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桜花
桜花

昭和20年(1945)3月21日、一式陸上攻撃機搭載のロケット特攻機「桜花」による神雷桜花特別攻撃隊の野中五郎大佐以下、九州沖に初出撃し散華されました。
桜花(おうか)というのは、大東亜戦争の末期に実戦に投入されたロケットエンジンを搭載した特攻専用機です。(写真)
大東亜戦争の時代の我が国に、世界最先端のロケットエンジン搭載の飛行機でしたが、まだ自力で離陸することができませんでした。
なので一式陸攻の下に吊るされて敵地まで飛び、上空で親機から切り離されたあと、ロケットを噴射して、一直線に敵艦に向かって突撃しました。
搭載する爆弾は、1200kg爆弾です。
通常の航空機による特攻の5倍近い威力の爆弾を搭載しました。
そして1040km/hという、音速に近いスピードで、一直線に敵艦に体当たり突撃するのです。
成功すれば、その破壊力はすさまじいものです。
ところが桜花の搭載したロケットエンジンは、一瞬で燃料を燃やしつくしてしまいます。
つまり、航続距離がないのです。
桜花の航続距離は、わずか37kmでした。
30キロというのは、上空と海上とでは、最早目と鼻の先です。
すぐそこに見える距離です。
飛行機に乗って空港に着陸するとき、空港近くまで降りてきた飛行機から、付近にいる漁船などが見えますが、その距離がだいたい30キロです。
そこまで近づいて、切り離されて、まっすぐに敵艦に向かったのです。


桜花は、2トンを超える重量があります。
ですから、さしもの一式陸攻も、桜花を懸吊すると「飛ぶのがやっと」という状態になります。
つまり速度が出ず、小回もきかなくなります。
ですから敵の戦闘機に襲われたらひとたまりもありません。
桜花を懸吊した一式陸攻は、戦闘機であるゼロ戦に警護を固めてもらって、敵艦隊に近づきました。

一式陸攻に懸吊された桜花
一式陸攻に懸吊された桜花

この頃の米艦隊は、特攻対策として高射砲の砲弾に「近接信管」を搭載していました。
「近接信管」というのは、砲弾を中心に半径15メートルに電波が発射されていて、その電波が飛行機を察知した瞬間に爆発するというものです。
そして砲弾の中には、無数の鉄片が仕込まれていました。
近接信管を搭載した砲弾が、特攻する桜花の近くで炸裂すると、パイロットは大怪我をし、あるいは即死し、機体は穴だらけになって吹き飛びます。
こうした近接信管を搭載した砲弾を、米艦隊は突入してくる桜花めがけて、一斉に何百発と撃ち込むのです。
ですから特攻は本来、機体の小回りを利かせ、敵砲弾をかいくぐらなければ、敵艦に近づけなかったのです。
けれど桜花は、速度が速いかわりに、一直線にしか飛べません。
米軍の間では、桜花は、「BAKA BONG(おバカ爆弾)」とあだ名されたといいます。
私達は航空戦の素人ですが、そんな素人でも、以上の説明を聞けば、桜花の出撃がいかに危険なリスクを負ったものかがわかります。
当時のパイロット達は、航空線のまさにプロフェショナルです。
しかも、航空兵に採用されるような人たちは、とびきり優秀なパイロットたちです。
プロであるがゆえに桜花作戦の危険性、無謀性は、私達より何十倍も承知しています。
それでも彼らは飛び立ちました。
なんのためだったのか。
どうしてそうまでして戦ったのか。
そのことを、わたしたちは同じ同胞として、きちんと考える必要があると思います。
桜花の最初の出撃は、戦局押し迫った昭和20年3月21日です。
この5日後には、沖縄戦が開始されています。
まさに米艦隊が、沖縄めがけて続々と押しかけてきていた頃でした。
日本としては、なんとかして敵の沖縄上陸を阻止し、遅らせ、民間人の避難を促進したい。
けれど、すでにこの時点で、帝国艦隊は最早壊滅し、空母もなく、沖縄近郊の制海権、制空権は、完全に奪われていたのです。
飛ばせる飛行機もない。
飛行機を飛ばすためのガソリンも、残り僅かです。
この時期、日本の航空隊は、練習機に積んだガソリンは、まともな石油ではありません。
