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■ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識
2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。
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■ねず本第二巻の「立ち読み版」が公開されました。
(本の画像の下の「立ち読み」というところをクリックしてください。)
■新刊ラジオでも紹介されています。ねずさん本人も出演しています。

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SHARP(シャープ)の創業者、早川徳次(はやかわとくじ)さんのお話です。
シャープペンてありますけれど、あれも、実は早川徳次さんの発明なんですね。
けれど世界的大ヒットとなったシャープペンのシャープは、つぶれてなくなってしまうんです。
それで夜逃げして、大阪に行き、そこで再起を期して起こしたのが、いまの家電メーカーのシャープです。
ですから大阪で起業当時は、債権者に追いまくられる日々で、ほんとうに辛い毎日を送られていました。
そこからなんとかして立ち上がろうとのたうち回って手を出したのが、ラジオだったのです。
シャープはちょうど一年前にサムスンと提携の噂が流れましたが、秋に完全にこれを打ち切りました。
日本の会社は、日本人が守り育てる。
日本は、日本人としての協同体意識を、しっかりと取り戻したいものです。
いま、シャープの本社は大阪にありますが、もともとはこの会社、東京で創業されました。
そもそも創業社長の早川徳次さんは、東京日本橋の生まれです。
生家はなにかのご商売をされていた家のようです。
けれど家業が衰退し、母親も病気になってしまいました。
このため徳次は二歳半のときに、出野家に養子に出されています。
出野家の養母は、徳次少年を非常に可愛がってくれたようです。
ところが、徳次が5歳のとき、実の母のようにかわいがってくれたこの養母が、亡くなってしまうのです。
出野家は、後妻をもらいました。
ところがこの後妻が、とんでもない伝説の女性だったのだそうです。
徳次に対して殴る蹴るの暴行はあたりまえ、真冬に公衆便所の糞つぼの中に突き落として、放置したりもしたそうです。
泣き声を聞きつけた近所の人々が助け出したのですが、糞尿まみれでおぼれかけていたのですから、半死半生です。
もちろん全身糞まみれで、臭いのだけれど、せっかく近所の人に助けてもらった徳次を、出野の後妻は、眼を吊上げて井戸端(いどばた)に引きずり、厳寒の中で罵声とともに冷たい井戸水を浴びせ続けたといいます。
近所の人たちも、あきれはててものもいえなかった。
徳次少年は、食事もしばしば与えられませんでした。
さらに「お前に勉強なんか贅沢だ、働け!」と、小学校も二年で中退させられています。
あまりのヒドイ仕打ちをみかねた近所の井上さんという盲目の女行者さんが、徳次少年の手を引いて、飾り職人の丁稚奉公に連れて行ってくれました。
井上さんは修験道の信仰をされていた女性ですが、徳次は晩年になっても、「あの時の井上さんの手のぬくもりを、私は生涯忘れる事が出来ない」と述懐しておられたそうです。
よそのおばさんの手のぬくもりが、それほどまでにあたたかく感じたというくらい、徳次少年は、つらい毎日を送っていたのです。
徳次が連れて行かれたかざり職人さんの家は、男っ気のある親方の下に、何名かの職人さんがいる商店でした。
そこで徳次は18歳まで飾り金物の丁稚(でっち)職人として奉公しました。
けれど、徳次が一生懸命働いた稼いだ給金は、その後妻がやってきては、毎月ぜんぶ持って行ってしまっていたそうです。
だから徳次少年には、遊んだり、自分のモノを買ったりするお金は一円もない。そんな状態でした。
徳次にとっては、ただひたすら黙々と金属の加工をし、飾り物作りに打ち込んでいる時間だけが、幸せな時間だったのです。
ちなみに偉大な事績を残す人というのは、不思議なほど、それ以前にめちゃめちゃ不幸な生活を送っています。
人並みはずれてたいへんな苦労をし、その苦労に打ち勝ち、耐えぬいたとき、はじめて天はその人に大きな仕事を委ねるのだそうです。
明治44(1911)年のことです。
徳次は、このとき18歳になっていたのですが、ズボンのベルトに穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」を発明しています。

