとわきまえる必要があります。
わたしたち日本人は、他人に迷惑をかけないようにして生きる、少々のことがあっても我慢する、トラブルがあっても、和を大切にし、先にこちらから謝るという文化を持っています。
この文化は、日本人のDNAの中にしみ込んだもので、これは日本国政府といえども否定はできないであろうし、そうした日本古来の文化は大切にしていくべきものだと思います。
けれども、そういう日本的思考というのは、グローバルスタンダードではありません。
世界は、あくまでも「話し合って解決しなければ、実力で屈服させる」というのが、スタンダードです。
ですから話し合いは、戦争の覚悟がなければ、そもそも成立などしません。
相手にいいように利用されるだけになります。
それが世界です。
もし日本が、戦争はしたくないけれど、問題は解決したいと願うなら、わたしたち日本人は、世界とは異なった問題解決の手法を持っているということを、世界に向けて、どこまでもアピールしていかなければなりません。
それをしなければ、日本は、絶対に世界に理解されない。
ですから日本が、戦争をしないで、本当に話し合いで問題を解決したいのなら、日本は、日本の文化を世界に向けて堂々と強く発信し、まずは日本的思想を広く拡散し普及していかなければならいのです。
そしてそれをしなければ、日本は、永遠に理解されないし、慰安婦も、北方領土も未来永劫、解決はしない。
そのことを今日は強く申し上げておきたいと思います。


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