ひとことでいえば、サラダ油をガソリンの代わりに積んで飛んでいたようなものです。
私も、ハイオク仕様の車に、もったいないからとレギュラーガソリンを入れて走ったことがありますが、クルマの性能は、激落ちでした。(あれ以来、二度としていません)。
戦後のことですが、米軍が日本陸軍の四式戦闘機「疾風(はやて・ゼロ戦の後継機にあたる)」に、米国製のオクタン価の高いガソリンを入れて飛ばしました。
すると疾風は、当時世界最強といわれたP51ムスタングよりも高い性能を示しました。
ちょっと脱線しますが、日清、日露から、第一次世界大戦の頃までは、世界の資源エネルギーの主役は石炭でした。
その石炭は日本で産出します。
ですから日本は、またたく間に世界の最強国の仲間入りを果たすことができました。
ところが、その後にエネルギーの中心は、効率の良い石油にとって変わられました。
当時の日本は、石油は産出しません。
わずかばかりの石油が新潟などで産しましたが、国内のエネルギーをまかなうには充分ではありませんでした。
結果、ABCD包囲網で石油の輸出を止められた日本は、乾坤一擲の大勝負に出ざるを得ないところまで追いつめられ、そうしてはじまったのが大東亜戦争でもありました。
ところが、昭和43年、連合国アジア極東経済委員会(ECAFE) は、尖閣領海の海底に、約1千億バレルの石油埋蔵を発見しました。
いま、China共産党政府が我が国の尖閣諸島や沖縄を狙っていますが、それはこの石油が目当てです。
そして、もし日本が昭和初期、あるいは大正期にはこの石油の掘削を開始していたとしたならば、日本は大東亜戦争をする必要さえなく、多くの命が救われたかもしれないと考えると、たいへんに悲しい気持ちになります。
神々のご意思は、計り知れないものですが、もしかすると我が国の八百万の神々は、地上で人が国ごと人を支配する(ウシハク)植民地統治を終わらせるために、あえてこの領海内の石油を戦前の日本に知らせなかったのかもしれません。
さて、その大戦中は、いまで言ったらハイオク使用のクルマに、軽油かサラダ油を入れて走らせるようなもので、当時の飛行機は、本来ある性能を十分に発揮することができないという状況でもありました。
けれど、それでもなお、わたしたちの、若き日の祖父たちは、沖縄を守るために、全力を尽くそうとしていました。
圧倒的な兵力を持った敵に対し、わずかな兵器で戦わざるを得ない。
その兵器も、本来持つべき十分な性能を発揮できない。
そんな状況の中で、問題山積みの兵器とはいえ、「桜花」出撃やむなし、との決断が下されました。
万にひとつでも、攻撃を成功させれば、あるいは攻撃が成功しなくても、敵は日本本土から飛んでくる特攻隊への防戦に注力せざるを得ない。
そのために敵は、相当数の兵力を防備に割かざるを得なくなります。
そうなれば、米軍の沖縄上陸は遅れ、遅れた分、沖縄内では米艦隊からの艦砲射撃対策のための掩蔽壕や、民間人避難のための防空壕をほんのわずかでも強化できる。
そして沖縄攻撃を少しでも遅らせることができれば、戦場となるエリアから民間人を避難させることもできる。
「桜花」は飛び立ちました。
沖縄戦では、多数の民間人が犠牲になられました。
このことがいまだに沖縄に暗い影を落としているといわれています。
けれど、すこし考えたらわかるのですが、軍が戦闘をするとき、民間人がいては、軍はその機能を存分に発揮できません。
なぜなら、民間人の避難や保護に兵力を割かれるし、けが人が出れば、その救急対策にされに兵力を割かれます。
ただでさえ、少ない兵力、乏しい戦力で戦わなければならない日本軍にとって、戦場に民間人がいたら、正直困るのです。
ですから、軍は、沖縄戦に先んじて、沖縄の民間人の本土への疎開を遂行しようとしました。
しかし、これに反対し、沖縄県民を戦地という危険に晒したのは、ほかならぬ沖縄県知事でした。
このことは、拙稿の≪沖縄の二人の知事・・・泉守紀と島田叡≫に詳しく書いているので、お時間のある方はご覧ください。
ともあれ、沖縄には、まだまだ多数の民間人が残っていました。