徳次は、この発明で新案特許を取り、19歳で独立しました。
そしてその届け出をしているときに、彼ははじめて、自分が出野家の養子であったこと、そして自分の両親は、とうに死んでいたことを知りました。
そして実の兄である早川政治と対面しています。
彼は、その兄と、「早川兄弟社」を設立しました。
そして「徳尾錠」の製造販売を開始したのです。
独立資金50円のうち、10円は兄弟でお金を出し合い、40円は借金しました。
徳次が商品を考案し、兄が販売の担当です。
苦しい財務状態からのたち上げでしたが、二人は寝る間も惜しんで働き、「徳尾錠」は、ヒット商品となって、事業は拡大していきました。
そして次に徳次が発明したのが、22才のときで、独創的な芯の繰出し装置付きのシャープペンシルです。
棒を金属ではさむと、摩擦の力で軽い力でも強固に固定できます。
その現象を応用したもので、これはいま使われているシャープペンと同じ仕様のものです。
大正4(1915)年、徳次は、このシャープペンシルを「早川式繰出鉛筆」として特許を出願しました。
最初はプロペリングペンシル(軸をひねって芯を出す機構だったため)の名で売り出したのですが、後に、エバー・レディ・シャープ・ペンシルと改名しました。
この名前が詰まって、後にシャープペンシルとなり、シャープの社名にまでなっています。
しかし、この「早川式繰出鉛筆」は、売出し当初は、「和服に向かない」、「金属製なので冷たく感じる」など、まったくもって評判が悪いものでした。おかげで全く売れません。
それでも銀座の文房具屋に試作品を置いてもらうなどの努力を続けるうち、徳次のシャープペンは、欧米で人気商品になりました。
すると、日本でも売れ始めた。
海外でヒットすると日本でも売れ始める。いまも昔も日本は変わらない。
徳次の会社は、このシャープペンシルの大量生産で、会社の規模を拡大しました。
さらにこのとき徳次は、当時としては先駆的な試みである、流れ作業方式を導入することで、製品の生産効率を格段に高めています。
「早川兄弟社」は、大正12(1923年)には、従業員数200名の会社に成長しました。
「早川式繰出鉛筆」も、米国特許を取得し、事業は完全に軌道に乗りました。
ところが・・・
徳次は、激務がたたって、過労で倒れてしまうのです。29歳のときでした。
当時としては珍しい「血清注射」による治療で命拾いをします。
徳次が30歳になった大正12(1923)年のとき、関東大震災が起こりました。
震災で徳次は九死に一生を得るのだけれど、妻と2人の子供は死亡してしまいました。
工場も焼けてなくなってしまいました。
残ったのは借金だけ、という状況になったのです。
さすがの徳次も「何もかも、元に戻ってしまった」と、泣きに泣きに泣いたそうです。
死のうとすら思ったといいます。
しかしこのとき生き残った社員たちが、彼を励ましましてくれました。
何もかも失ってしまったけれど、自分はまだ生きている。
生きている限り、何かをなさなければならない。
徳次は、借金の返済のために、シャープペンシルの特許を日本文房具に売却しました。
そして心機一転、大阪へと移り、震災の翌年の大正13(1924)年には、大阪で「早川金属工業研究所」を設立します。
日本文房具の下請けの仕事をはじめたのです・・・・と、こう書くとなにやらもっともらしいのですが、実は、震災ですべてを失って、一文無しどころか、借金だけが残り、やむなく徳次は、日本文房具に特許権を売り渡し、売却益で小金を作って、励ましてくれた社員たちまで放置したまま、関西に夜逃げした、というのが本当のところです。
ひどい話ですが、徳次にとっては、このことが一生の負い目になります。
そして大阪で日本文房具の下請け工場をはじめた徳次のもとには、たびたび債権者が押し掛けてきました。
いまのような貸金業規制法によって、取立行為の制限が債権者の側に科せられている時代ではありません。
借金取りは、債務者にありとあらゆる屈辱を与え、取るべき者を取って行った、そういう時代です。
徳次は、新たに雇った従業員の前で、脅され、殴られ、奪われ、訴えられ、刑事告訴され、徳次はまさに舌筆につくしがたい苦境を味わいます。
失意の徳次が、ふらふらと大阪の街を徘徊していたときのことです。
ふとしたことから、大阪の心斎橋で、アメリカから輸入されたばかりの鉱石ラジオの展示を見かけます。
日本でもラジオ放送が始まろうとしていたのです。
徳次は、これはイケルと確信します。
徳次は、一心不乱に鉱石ラジオを研究し、震災の翌年(大正14(1925)年)には、国産第1号機の鉱石ラジオを発表しました。
鉱石ラジオというのは、ゲルマニウム・ラジオが生まれるよりも、もっとずっと以前のラジオの仕様です。真空管ラジオよりも古いものです。
これは、方鉛鉱や黄鉄鉱などの鉱石の表面に、細い金属線を接触させ、その整流作用を利用して電波を受信するラジオで、当時はまだアンプ(増幅器)なんてしゃれたものがない時代です。
ですからあ音声信号も微弱です。
だからヘッドホンで音を聞きました。
それでも当時としてみれば、NHKがラジオ放送を開始する、ラジオが普及する、これは、実に楽しみな出来事でした。
この年の6月1日、会社で、社員みんなが集まって、大阪NHKのラジオ放送を受信しました。
レシーバーから細々とアナウンサーの声が聞こえました。
それを聞いたとき、社員全員が抱き合って喜んだそうです。

ラジオ放送の開始に伴い、このラジオは爆発的に売れました。
そして昭和4(1929)年には、鉱石ラジオに替わる新技術の交流式真空管ラジオを発売しました。
以後、相次ぐ新製品の開発などで、「ラジオはシャープ」の名を不動のもにしていったのです。
ラジオの普及と共に業績は拡大し「早川金属工業研究所」は、昭和17(1942)年には「早川電機工業」に社名を変更しました。
ところがこの昭和4(1929)年というのは、ブラックマンデーから世界大恐慌が起きた年です。
関東大震災で壊滅した首都東京と、有名な「震災手形」で、日本国内は、明治以来最大のデフレ経済へと向かっていったのです。
そんな中で徳次は、貧しい人、不幸な人、身障者を積極的に雇用し、また援助の手を休めませんでした。
徳次には、東京で、自分を最後まで励ましてくれた社員たちを捨ててきてしまったという、心の負い目がありました。
だからこそ、彼は、自分にできる最大の貢献を、大阪にいる社員たちのためにし続けたのです。
早川徳次は、晩年、色紙を求められると必ず、
「なにくそ」
と書いたそうです。
どんなに苦しくても、いじめられても、ほんとうにヤバイと感じる情況に陥っても、絶対に負けない、くじけない。
「なにくそ」と頑張る。
いま日本という国は、建国以来最大の国難の時代をむかえてると言われています。
そういうときだからこそ、「なにくそ」と誠実に頑張る。
頑張ってがんばって、がんばりぬいた先に未来がある。
そんな気がします。
この記事は2010/1/23の記事をリニューアルしたものです。

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