沖縄県民をひとりでも多く救うためには、本土に残るわずかばかりの兵力をもって、米軍に挑み、米軍の注意を本土側にそらしておく必要があります。
そのために、沖縄に近づこうとする米艦隊を迎撃するために、「桜花」は出撃しました。
それは昭和21年3月21日のことでした。
この日出撃した部隊は、桜花を懸吊した一式陸攻18機、桜花15機、そして護衛のためのゼロ戦30機でした。
部隊は、敵艦隊のはるか手前で、進撃中に敵艦隊にレーダーで捕捉されました。
そして上空で待ち構えたグラマンF6F戦闘機28機の待ち伏せにあい、迎撃されました。
一式陸攻を守ろうとゼロ戦部隊が対空戦を挑み、一式陸攻がまる裸状態になったところに、別なグラマン部隊が襲いかかりました。
陸攻機は全機が撃墜され、ゼロ戦隊も、30機中10機が撃墜されました。
無理をして一式陸攻から飛び立った桜花もあったけれど、飛距離が足らず、海中に没しました。
この戦いで後ろを取られ、必死で機体を左右に滑らせて射線をかわしながら、ついに被弾して一瞬で火を噴き爆発、桜花を吊ったまま墜落する一式陸攻の姿を記録したF6Fのガンカメラ映像が残っています。
下に動画を張りますが、翼をもぎ取られ落下する一式陸攻には、一機につき10名の歴戦の搭乗員が乗っていました。
そして全員が還らぬ人となりました。
この特攻について、後世の人たちからは、特攻を意思決定した宇垣纏中将に対し、たくさんの非難が寄せられました。
命を犠牲にして特攻を行うことを前提に出撃した桜花の搭乗員だけでなく、運搬役の一式陸攻まで全機未帰還となっているのですから、責任者の責任を追及する声が上がるのは仕方がないことです。
しかし、上に述べたように、他に沖縄戦を阻止する効果的な方法がない中で、なにがなんでも敵の沖縄上陸を阻止することを至上課題とした当時の状況にあって、他にどういう判断のしようがあったのか。
防備のために同時に出撃した戦闘機ゼロ戦隊にしても、攻撃隊指揮官の野中五郎少佐が、護衛機70機を要求したのに、30機しか付けられなかった、という人もいます。
しかし、実際には、このときゼロ戦は、なけなしの飛行機のなかで、55機が出撃しているのです。
この時点では、整備できている飛行機「ありったけ」の戦力でした。
ところがその戦闘機も、途中でエンジン不調となり、25機が途中で引き返してしまっています。
その結果が、護衛の30機だったのです。
桜花は、その発射訓練からして、たいへんなロケットでした。
訓練生は、上空を飛行中の一式陸攻の機体の中から、下に吊るされている桜花に、体ひとつで飛び降りて搭乗したのです。
飛行中の機体に吊るされた桜花は、上下左右に激しく揺れ動いています。
その揺れ動く小さな桜花の小さな狭いコクピットに、パイロットは上から飛び移るのです。
それを上空何千メートルという上空でやる。
パラシュートも付けずに、飛び降りる。
一歩間違えば、そのまま転落死です。
ようやく桜花に乗り込むと、一式陸攻は、桜花を機体から切り離します。
切り離された桜花は、その瞬間、数十メートル落下し、落下しながらエンジンに点火します。
そしてまっすぐに目標に向かって飛ぶ。
訓練では、桜花は、地上に着陸します。
しかし、翼の小さな桜花は、低速で着陸しません。
猛スピードで、地面に激突するようにして着陸する。
この着陸訓練で、桜花の搭乗員は、何人も命を落としています。
その過激な訓練を経由して、生き残った最強の兵士だけが、死ぬことを目的とした特攻作戦に参加しました。
彼らはそこまでして、私達の国を守るために、沖縄を守るために出撃し、散っていかれました。
ひとつ申し上げたいことがあります。
彼ら搭乗員たちは、指揮官も含めて、誰より命を大切にする人たちであったということです。
そして桜花の出撃が、どれだけ危険なことかを、プロである彼らは、後世に安全なところにいて、いろいろごちゃごちゃ批判している誰よりも、その危険をよく知っていた男たちでもありました。
それでも彼らは出撃しました。
無理とわかっていても出撃しました。
何のために?
沖縄を守るためにです。
祖国の大地を敵に踏ませないためです。
それは、かげがえのないものを、どこまでも大切にしようとする思いやりの心があったからです。
このときの作戦で攻撃隊指揮官となった野中五郎少佐は、「激戦の中で、部下を死なせない」ことを誇りとした指揮官です。
けれど、彼はひとりだけ部下を失ったことがありました。
夜間攻撃で、敵の船に魚雷を撃ち込むために海面すれすれに飛行したところ、いきなり横から割りこんできた敵の別の船にあやうく衝突しそうになったのです。
彼は、急上昇してこれを避けようとしました。
けれど、そのとき一式陸攻の尾翼が海面を叩き、後部銃座にいた部下がその衝撃で吹っ飛び、亡くなってしまったのです。
数多くの航空線を戦いぬいた野中少佐の、それが唯一の部下の損失でした。
彼はそのことにずっと悩み、二度と部下を、絶対に死なせないと誓っていました。
彼は最後の突撃で、自らの命を失う日まで、その一時以外、いっさい部下を失うことはありませんでした。
その彼が、最後の出撃のとき「湊川(みなとがわ)ですな」という言葉を残しました。
「湊川の戦い」というのは、建武3(1336)年の足利尊氏と楠木正成の戦いです。
いったん九州に疎開した足利尊氏が、3万5千の大軍を率いてやってくる。
迎え討つ楠木正成は、わずか七百の手勢です。
勝てる見込みはありません。
楠木正成は、このとき「正成存命無益なり、最前に命を落すべし」と語り、5月25日、湊川で両軍は激突し、多勢に無勢ななか、六時間におよぶ激しい戦いの後、正成軍はわずか73人になってしまいました。
最期をさとった正成は、生き残った部下とともに民家に入り、七生報国を誓って全員自刃しています。
湊川の戦いの詳しいお話は↓コチラ
楠木正成と七生報国
野中大佐が「湊川」に例えたということは、彼がこのときの出撃がどういうものであるかを十分に悟っていたということです。
野中五郎大佐
野中五郎大佐

野中五郎少佐は、明治43年、東京・四谷のお生まれです。
子供の頃から明るく、周囲を笑いの渦に巻き込む天賦の才があったそうです。
学生時代は、クラシック音楽が好きで、レコード屋に入り浸ってレコードを買い求める音楽青年でもありました。
大東亜戦争の開戦と同時に、当時大尉だった野中は、一式陸攻の分隊長として、フィリピン、ケンダリー、アンボン、ラバウル、ソロモンと転戦しました。
そして、巡洋艦、輸送船合わせて四隻を撃沈しています。
ラバウル時代には、草鹿任一第十一航空艦隊司令長官から武勲抜群として軍刀を授与されてもいます。
昭和18年11月のギルバート戦では、彼が発案した「車がかり竜巻戦法」で、米軍を悩ませもしました。
これは、薄暮、単縦陣で海面すれすれに飛行し、敵艦船を遠巻きにして、その周りを回り、最後尾の機に先頭の隊長機が迫って輪のようになる。
そして照明弾を落とすと、敵が光にさらされて姿を現す。
そこを全機で魚雷攻撃するというもので、多数の米艦船がこの攻撃で沈みました。
野中五郎大佐の趣味は茶道でした。
南方では出撃前にも翼の影で野点に心を鎮めていた方でした。
彼は新任の部下に、
「若え身空で遠路はるばるご苦労さんざんすねぇ。しっかりやんな。お茶でも入れようか」と声をかけ、面くらわせたりもしています。
言葉づかいはべらんめい調が特徴でした。
けれどそこに飄々とした味があり、とにかく部下思いの優しさから多くの部下たちに慕われいました。
彼の部隊は、いつしか「野中一家」と呼ばれるようになっていたそうです。
茶をたてる野中少佐
茶をたてる野中少佐

その「野中一家」に、桜花部隊が命ぜられたのです。
「桜花」は、出撃=死を意味する部隊です。
野中隊長は、そんな彼らを見渡し、朝礼台で挨拶されました。
「どいつもこいつも不適な面魂をしているナ。誠に頼もしいかぎりである。この飛行隊は日本一の飛行隊である事は間違いねぇ。何となれば隊長が日本一の飛行隊長だからであ~る。
かく言う俺は何を隠そう、海内無双の弓取り、海軍少佐中野五郎であーる。
かえりみれば一空開隊当初より、大小合戦合わせて二百五十余たび。いまだかって敵に後ろを見せたことはねぇ!」
講談調でたたみかけるように話す野中隊長に、いつしか兵たちは ニヤリと笑い、表情に力強さが戻ったそうです。
この様子を見ていた人の談によると、野中五郎少佐の訓示は、なにやら自分の心に勇者の魂が乗り移ってくるような不思議な魔力があったそうです。
昭和19(1944)年10月、「桜花」による特攻部隊、第721航空隊(通称:神雷部隊)が編成されたとき、野中少佐は、「桜花」を搭載して出撃地点まで運ぶ陸攻隊の指揮官に任ぜられました。
野中はその豊富な戦歴から「桜花」の運用の難しさを即座に見破ります。
そして、
「この槍使い難し。日本一上手い自分が攻撃をかけても必ず全滅する」と予言しています。
さらに、たとえ国賊と罵られても桜花作戦を止めさせようと、再三にわたり上官に進言を繰り返しました。
もし、桜花を抱いて出撃することになったなら、本来なら一式陸攻は「桜花」を切り離したら帰還すれば良いのだけれど、「部下たちだけを突入させて帰って来られるか。自分も体当たりする」と公言していました。
昭和20年1月、神雷部隊は鹿児島県鹿屋基地に進出しました。
野中大佐はこのとき、大事にしていた茶道具を、すべて家に送り返しています。
もはや、生きて還ろうとは考えていなかったからです。
桜花の出撃のためには、大多数の戦闘機による一式陸攻の護衛が必要です。
鹿屋基地には、3月18日の時点で、国内全基地から集められたゼロ戦や紫電改など戦闘機百数十機が待機しました。
しかし、そこに米軍の大空襲が行われました。
3月20日、同僚の林大尉に、野中は語っています。
「戦闘機も、もうろくすっぽねえってーのに、司令の野郎(桜花攻撃を)引き受けてきやがって。あのおっちょこちょいめ、どうしようもねえよ。
今回おれは腕っこきをよりすぐって行くよ。それで成功すればしめたものだが、まず成功しないよ。命にかけても(司令は)駄目だとがんばるべきだったが、引き受けてしまったからには仕方がない。
(作戦は)必ず失敗するだろう。その結果を見て林君、特攻なんてこんなもん、ぶっつぶしてくれよ。頼んだぜ。」
3月21日の朝、偵察機が都井岬の南東320浬付近で空母二隻を中心とする機動部隊を発見しました。
桜花を搭載した一式陸攻が出撃態勢に入りました。
そのとき、この作戦が万に一つも望みのない作戦だと知っている岡村司令は、危険な任務には指揮官が先頭に立つという日本海軍の伝統に従って「自分が陸攻に乗って直接指揮する」と主張しました。
野中大佐は、「司令が出るのはおかしい、海軍の規制どおり飛行隊長の自分が指揮をとる」と主張し、二人は大声で激しい言葉で応酬しました。
そして野中大佐は言いました。
「司令、そんなに私が信用できませんか」
そのひとことで、野中大佐は岡村司令をついに押し切りました。
そして部隊の指揮を執って出撃されました。
同日午前、第一桜花攻撃命令が発せられました。
一式陸攻18機が 鹿屋基地に並びました。
搭載する桜花は、編隊の都合で15機です。
護衛戦闘機は72機の予定が、空襲で破壊されて、55機に減っていました。
野中は岡村司令以下、整列した幹部と別盃を交わしたあと、改めて岡村と惜別の挙手の礼をし、指揮官機のほうに向かいました。
このときの様子を、当事七二一空の整備分隊長であった高科伸一氏が、次のように伝えています。
「野中隊長は、二、三歩進まれたところで、ひょいと振りかえられました。私と目が合い、そのとき私には、隊長の眼がかすかに笑ったように感じられました。
野中隊長は、おう、貴様も見送ってくれているのか、あとを頼むぞという感じで、左手に軍刀をぶら下げ、淡々とした足取りでした。そして野中隊長は、軽く首肯して再び歩き出されました。」
野中大佐は、高科らが格納庫で機体を整備中に二回訪れて「ご苦労さん」と、ねぎらっています。
多忙ななかで、自分の命が尽きようとしているのに、機体整備という陰の作業に気配りをされていたのです。
そんな野中大佐に、整備員たちは感激したし、そのときの野中大佐の笑顔が思い出され、高科さんはこみあげてくるものを抑えることができませんでした。
野中大佐は出撃隊員の正面に立ち、大音声で訓示しました。
「ただいまか ら敵機動部隊攻撃に向かう。まっすぐに猛撃を加えよ。
空戦になったら片っ端からたたき落とせ。
戦わんかな、最後の血の一滴 まで。
太平洋を血の海たらしめよ!」
次いで桜花隊の三橋分隊長が部下に訓示しました。
「いまさら言うこともない。 みんな一緒に行こう!」
21日、午前11時35分、部隊は鹿屋を発進しました。
空母群から60海里の上空で、部隊は、グラマンF6F戦闘機群の襲撃にあいました。
重い荷物を抱え、スピードの遅い一式陸攻は残らず撃墜されてしまいました。
敵戦闘機からやっと 逃れて帰投した直掩機が、味方は十数分で全滅したと桜花特攻の最期を報告しています。
未帰還者は野中隊長をはじめ総勢160名でした。
34歳の野中大佐は、妻と二人の幼児を残したままの死でした。
以下は、野中五郎少佐(没後二階級特進して大佐)が、亡くなる前に愛児に宛てて書いた手紙です。
=======
ぼー まいにち おとなちく ちてるか
おばあちゃまや おじちゃまが
いらっちゃるから うれちいだろう
おたんじょうび みんなに かわいがられて
よかったね おめでとう おめでとう
おとうちゃまは まいにち あぶーにのって
はたらいている
ぼーが おとなちくして みんなに 
かわいがられているときいて うれちい
もうちょろちょろ あるかなければいけない
はやくあるきなちゃい
おかうちゃまの いうことをよくきいて 
うんと えいようをとって ぢょうぶな よいこどもに
ならなくてはいけない
ちゅき きらいのないように なんでも 
おいちいおいちいってたべなちゃい
でわ さようなら 
おとうちゃまより
ぼーへ
========
私は「日本軍は沖縄を見殺しにした」などと言っている人に言いたいです。
「あなたは、失敗する、死ぬとわかっていても、それでもなお、沖縄を救うために出撃した野中五郎大佐以下160名の前で、その言葉を言えますか」と。
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被弾して墜落するのが野中隊長機

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